上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

花のある道 #3

青葉園から慈眼寺周辺にかけては、さすがにゴールデンウィークとあって一般道でも若干交通量が多く渋滞地点も多々あるようです。
やはりGWを侮ってはいけませんね。

慈眼寺

青葉園から南下して向った先は「慈眼寺」です。
慈眼寺総門 道路沿いに総門があります。小振りながらも存在感を示すかのような門で比較的新しいものでしょう。

慈眼寺参道 慈眼寺閻魔堂 総門の先には階段状になった参道がありますが、参道に右手には閻魔堂があります。平成7年に建立されたかなり新しいお堂です。

文字通り閻魔大王を祀っているのですが、地獄の裁判官は実は地蔵菩薩の化身と考えられていることから十王信仰とともに閻魔大王がクローズアップされたということです。

参道を進むと山門があります。
慈眼寺山門 総門よりは重厚感に溢れる山門です。門には綺麗な彫刻が施されています。

延命地蔵尊 山門の右手には文化文政12年の延命地蔵尊が立っており、更にその右手に由緒書があります。

慈眼寺
当寺は天台宗の古刹で、普光山浄蓮華院慈眼寺と称します。本尊は胎蔵界大日如来。観音堂の本尊は千手観世音菩薩で、足立坂東三十二番札所となっています。
平安時代に開創された寺院は市内に6ヵ寺ありますが、いずれも市域の西部地区に分布しており、当寺はそのうちの一寺です。縁起によると、平安時代の天長3年(826)、第53代淳和天皇の勅により仏法を教え導くために東国を歩かれた、慈覚大師円仁(第3代天台座主)の建立と伝えています。観音堂に秘仏として安置せられる千手観世音像は、同大師が一刀三礼して謹刻されたといいます。
永禄5年(1562)、小田原の北条氏康は岩槻に居城する太田氏の領地をおびやかしましたが、当時、岩槻の慈恩寺とともに太田氏の厚い保護を受け密接な関係にあった慈眼寺は、正月26日、この戦いで焼き討ちを受け焼失しました。そのとき観音堂の本尊千手観世音像は境内の柊の木に避難し鎮座しましたが、一時、木の上から徳光を及ぼしたと伝えています。のち慈恩寺に預けられましたが、住職に夢に現れ「霊意に叶わず」のお告げにより帰座させたということです。
天正18年(1590)5月、小田原の北条勢を攻めた豊臣勢は寿能城を落とし、大宮付近一帯を制圧しました。当寺にはそれを物語る「秀吉の禁制」が残されています。
かつて川越仙波・中院の末寺で普光山浄蓮華寺と称していましたが、いつの頃からか現在の名、慈眼寺にかわっています。一時、寺運が衰えた時期もありましたが、徳川家康の江戸入府後、天海僧上(慈眼大師)の弟子円海上人により整えられ、現在に至っています。家康公から寄進された寺領は10石で、代々寺領を安堵されました。
主な寺宝・・・・・・観音堂本尊千手観音像(鎌倉時代)、慈眼寺文書(市指定・三通)、慈眼寺朱印状(市指定・十二通)、慈眼寺千手観世音縁起絵巻、ヒイラギ(市指定)
昭和58年4月吉日
贈 大宮南西ロータリークラブ
(現地案内板説明文より)

最初に気になったのが平安時代に開創された寺院という件で早速調べて見ましたが、寺院には神社のような延喜式といったようなものがなく各寺院での寺伝や伝承なので明確な創建がわかるものは少ないのですが、とりあえずそう言われている寺院をピックアップしてみました。

さいたま市西区
1.林光寺:貞観5(883)年、益信(本覚大師)が東国巡行の際に建立
2.福正寺:天長5(828)年、天台宗比叡山延暦寺の末寺として慈覚大師円仁により創建
さいたま市桜区
3.薬王院:弘仁4(813)年、弘法大師によって厄災除の精舎が創建されたものが草創
4.金剛寺:建久年間(1190-1199)に畠山重忠が建立し開基(新編武蔵風土記稿)
5.東福寺:創立は平安時代初期と伝えられているが詳細は不明。
さいたま市中央区
6.円乗院:建久年間(1190-1199)に畠山重忠が道場村(現桜区道場)に建立し開基
さいたま市浦和区
7.玉蔵院:寺伝によると平安時代の弘法大師による開山
さいたま市緑区
8.吉祥寺:寺伝によれば平安時代前期の天台宗の僧円仁(794 - 864)が地蔵菩薩を安置して創建
さいたま市岩槻区
9.慈恩寺:天長元年(824)慈覚大師円仁の開山

これに慈眼寺を加えると10寺となります。このなかであえて西部地域と設定すると西区、桜区辺りであることからちょうど6寺となりますが、少なくとも他のものを全く平安時代の創建で無いと言い切れるものでもなさそうなので、この市内に6ヵ寺は非常に難しい選択です。とはいえこれは善し悪しの問題ではなく、そういった寺院の見方も面白いものだと思います。平安時代創建の社寺巡り、というような散策も面白いでしょう。

それと同時に調べている最中に知ったのですが、「足立坂東観音霊場」の32番札所は川口市前川の観福寺となっていることです。

「足立坂東観音霊場」は宝永二年(1705)に足立郡塚越村(現 蕨市塚越 )の高橋休山により、当時の足立郡大宮以南の寺院仏堂をもって創設されたものだそうです。 当初一番札所は大宮氷川神社の別当の観音寺でしたが明治政府の神仏分離令で廃寺することになり、そのときの住職がさいたま市北区の満福寺に退去し聖観音像共に引き継がれたことから満福寺が一番札所となったのだそうです。
霊場はここを振り出しに浦和(現さいたま市)・川口・戸田・浮間(北区)・鳩ヶ谷の各地を巡って、最後の33番・蕨市塚越の定正寺で結所するのですが、ここには開設者の高橋休山の墓があるのです。番外が2ヶ所あるようですが、古文書には「御府内より参詣は川口善光寺よりはじめ・・・」とあるので江戸の人々もわざわざ巡拝したようです。

となると慈眼寺は一体・・・、ということになるのですがまだ続きがあり、この他にも同じ名称で桶川市下日出谷の知足院が札元である観音霊場があろ、こちらは大宮以北の寺院仏堂で構成されているそうです。
前者は「足立坂東観音霊場・定正寺」コースで、後者は「足立坂東観音霊場・知足院」コースとでも言っておきましょうか。そしてこの2つのコースを繋ぐのが前者では1番札所で、後者では33番札所と唯一重複する満福寺となるのです。
そして後者の1番札所が知足院、33番札所が満福寺、そしてその一つ前の32番札所が慈眼寺となるのです。これで納得がいきました。
恐らく高橋休山が蕨市の出身なので最初は大宮以南で設定したのでしょうが、これでは片手落ちとばかり(と思ったかどうか知りませんが)大宮以北のコースも作ったということが考えられますが、或いは大宮以南のコースを真似て、他の方が大宮以北を設定したのかもしれませんが、真相はどうなのでしょうかね。
真相はともかく、この「足立坂東観音霊場」は午年の本開帳と丑年の中開帳とがあり、この年には一定期間秘仏などが参拝できるようになっているそうです。午年の前回が平成14年で、丑年が平成21年だったので、次回は平成26(2014)年の午年の本開帳となるそうです。
そのときはこの観音堂の千手観世音像もご開帳ということですから、その時は巡ってみるのも楽しいかもしれません。

その後の説明にある戦国時代の歴史となると一際興味深くなります。
そもそも説明にある太田氏とは、永禄5年の頃の岩付城の城主としての第4代城主太田資正のことで、太田道灌の曾孫にあたる由緒正しい人なのです。
元々扇谷上杉家に仕えていた太田氏でしたが、そもそも第3代岩付城主の太田資顕は北条氏に従属しており、兄資顕と対立していた弟資正は扇谷上杉氏に従属していました。しかし兄資顕が死去すると武力で岩付城を奪回しするのですが、北条側が巻き返してきたのです。
その後、紆余曲折を経て岩付城を再度奪回する為北条氏との戦いが続いたのでした。
その様な中で秀吉の小田原攻めがあり寿能城が落とされ岩付城は秀吉方の手に落ち北条氏は滅亡したのですが、この寿能城は現在の大宮第2公園にあったそうです。
その小田原攻めの際に資正は小田原に参陣して秀吉に謁見したのですが、故郷である岩付に戻ることは叶わず翌年の天正19年に病死したそうです。
この戦乱に巻き込まれて慈眼寺は焼き討ちにあったわけですが、その際本尊を避難させたというヒイラギは残念ながら見つけられませんでした。どこにあるかはわかりませんが、現在は文化財ではないようです。

こうして秀吉によって関東平定が成されたのですが、その際に出された「秀吉の禁制」は関東一円に出されたことから、現在でも各地に指定文化財として残されているようです。
内容は地域によって若干の違いはあるものの大筋は、
1.軍勢である兵士や従者が郷や村の人々に乱暴や狼藉をはたらくこと
2.放火すること
3.庶民や百姓に無理難題なことを言うこと
以上、3か条を禁止事項とし、もしこれに違反したものは即刻厳罰に処するという内容だそうです。
これは戦場となった郷や村に対しての宣撫工作であり人心収攬を目的としたものなのです。古の平家時代や木曾義仲の時代から常に問題になってたことですから、寝業師秀吉ならいとも簡単に考え付くことでしょう。
この「秀吉の禁制」が慈眼寺文書(市指定・三通)のうちの1通で、他の2通が岩槻太田氏関係文書だそうです。また慈眼寺朱印状(市指定・十二通)が徳川家康の寺領寄進状以下徳川氏代々の朱印状だそうです。
慈眼寺だけでも随分面白い歴史を知ることができますね。

慈眼寺本堂 本堂に進んで参拝を済ませます。

一般的に観音堂が主たる寺院では、本堂が無かったり殆ど目立たない本堂だったりします。
萩日吉神社流鏑馬祭】で訪れた慈光寺や、【安行の植木】で訪れた西福寺などはその一例でしょう。それに反して慈眼寺では実に立派な本堂が建立されていて、超メジャーな寺院は別として埼玉県辺りでは非常に珍しいケースといえるのではないでしょうか。
この本堂は昭和50年に再建されたもので存在感を示しているかのような堂々たる荘厳な本堂でした。

山門に戻ってそこから観音堂に移動できるのですが、ここは一旦総門から出て、仁王門から入ることにします。

水波田観音仁王門 華美な彫刻などはありませんが、朱色の鮮やかさが本堂の漆黒と良いコントラストをなしています。

当然仁王門には阿吽の金剛力士像、その後に風神・雷神がお約束ですが、やはりお約束どおり鎮座しています。

吽像 阿像 左が吽像で、右が阿像です。
余り奇を衒ったものではなくオーソドックスな阿吽像です。全国各地には結構ユニークな阿吽像がありましたから仁王門のあるところは阿吽像は必見です。

雷神 風神 こちらの風神・雷神は綺麗な彩色が施されていて中々の見ごたえです。

水波田観音鐘楼 水波田観音観音堂 仁王門をくぐると右手に「鐘楼」があり、正面に「観音堂」が鎮座しています。

観音堂彫刻 観音堂は非常に華麗な彫刻が施されていて、絢爛豪華な観音堂といえるでしょう。

こちらの観音堂は正式には「水波田(ミズハタ)観音」と呼ばれ、この周辺の地名が水判土(ミズハタ)ですから、歴史ある観音堂であることの一つの証です。今までの経験上、その土地の地名と同じ名称の社寺は殆ど間違いなく古刹です。
由緒にもあるとおり慈覚大師円仁が一刀三礼して謹刻した千手観世音像を祀っているのですから、どれだけの由緒をもっているかということになります。
これだけの古刹で江戸時代には興隆を誇った「水波田観音」ですが、明治に入って危うい運命が待ち構えていたようです。 それは明治期になって行われた「廃仏毀釈」の嵐です。
一般に「廃仏毀釈」と言えば慶応4年の「神仏分離令」と明治3年の詔書「大教宣布」による政策のことで、そもそもは神道と仏教の分離が目的で仏教排斥を意図したものではなかったのですが、結果として廃仏毀釈運動といわれる民間の運動を引き起こしてしまったのです。
この運動により神仏習合の廃止、仏像の神体としての使用禁止、神社から仏教的要素の払拭などが行われ、祭神の決定、寺院の廃合、僧侶の神職への転向、仏像・仏具の破壊、仏事の禁止などを急激に実施したために仏教界は大混乱に陥ったのです。
これは僅か2、3年で収束したのですが、その結果は非常に大きかったようです。

その「廃仏毀釈」の嵐が起こったころの「慈眼寺」の境内にはそもそも「足立神社」が鎮座しており、「慈眼寺」は元来足立神社の別当寺だったようです。江戸時代以前では神仏習合が許されていて神社に付属して寺院があり、神前読経など神社の祭祀を仏式で行う場合を取り仕切る寺院で、この儀式を行うものを別当と呼んだことから別当寺と呼ばれるようになっていたのです。
何故平安時代からの由緒ある「慈眼寺」が別当寺かといえば、それよりも更に「足立神社」が由緒ある神社だったからのようです。時の朝廷の廷喜式神名帳にも掲載されているほどなのですから。

しかし、江戸時代の庶民信仰の篤さや江戸幕府からの加護により、徐々に立場は逆転し庶民信仰の篤さなどから廃仏毀釈にも何とか耐え、その後の神社合祀令により、足立神社は付近の14の神社を合祀し、かつて氷川神社のあった地に「足立神社」として遷座したのでした。その「足立神社」は現在「慈眼寺」の前の道路の先に鎮座しているそうです。
因みにその当時、旧大宮市125寺のうち79寺が廃絶されたそうですから、まさに残ったのは奇跡といっても良いかもしれませんが、何はともあれこうして現在「慈眼寺・水波田観音」として人々の崇敬を受けているのですがら、何とも壮絶な歴史を垣間見た気がします。

これで慈眼寺の参詣は済ませたのですが、最後にこの慈眼寺には「八百比丘尼伝説」というものがあるそうなのです。

その伝説とは、天武天皇の頃、若狭国(現在の福井県)の通鴻というものが、ある日海辺でいつの間にか見たことも無い楼閣に招かれてご馳走を受けたのでした。家に帰り寝ていると、娘が先ほどの楼閣でもらった土産を食べてしまっていたのです。するとその娘はその後何年経っても容貌が変わらず美しいままの姿で生き続けることになってしまったそうです。
このような特異な人となってしまった娘は誰にも嫁がず尼となり、比丘尼となって諸国を遍歴し荒れた社寺などを修復する功徳を施していたのですが、ちょうど800歳の時にこの水利土の地に立ち寄り庵を結び、残り200歳の命をこの地の殿様に奉じて亡くなったという伝説なのです。

この八百比丘尼伝説の祠が慈眼寺の裏手にあるそうなので探してみました。
八百比丘尼の祠 その祠がこれのようです。

八百比丘尼の祠 ブロック塀で造られた小さな祠に縁を彫刻されたような石碑が置かれています。

何と言う文字が刻まれているのかは分りませんが、年代的にどの程度のものなのでしょうかね。

この「八百比丘尼伝説」というのは日本全国に分布している人魚伝説なのです。
一般的には、「若狭国のとある漁村の庄屋の家で、浜で拾ったという人魚の肉が振舞われた。村人たちは人魚の肉を食べれば永遠の命と若さが手に入ることは知っていたが、やはり不気味なためこっそり話し合い、食べた振りをして懐に入れ、帰り道に捨ててしまった。だが一人だけ話を聞いていなかった者がおり、それが八百比丘尼の父だった。
父がこっそり隠して置いた人魚の肉を、娘が盗み食いしてしまう。娘はそのまま、十代の美しさを保ったまま何百年も生きた。だが、結婚しても必ず夫に先立たれてしまい、父も年老いて死んでしまった。終いには村の人々に疎まれて尼となり、国中を周って貧しい人々を助けたが、最後には世を儚んで岩窟に消えた。」というものです。

したがって慈眼寺に伝わる「八百比丘尼伝説」はまさにこの人魚伝説と浦島太郎伝説が合体したような珍しい伝説のようで、岐阜県下呂市に伝わる「八百比丘尼伝説」もまた浦島太郎との合体のような伝説だということです。
埼玉県も岐阜県もどちらも海無し県ですから、きっと浜で拾った・・・という構図が土地に似合わなかったのでしょうね。
これにて話題満載の慈眼寺を後にしました。

足立神社

折角なのでついでにその「足立神社」に足を伸ばしてみることにしました。 徒歩で5、6分のところにあります。
改装中なのか工事柵が参道前に置かれています。

足立神社 社号標も作り直されたのか、神紋がくっきり描かれていて、これは左三巴の紋で比較的多くの神社で使われているようです。

特に八幡宮の神紋がこの三巴です。 八幡神は頼朝の信仰が篤く武芸の神・弓の神として祀られていたのです。そこでその弓矢の鞘の形を由来とした紋(諸説の中の一説)となったと考えられているそうです。
つまり三巴は武芸のシンボルで、祭神の神徳を由来とした紋といえるのです。

足立神社参道 一の鳥居の手前に足立神社史があります。

足立神社史
所在地:埼玉県さいたま市西区飯田字観音前54 (元)埼玉県北足立郡植木村大字飯田字観音前54
敷地面積:4,076.15平方メートル(1,235.2坪)
年間行事:元旦祭1月1日、春祭2月26日、例大祭4月25日、八雲祭7月14日、大祓祭7月25日、秋祭11月26日、大祓祭12月25日
「延喜式」神名帳には武蔵国足立郡内の神社として氷川神社・足立神社・調神社・多気比売神社の4社の名が記されている。これらの諸社のうち足立神社は、古代における殖田郷に鎮座し、この殖田郷を本拠地とした豪族足立氏が奉斎した神社であったので、長い年月には衰微した時期があり、江戸時代には足立神社と称する社が幾つか出現する状況になったが、殖田郷に鎮座する足立神社は「風土記稿」「神名帳」等にも名主勘太夫の屋敷内にあり(中略)式内社として有力なる候補とされて来た社であるが、水判土村にも足立神社が慈眼寺裏手の指扇支台と山王塚の二箇所共に村の鎮守として祀られていたと言う伝説もある。また飯田村下組は氷川神社・上組は氷川・八幡合社を鎮守として祀っていたが明治6年下組の氷川神社が植木村社となり、明治39年には政府の合祀政策の発令により、当時の村内にあった村社および無格社30社を当地の氷川神社に合祀し、その中には、植田谷本・水判土の足立神社も含まれており、この合祀を機に氷川神社の社号を「足立神社」と改め、大正3年4月には神域を拡大整備し本拝殿を改築且つ社務所を新築し名実共に5地区の鎮守として新発足したのである。

明治40年5月14日付で足立神社に合祀された主な神社としては、飯田地区では氷川村社・氷川八幡合社。水判土地区では足立神社・厳島社・御嶽社。中野林地区では12所神社・天神社・神明社・須賀社。植田谷本地区では足立神社・天満宮・天神稲荷社。三條町地区では12所神社・稲荷社・社の根神社・以上15社のほか、全地域の無格社15社が含まれている。
祭神としては次の神々である。
天神七代尊として豊雲野神・宇比地邇神・角杙神妹活杙神・意富斗能地神妹大斗乃弁神・淤母陀琉神・妹阿夜訶志古泥神・伊邪那岐神妹伊姫邪那美、地神五代神として天之御中主神・高御産巣日神・神御産巣日神・宇麻志阿斯訶備比古遅神・天之常立神・天照坐大神・須佐之男命。
日本武尊・市杵嶋姫命・多岐都比売命・猿田彦命・大国主神・天手力男神・菊理媛命・倉稲御魂神・応神天皇・菅原道真の24神々である。
以上古代よりの資料や記録によるものであるが、寛政5年(1793年)「武蔵の国足立郡植田谷本の足立神社本跡縁起」の由緒によると、当社は「日本武尊」を崇敬し神祀を建て祀ったものであるとあり、またこの中の「明細帳・郡村誌」によると当社の祭神は「猿田彦命」と明記されている。足立神社
(現地案内板説明文より)

当時、旧大宮で125寺のうち79寺の寺院が廃絶され、この周辺の神社30社が合祀されたのですから随分整理されたのですね。まあ、参詣する人も合理的なのかもしれませんが、檀家や氏子などは複雑なものが有ったのかもしれません。
それにしても名刹ならいざ知れず、24の祭神とは全くすごい数の神々で、これならどんなご利益でもいただけそうですね。

足立神社あじさい園 参道の左手はあじさい園となっていて季節には綺麗なあじさいが見られるのでしょう。

ある意味有りがちではありますが、それはそれとして各地区から植えられているようなので、氏子の方々の崇敬の表れと考えられます。

足立神社 足立神社拝殿 先の二の鳥居の先に真新しい拝殿があります。

真新しいというよりは本当に再建されたばかりの様で、木の香りがプンプン匂ってきます。このような機会は今後殆ど無いでしょうから、実に良い時に訪れました。

足立神社本殿 本殿は流造りの一間社のようですが、こちらは歴史を感じさせる朱色の本殿です。

鎮守としてこれからも隆盛を極めていくのでしょう。

彩の国音かおりの里

本日最後の散策は「慈眼寺」から更に南下した「彩の国音かおりの里」です。
いわゆる公園なのですが、ちょっと工夫のある公園らしいので散策には非常に面白い公園かもしれません。
そしてこの公園の東側がさいたま市大宮区で西区との区界となるのです。

少し判りにくい路地を進むと「彩の国音かおりの里」に到着です。
彩の国音かおりの里 この敷地の全体の名称は「さいたま市 鴨川みずべの里」というそうです。

公園の概要
所在地:西区大字水判土地内
この公園は1997年に鴨川の旧河川跡と農地を整備してつくられ、地域住民の交流と憩いの場として利用されてきました。
今後も「自然を生かした・多くの人が楽しく過ごせる・みんなで育む公園」とするために、利用者でネットワークをつくっております。
(現地案内板説明文より)

そしてこの公園内の一画が「彩の国音かおりの里」ということでしょう。
早速園内を進みます。

彩の国音かおりの里 正面がはらっぱと呼ぶ広場で、左側がとんぼの里と呼ぶ自然溢れる広場のようです。
右にあるトイレの右側から奥が音・かおりの里です。

進んで見るとすぐ四阿があります。
かおり音の家/水底のベンチ ここはただの四阿ではなく、「かおり音の家/水底のベンチ」という施設です。

天井の下に一段下がった天板があり「風の木霊」「風の産声」という風によって音を出す音具が付けられていて、風の音、雨の音を楽しむ施設なのだそうです。

かおり音の家/水底のベンチ また水底のベンチは水面のすぐ近くで音を聞くことができるよう、一段低くなったベンチですが、節電故でしょうか、このように水がありませんでした。

そこそこ風はあったのですが、子供たちの歓声で風の音が・・・。

花壇 「かおり音の家/水底のベンチ」の前には花壇があり綺麗な花が咲き誇っています。

原っぱ/大地のエクボ その花壇の左側のちょっとした斜面が「原っぱ/大地のエクボ」というコーナーで、斜面に寝転がれば草や土の香りが楽しめ、虫の音を聞くことができる場所です。
さすがにオッサンが寝転ぶのは様になりませんね。

ここから木道が続いていますが、右側に何やら意図的に作られたコンクリート壁があります。

ささやきの壁 これは「ささやきの壁」というもので、遠くに離れているのに近くで話しているように聞こえるもので、これは試してみましたが確かにこれでも音は伝わるのですね。

足音のみち/聞き耳のイス 足音のみち/聞き耳のイス 更に木道を進むと木道の上に木のチャアーが置かれています。

これは「足音のみち/聞き耳のイス」という音具で、木道の茶色い部分が金属になっており木や金属の板で足音の違いを聞き分けたり、鳥の泣き声が良く聞こえる集音器と同じ効果のあるイスが設置されています。

そしてその先には何やら橋のようなものがあります。

音の架け橋/聞き耳のイス ここは「音の架け橋/聞き耳のイス」と題されていて、風による竹のざわめきや葉ずれの音を楽しめるようにした回廊だそうです。

この橋の屋根の中に「8匹のアンクルン」「竹のリズム」「ツイン・ドラムス」という3種類の電動の音具が仕込まれているのだそうです。満月と新月の日の昼と日没時に音色を響かせるのだそうです。因みにアンクルンとはインドネシアの民俗楽器だそうです。

8匹のアンクルンと竹のリズム ツイン・ドラムス 左の写真の手前が8匹のアンクルンで、奥の丸い輪のなかにぶら下がっているのが竹のリズムです。そして右の写真がツイン・ドラムスです。

これらが一斉に音を奏でるようですが、一体どのような音が聞こえるのでしょうか。

聞き耳のイス この橋の一角にも先ほどと同じ「聞き耳のイス」が置かれています。ここでもやはり子供たちの歓声が・・・。

「音の架け橋」を渡って東側に進むと親水公園のようになっています。
親水公園 子供達がすでに水遊びをしていますが、もうそんな季節になってきたのですね。

この先をいくと鴨川に続いていて、この水辺を「鴨川みずべの里」と呼んでいるようです。

今回はこのま反対へ水辺沿いに戻ります。
水路 このように整備されています。左側はもうさいたま市大宮区です。

暫くいくと水辺から分かれた小路があります。
かおりの小径 ここは「かおりの小径」といい四季折々に咲く花々の香りが立ち込める小路なのです。現在はあまり香りはありませんね。

夕陽のテラス/聞き耳のイス 水辺に戻って先に進むと先ほどと同じチェアーが置かれています。しかも今度は回りを樹木で囲まれたオシャレな場所です。

今度のイスは只者ではない「夕陽のテラス/聞き耳のイス」という何ともコジャレたネーミングの場所です。

ここでは、花の香りを楽しみ木々の葉ずれを聞きながら西に沈む夕陽を望むのだそうです。子供には勿体無いスチュエーションでしょう。

水路 源流 再び水辺に戻って歩くと源流(のつもり!?)となり。公園の入口に戻るのです。

それ程凝ったものではありませんが、中々面白いコンセプトの公園に高感度アップです。
人の少ない時にゆっくり散策すると結構癒されるのかもしれません。

比較的短時間で散策したさいたま市西区でしたが、今回は歴史と花ということで今まで以上に癒される散策ができました。
さすがに「青葉園」の藤はすばらしいですが、そのほかにも花や樹木等見所は多いようです。
埼玉県の県庁所在地といえども自然環境溢れる西区でした。

2011.05.08記

関連記事
スポンサーサイト


コメント

    コメントの投稿

    (コメントの編集・削除時に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)


    トラックバック

    Trackback URL
    Trackbacks


    上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。