大名・西尾隠岐守累代の墓と信長ゆかりの「鞍」を伝える

概要

妙厳寺は曹洞宗の寺院で、延徳元(1489)年、大洞存(だいとうそんちょう)という僧による開基といわれている。
初めは、当時の原宿(はらじゅく)の東南に創設されたといわれ、後に現在地に移されたと伝えられる。移転の年代は不明であるが、文禄(1592?96)のころ領主の西尾隠岐守吉次(にしおおきのかみよしつぐ)が再興したともいわれる。
同寺の本尊は釈迦如来(しゃかにょらい)であるが、横須賀(現静岡県掛川市)城主西尾忠成(ただなり)寄進の木造達磨大師(だるまだいし)座像など、多くの仏像が蔵されている(『上尾市史』第9巻)。

妙厳寺は、近世初めに原市の領主であった西尾氏と縁の深い寺である。天正18(1590)年に徳川家康が関東に入国したとき、西尾吉次は現在の上尾・桶川市の東部地域の5000石の地を与えられている。そして原市と上(かみ)村(上尾市)に陣屋を築いたといわれ、中山道桶川宿も吉次により創設されている。西尾氏は後に大名となりこの地を去っていくが、再興した妙厳寺が代々の墓所となっている(『上尾市史』第3巻・『寛政重修諸家譜』)。

同寺所蔵の「永楽通宝紋鞍(えいらくつうほうもんくら)」と「鐙(あぶみ)一双」は、埼玉県指定の文化財となっているが、これは西尾吉次が同寺に寄進したものといわれる。この鞍は、吉次が仕えた織田信長から拝領したものと記録され、上尾市域では戦国期の様子を伝える希少なものの一つである。
同寺本堂の西方に所在する「西尾隠岐守一族累代の墓」は、市指定の文化財である。本堂に参拝した後、墓所に詣でることになるが、墓前に立つとその威容と歴史の重みに圧倒される。墓石は11代忠篤(ただあつ)までと、3代忠昭(ただあきら)(忠照”ただてる”とも 称される)の奥方を含めて12基あるが、近在には見られないだけに実に壮観である(前掲書・『上尾の指定文化財』)。

西尾氏第6代忠需(ただみつ)が寛成元(1789)年に没したとき、家臣が法要のために江戸屋敷から妙厳寺を訪れている。そのとき記録を残しているが、それには原市の宿並みと共に、広大な境内地のことも記されている(千葉県・個人蔵『原市はなし』)。
西尾市の墓域の隣には代々名主を勤めた矢部家の墓があり、幕末から明治初期に私塾を開いた伊藤由哉(ゆうさい)碑と墓(市指定文化財)も所在し、見るべきものの多い寺院ということになろうか。 (上尾市Webサイトより)

◆妙厳寺 : 上尾市原市975 《所在地地図

妙厳寺・山門と本堂

009myogon070.jpg 009myogon050.jpg 009myogon090.jpg 【山門・本堂】

妙厳寺・境内

009myogon020.jpg 009myogon030.jpg 009myogon080.jpg 009myogon060.jpg 【地蔵堂・鐘楼・整備された境内】
10年以上前初詣に来た記憶があるのだが・・・

妙厳寺・文化財

永楽通宝紋鞍 付鐙一双

009myogon011.jpg 009myogon012.jpg 【永楽通宝紋鞍 付鐙一双】

文化財名:永楽通宝紋鞍 付鐙一双
種別:有形文化財・工芸品
員数:1背
指定年月日:埼玉県指定(平成10年3月17日)
※非公開のため写真は上尾市Webサイトより
概要
永楽通宝紋鞍と鐙は『新編武蔵風土記稿』に「西尾隠岐守吉次」ゆかりの品であると記載があります。また、家譜によれば吉次が仕えた織田信長から鞍を拝領したと記載があります。その後、所在が不明でしたが、昭和60年妙厳寺の薬師堂解体の際、その床下から発見されました。
鞍は中世の鞍として素朴な姿を残しており、伝来もほぼ明らかなことから貴重な資料といえます。また、鐙は一具として使用された可能性があるので付〔つけたり〕指定になりました。
(上尾市Webサイトより)

西尾隠岐守一族累代の墓所

009myogon040.jpg 009myogon010.jpg 【西尾隠岐守一族累代の墓とその中の初代吉次の墓】

『上尾市指定有形文化財(史跡) 西尾隠岐守一族累代の墓
上尾市大字原市九七五番  昭和三十四年一月一日
西尾隠岐守吉次は、家譜によれば三河国東条(愛知県一宮町)の生まれで、後に織田信長の側近くに仕え、天正二年(一五七四)には美濃国(岐阜県)で三、〇〇〇石の地を給された。天正十年(一五八ニ)の「本能寺の変」の際には、家康を案内して堺におり、いわゆる「神君伊賀越」に同行し、その後、天正十一年(一五八三)に家康の家臣となり、小牧・長久寺の合戦や北条攻めなどに従軍し、天正十八年(一五九〇)家康の関東入国に際して、足立郡で五、〇〇〇石の地を給され、上尾下村から原市にまたがる地に陣屋を設けたという。
この知行地は現上尾市・桶川市の東部の地域と見られる。慶長七年(一六〇ニ)には美濃国で七、〇〇〇石を加増され、都合一万二、〇〇〇石を支配する大名となった。慶長十一年(一六〇六)八月二十六日七十七歳で京都伏見で没し、吉次が菩提寺として再興した原市村妙厳寺に葬られた。
所領は二代目忠永が継ぐが、元和二年(一六一六)に上野国群馬郡白井(群馬県北群馬郡子持村)で八、〇〇〇石を加増され、さらに同四年に常陸国土浦(茨城県土浦市)へ転村となり、西尾家の二十八年間にわたる足立郡の支配が終わった。
指定の「西尾隠岐守一族累代の墓」は、五輪塔など全部で十二基、初代吉次から十一代忠篤(明治四十三年没)までの当主の墓が十一基、三代忠昭(照)の室の墓一基である。大名の墓所がそろっているのは、市内で唯一である。
平成十六年十二月一日上尾市教育委員会』(境内内解説板より)

伊藤由哉碑と墓

伊藤由哉碑 【伊藤由哉碑と墓】

『上尾市指定史跡 伊藤由哉碑と墓
上尾市原市795 妙厳寺 昭和34年1月1日指定
伊藤由哉は他山と号し、入間郡高倉村(現入間市)に生まれた。長じて医業に進んだが同時に諸学問を好み、明治初年の教育者の履歴書に、由哉から読書・算術・日本外史・五経・習字・文選・十八史略・元明史略を学んだという者もおり、学者として公教育の発足当時に相当の貢献をしたことがわかる。
また由哉は慈悲ぶかく、貧困者には無料診断・投薬し金品を恵む、という社会福祉、社会奉仕を行なった。幼くして父を亡くし母の手ひとつで育った由哉は母への孝心も厚く、母の病弱の故に県委託の仕事も辞したほどである。
明治14年(1881)に49歳で没し、女婿熊十郎は原市学校の教員として多くの功績を残した。墓地に入って西尾壱岐守の墓に至る途中左手に由哉の墓がある。
昭和54年8月1日 上尾市教育委員会』(現地案内板説明文より)

2009.2.21記
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