花のある道 #1

今回は「青葉園」の藤の花がメインですから歴史と花を辿る散策ルートです。
そこで西区で発行している「西区ふれあい散歩みち 花のある道」を参考に散策することにしました。
上尾市とさいたま市西区の市境にある公園からが出発です。

大宮花の丘

自宅から30分程度で到着したのが「大宮花の丘」です。
大宮花の丘 入口には大宮花の丘と刻まれた岩が置かれています。

一応ここが正式な正門となるようですが、道を挟んで反対側も公園になっているようです。
先ずはこちら側を散策してみます。

大宮花の丘のご案内
大宮市ふるさと農林公苑(愛称:大宮花の丘)は、一般廃棄物の最終処分場としていたこの地を、地域の皆様のご協力のもとに21世紀を展望した潤いある緑豊かな環境づくりを目指し、平成2年大宮市制施行50周年を記念して四季折々の草花を咲かせる一大お花畑として建設しました。
これからも花に囲まれ楽しんでいただける施設としてさらに整備してまいりますので、草花類を大切にしてごゆっくりお過ごしください。
(園内案内板説明文より)

全体では11,3haの広さだそうなので、おおよそ東京ドーム約2,5個分ということです。
そのうちの約半分が花畑だそうですから一大お花畑に相応しい規模といえるのでしょう。

こちらには「和風園地」という庭園があります。

和風園地 和風園地 黄色と紫色の(多分菜の花と・・・、こうゆうのは苦手なんです)鮮やかなコントラストが印象的な一画があり、その奥には綺麗な花壇があります。

この花壇はこれだけでも十分綺麗なのですが、季節が上手く合うと黄色の花の間に赤いチューリップが咲き、後ろの桜がピンク色に染まるという見事な光景に出会えるようです。

和風園地 横のチューリップは僅かに残っていますが、殆ど終わってしまった後です。

山野草展 「和風園地」の先は「緑のふるさとセンター」といういわゆる管理事務所なのですが、今日は山野草展が開催されていました。

山野草展 山野草展 山野草といわれると変哲も無い野山で自生する野生植物というイメージなのですが、それらの1つ1つに焦点を当てると単なる野草も違った価値観を持つといった意味合いでしょう。

園芸植物といえばある意味華美になる方向にあるのですが(それはそれで決して悪いことではないのです)、その対極として素朴、ナチュラルといった自然回帰の園芸があっても不思議ではないでしょう。
めったに見る機会もないのでちょっと見聞を広められました。

道を挟んだ反対側の公園に移動します。
大宮花の丘 細長い公園です。

左側に整備された花壇とモニュメントがあります。
このモニュメントはカリヨンの華というものだそうで、定時に音楽を奏でるものだそうです。
右側は親水公園ですが時期ではないからか、あるいは節電の為なのか水は流されていません。

大宮花の丘 中央の通路を進むと小高い丘があります。
もう少し後になるとツツジで埋め尽くされるのでしょう。

この丘が花の丘の愛称の元になったものだそうで、頂きは公園一円を見渡せる眺望があります。

大宮花の丘 大宮花の丘 親水公園方向は季節的には少し寂しい光景ですが、鉄塔もこうすればアートなのかもしれません。

ビオトープ ビオトープ 先を見渡すと川が流れていて、その先にははね橋と石橋を見ることができます。

ビオトープ この川は細長い池でビオトープなのだそうです。

ビオトープとは、生き物(Bio)がありのままに生息活動する場所(Top)という意味の合成されたドイツ語で、開発優先への反省にたち、自然が自ら再生できるように人間が配慮する運動として、1970年代にドイツで始められましたものなのです。
したがって本来は自然環境そのものがビオトープといえるのですが、狭義では都市部などで人工的に再構成された自然環境を言うことになっています。
元々この「花の丘」辺りは自然環境だったのですが、処分場としたことから自然を失ってしまった開発からの自然回帰といえるのでしょう。
花と水に彩られた自然に近い公園として、小さい子供のいるファミリーにはうってつけの施設だと思います。

清河寺

花の丘から10分くらいでしょうか道路から少し奥まった場所にある「清河寺」に到着です

清河寺 かなり広そうな境内ですが、堂宇も少なく非常にスッキリとした境内です。

清河寺 清河寺 山門 参道横の綺麗なツツジの先には山門、本堂が一直線に並んでいる禅寺特有の配置が見て取れます。

清河寺 山門を抜けると一直線・・・、ではなくクランクになっているのは何故、と再建時に何かあったのかとも思わせられるのですが、所詮は瑣末なことです。

清河寺 鐘楼 参道の右側には古い地蔵尊や新しい六地蔵などがあり、その後ろに鐘楼があります。

清河寺 本堂 本堂はかなり新しいようで非常に綺麗な本堂なのですが、実はこの「清河寺」は古刹なのです。

「清河寺」は室町時代の鎌倉公方足利基氏が兄竹若の菩提を弔うため、延文5(1360)年に建立した鎌倉円覚寺の末寺ですので650年以上の歴史を持つ古刹といえます。
足利基氏とは室町幕府初代将軍足利尊氏の三男で、母は正室の赤橋登子(登子の子としては次男)です。
足利一門の内紛から発展した観応の擾乱が起こったことから、尊氏が鎌倉にいた嫡男である義詮に次期将軍として政務を担当させるため京都へ呼び戻したことにより、貞和5(1349)年に基氏に鎌倉公方を命じたという経緯なのです。

年月以外にも足利持氏や岩槻城主太田資正らの寄進状などの古文書や、江戸時代の5石の朱印状などが残されているのもその証といえそうです。この古文書は「清河寺文書七点」として県指定の文化財となっているそうです。
さらに古刹としての証はその寺号にもあり、名称がそのままその周辺の地域の地名になっていることからも理解できます。

最後にこの「清河寺」にあるケヤキを見学ですが、「清河寺」の隣にあるということなので探してみましたがそれらしいものがありません。

清河寺の大ケヤキ 清河寺の大ケヤキ 近くの人に尋ねると隣の住宅の裏手にあるとのことで行ってみると確かに存在感のあるケヤキがありました。

清河寺の大ケヤキ
所在地:大宮市大字清河寺778番地の2 指定:昭和33年3月20日
神明社の御神木として、長い間あがめられてきたこのケヤキは、樹高32メートル、幹回り8,5メートル、根回り14,3メートル、推定樹齢650年の巨木です。
雄大な樹形をもち、4月から5月上旬にかけて、雌雄異花の淡い黄緑色の小さな花をつけます。
ケヤキは、双子葉植物・ニレ科の落葉高木で、国内では本州・四国・九州に分布しており、武蔵野を代表する樹木として「県の木」・「市の木」に選ばれています。
平成9年3月 埼玉県教育委員会・大宮市教育委員会
(現地案内板説明文より)

何故これだけの大ケヤキが見つからないのかといえば、1本だけでなく他の樹木と一緒になっているためと、「清河寺の・・・」という名称からの誤解ということになるでしょう。
清河寺の大ケヤキ 少しはなれたところから見るとこのように特に大ケヤキが存在する気配がありません。

更に説明にあるとおり神明社の御神木であって、「清河寺」とは寺院名ではなく、地名の意味であったことです。実にややこしい名称ではあります。
清河寺の大ケヤキ その神明社が大ケヤキの横にある社で、高さは当然ながら太さでも神社より大きいというのも非常に面白い光景です。

清河寺の歴史とほぼ同じ樹齢ではありますが、そうなると横に神明社も650年以上の歴史があるということになります。侮れがたし神明社というところでしょう。
因みに幹の下部分だけ見ていると恐竜の足の様に見えるのは私だけでしょうか・・・。

妙玖寺

清河寺をあとにして「妙玖寺」を訪れますが、その前にすぐ近くにある「秋葉の森総合公園」に立ち寄ります。

秋葉の森総合公園 秋葉の森総合公園 エントランスを入った園路の横に駐車場があります。

2004(平成16)年にオープンした公園なので比較的新しい公園です。

現在広さは7,5haだそうなので「大宮花の丘」よりは小さいのですが、計画面積全体では20haだそうなので約倍の大きさになる予定だそうです。
現在の半分以上を占めるのが自然観察ゾーンと呼ばれる遊歩道のあるエリアだそうですが、それとは別な目玉が天然芝のサッカー場です。

秋葉の森総合公園 正面に見えるのがそのサッカー場で、左手の建物が管理事務所、そして右側には多目的広場として野球やゲートボールなどができるそうです。

秋葉の森総合公園 このサッカー場のピッチサイズは105m×68mで観客席が何と300席もあるということで、ここは大宮アルディージャの練習場なのです。

大宮アルディージャのフランチャイズはさいたま市大宮公園内の「NACK5スタジアム大宮」ですが、練習場は幾つかあるようですがやはりフランチャイズとしてはさいたま市、それも旧大宮市内であるとより親しみ易いですよね。
そういった意味で、練習が行われるときはやはりファンが多く集まるようなので、観客席なども多く設置されているのでしょう。
スポーツ施設の他にバーベキュー施設などもあることから、公園のキャッチコピーは自然とスポーツが融合したネイチャースポーツパーク(そのままではありますが・・・)なのだそうです。
今回は園内を散策しませんが、完成した時にでも思う一度見てみたい気がします。

この公園から歩いて5分くらいのところに「妙玖寺」があります。

藤の花 「妙玖寺」へ向う途中こんな藤の木を見つけました。藤棚がない場合、その代わりに近くの樹木に絡まる藤の木はこんなことになるようです。

殆ど藤棚に下がっているものしか見たことがないので、実にワイルド感溢れた藤なのです。

妙玖寺 暫く歩くと交差点の角に中釘山山内院妙玖寺と刻まれた寺号標が立てられています。

かつてはここからが参道だったのでしょうか。

妙玖寺 山門 細い参道を進むと山門に行き当たります。

朱色に塗られたインパクトのある、謂わば赤門ですが、素朴な疑問として一般的に赤門と黒門という2色の門(実際に木目だけの場合でも黒門という場合もありますが)なのでしょうかね。

妙玖寺 本堂 山門を抜けると正面に本堂があります。

質素ではありますが、良く手入れされているといった感じの本堂で参拝をすませます。

山内一唯一族の墓所 境内の左側の一画には「山内一唯」一族の墓所があります。

大宮市指定文化財史跡 指扇領主 山内一唯一族の墓
所在地:大宮市中釘1218 所有者:妙玖寺 指定:昭和41年9月3日
指扇の地が旗本山内氏と関係をもつのは、大阪の陣で軍功のあった土佐藩主山内忠義の実弟・一唯が、元和9年に2代将軍徳川秀忠から指扇領18カ村3000石を拝領したことにはじまります。
4代豊房が土佐山内豊昌の養子となるまで、一唯、一輝、一俊、豊房と67年間、中釘に陣屋を構え当地を治めました。一唯は、荒川の洪水を防ぐため堤防を築き、宝来野を開発して新田をひらくなど多くの治績を今に伝えています。
ここ妙玖寺は、古くは果成寺といいましたが、一唯が母・妙玖院の菩提寺としたことから寺号を改めたもので、墓所には、一唯、一輝、栄松院(一唯の継室、一俊の実母)、法養院(栄松院の実母)の墓があります。
指扇の地が幕府の直轄地となった後も、土佐山内家では代々の藩主が代参を派遣して妙玖寺を崇敬・保護し、多くの仏具を寄進しました。
昭和62年3月 大宮市教育委員会
(現地案内板説明文より)

山内一唯系図 この案内板には家系図が掲載されています。

このように山内一唯は初代土佐山内家領主・山内一豊の弟、山内康豊の4男ということになり、一豊とは伯父・甥の関係になるのです。
そして67年間この地を治めていたのですが、一俊が27歳という若さで死去したため一俊の長男豊房が僅か4歳で相続したのです。
しかし、その頃の本家である土佐藩主の山内豊昌に嗣子が無かったため豊房は元禄元(1688)年に本家の養子となり、元禄13(1700)年には豊昌の死去により土佐藩主となったのでした。
そして養子になった際に指扇領を幕府に返上し直轄地となったため、指扇山内家(山内一唯家)は断絶したのでした。
現在、中釘の陣屋の名残は何も無い様で、ちょうど妙玖寺の南方面にあったそうです。

栄松院、法養院の墓 山内一唯の墓 山内一輝の墓 さてその墓所ですが、恐らく中央の墓が一唯、右側が一輝、そして左側に2基並んでいる墓が栄松院と法養院の墓と思われます。

山内一唯一族の墓 一唯の墓の左後ろには丸に三つ柏の土佐山内家の紋のついた石塀の一端が残っています。

元々は一族の墓所をグルッと囲っていたのではないでしょうか。

山内一唯一族の墓 また、手前には手水鉢が置かれていますが、正面には冷伯院殿と刻まれており、一唯の戒名であるのが見て取れます。

現在この妙玖寺の住職は山内家縁の方だそうで、本家は高知でこちらは分家だそうです。更に本家は神社でこちらは寺院と言うことに何かの導きがあったのかもしれません。
因みに山内の読み方は、土佐山内氏は本家が「やまうち」で分家は「やまのうち」を称したと記録にり、現在でもその習いのようで、この案内板の山内一唯一族の墓のルビは「やまのうち」になっていました。
何はともあれ、このような近くに山内家縁の寺院があったとは実に驚きでした。

関連記事
スポンサーサイト


コメント

    コメントの投稿

    (コメントの編集・削除時に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)


    トラックバック

    Trackback URL
    Trackbacks