ぎょうだ古墳めぐりの旅 #1

4月23日(土)は生憎の曇り空、というよりはいつ雨が降ってきてもおかしくは無い空模様です。
AM11:00頃自宅を出発し、12:00前には到着しました。軽く昼食をとってから散策スタートです。
最初の散策地は埼玉古墳群のさきたま風土記の丘のすぐ隣にある「浅間塚古墳」からです。

浅間塚古墳

「浅間塚古墳」はさきたま風土記の丘のすぐ東側にあります。
古墳自体が神社になっているようです。

市指定文化財 槇 駐車場に車を止めて下りると、道路沿いに目立つ樹木があります。

市指定文化財  昭和39年1月31日指定
イヌマキと称される木で、御岳山信仰の奉納植樹の御神木です。
目通り4.08メートルを計り、現存の槇では、県内最大のものです。
平成元年3月 行田市教育委員会
(現地案内板説明文より)

樹齢は推定で約600年だそうです。逆算すると西暦1400年頃、つまり室町時代の幕府将軍が3代義満で金閣寺が建てられた時代です。
しかしながら御岳山信仰は江戸時代末期から始まっているので、最低でも奉納されたときはすでに樹齢400年は超えていたと考えるのが妥当かもしれません。

市指定文化財 槇 幹の中心部に大きな空洞があり、中には木曽御嶽神社の石碑があると後に知ったのですが気が付きませんでしたね。

前玉神社の大鳥居 大きな槇の右手に社号標と石造りの鳥居があります。

「前玉神社」の一の鳥居ですが、「前玉」と書いて「さきたま」と読みます。
前玉神社の大鳥居 しかしながら鳥居の扁額には富士山と記載されているので、この鳥居は「前玉神社」の鳥居ではないということになりますが…。

市指定文化財 建造物 前玉神社の大鳥居 平成11年3月25日指定
この鳥居は、延宝4年(1676)11月に忍城主阿部正能家臣と忍領氏子達によって建立されたものである。
鳥居は明神系の形式で、正面左側の柱に由来を示す銘文が刻まれており、江戸時代における浅間神社の隆盛を伝える貴重な建造物である。
平成13年2月 行田市教育委員会
(現地案内板説明文より)

映画「のぼうの城」で今や全国区となりつつある忍城の時代は秀吉の小田原攻めの頃のことで、その当時は成田氏が代々の城主でした。阿部氏が城主となるのは江戸時代の寛永年間(1624から1645年)で、三河の松平氏(徳川氏)譜代の家臣で始祖は孝元天皇の第一皇子阿部大彦命といわれていることから由緒ある名家であったようで、この正能は忍城主でありながら老中でもあった人です。
そしてこの鳥居は建立された延宝4年(1676)11月は、その前月の10月6日阿部正能が老中職を辞した直後だったようです。
その様なこととの関連があるかどうかは判りませんが、この鳥居は浅間神社の鳥居として奉納されたことから扁額が富士山となっているのです。

参道 崩れた燈籠 参道の両脇には歴史を積み重ねたかのような狛犬や灯篭が置かれていますが、灯篭は先の地震のせいでしょうか片方が崩れています。

これも一つの歴史ということでしょう。

二の鳥居 二の鳥居 そしてその先に比較的新しそうな二の鳥居があり、こちらの扁額にははっきりと前玉神社と刻まれています。

社務所 手水舎 境内の右手に社務所がありその先に手水社があります。

手水社の由来は判りませんが、かなり凝った彫刻がありこれもまた歴史を感じさせてくれるものです。

石碑と井戸 手水社の隣には石碑などがありますが、手前の丸いものは井戸だったのでしょうか。

神楽殿 三の鳥居 そして境内の左側には神楽殿があり、正面の参道の先には三の鳥居がありますが、こちらには扁額はありません。

鳥居の左側にある案内板です。

ぎょうだ歴史ロマンの道 浅間塚古墳
浅間塚古墳は、埼玉古墳群の南東部に位置する墳径約50m、高さ8.7mの円墳です。古墳の墳頂に前玉神社、中腹に名前の由来となった浅間神社がまつられています。前玉神社は平安時代の「延喜式神名帳」にその名が見られ、古くから埼玉郡の総社として信仰を集めていました。
浅間塚古墳については、比較的最近まで古墳であるのか、後世に築かれた塚であるのか、議論が分かれていましたが、平成9・10年に行われた発掘調査で幅10mに及ぶ周溝が巡ることが確認され、古墳であることがほぼ明らかになりました。埴輪が樹てられていなかった可能性が高いこと、古墳の南西部の絵馬堂付近に石室の石材と思われる角閃石安山岩が見られることから、埼玉古墳群の築造が終わりを迎える7世紀前半頃に築かれた古墳と推測されています。埼玉古墳群の終わりを考える上で、重要な古墳であると思われます。
平成21年3月 行田市教育委員会
(現地案内板説明文より)

浅間塚古墳 浅間塚古墳 浅間塚古墳の全景がこちらです。

かなり社叢に覆われているので全体が把握しにくいですが、石段の上にさらに崩れ防止のコンクリート片で固められた円墳の形状が若干見てとれます。

弁天池 古墳の左側には弁財天を祀った池があるのですが、これが周溝の名残とされている池のようです。

それでは早速神社を参詣です。

浅間神社 三の鳥居を抜けて石段を上がった右側にあるのが「浅間神社」です。

浅間神社の由来
浅間神社は近世初頭、忍城中にあった浅間神社を勧請し、古墳上にある社を「上の宮」、中腹にある社を「下の宮」と呼んで、浅間さまの名で親しまれるようになりました。
また、当社には富士浅間信仰が盛んになってから、富士の行者が己の命の終わるとき、当所にのみ雪を降らすと言い残し、その予言通り6月1日亡くなった日に雪が降り、これを奇異とした忍城主下総守氏長が、この地に浅間神社を祀ったという一説もあります。
御祭神
浅間神社の御祭神は木花(桜だけを指すという説もある)の様に美しいとされる木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)です。子育て・安産・産業の神様として関東一円に崇敬されています。
中でも当歳児から三歳児の額に朱印を押し、富士山の御利益をいただき、子供の無事成長を祈る「初山」は有名で、県内にとどまらず関東圏外からも参拝に訪れています。

さきたま火祭りのヒロイン
毎年5月、さきたま古墳公園にて、さきたま火祭りが開催されています。古事記によれば、木花開耶姫命は疑いを晴らすため「神の御子であるならば、たとえ火の中でも無事に生まれるでしょう」と産屋に火を放ち、その中で無事に出産したとあります。
さきたま火祭りは、それに倣い、神話に描かれている火中出産の伝えを受け、富士霊峰で火の神として祀られている木花開耶姫命をヒロインとしています。
観る人を古代のロマンと神話の世界に誘うお祭りです。
(前玉神社オフィシャルサイトより)

現在のこの「浅間神社」は「下の宮」だったようですが、「上の宮」は「前玉神社」に…、って一体どうゆう訳なのでしょう。
もともと「前玉神社」は古墳の麓に鎮座していたようで、江戸時代になって富士浅間信仰が盛んになったことから「上の宮」「下の宮」として「浅間神社」が新たに勧請されたのです。その時に一の鳥居も建立されたということになるでしょう。
しかし、明治になって両神社を分離することから「上の宮」を「前玉神社」にし、そして「下の宮」を「浅間神社」としたそうです。このことから「浅間神社」は「前玉神社」の境内社となるわけです。

浅間神社 絵馬 社殿の上には由緒のありそうな絵馬が掲げられていますが、その由緒は全く判りません。

「天神社」と「恵比寿尊」 境内にはさらに境内社が鎮座しています。左が「天神社」で右が「恵比寿尊」です。

市指定文化財 石燈籠 その先の「前玉神社」への石段の前には2基の石燈籠があります。

市指定文化財 石燈籠 昭和42年3月10日指定
元禄10年(1697)、氏子達が奉納したもので、「万葉集」の「小崎沼」・「埼玉の津」の歌が、それぞれ刻まれています。
万葉歌碑的なものでは、最も古いものと思われます。
平成元年3月 行田市教育委員会
(現地案内板説明文より)

さらに詳細なる説明がサイトに掲載されています。

右側「埼玉の津」の碑
『佐吉多万能 津爾乎流布禰乃 可是乎伊多美 都奈波多由登毛 許登奈多延曽禰』
(埼玉(さきたま)の 津(つ)に居(を)る船の  風をいたみ 綱は絶ゆとも  言(こと)な絶えそね)巻十四 三三八〇
◇ 訳 …
埼玉の渡し場に停まっている船の(船を留めておくためのその)綱が、烈しく吹く風のために切れることがあっても、私たちの恋は切れて絶えないでおくれ(例え二人は逢えずとも、決して心伝える便りは絶やさないで下さい)。
◇ 解釈 ……
現在の行田市下中条のあたりが詠まれた地である。利根川の流路の船着き場であり、下総の国府から来た水路でかなり賑わいがあったと思われる。現在の行田市も、利根川土手あたりをはじめ赤城颪(おろし)のように烈しく風が吹く。
北風の強いときは自転車を漕いでも、風に向かうと全然進めないくらいである。そのことを考えると烈しく吹く風の中で揺れたり激しく船に叩きつけられている「もやいの綱」を見ている実感が伝わってくる歌である。

左側「小埼沼」の碑
『前玉之 小埼乃沼爾 鴨曽翼霧  己尾爾   零置流霜乎  掃等爾有欺』
(埼玉の小埼の沼に鴨そ翼(はね)霧(き)る己(おの)が尾に降りおける霜(しも)を払(はら)ふとにあらし)巻十四 三三八〇
◇ 訳 …
埼玉の小埼の沼で、鴨が羽ばたきをして水しぶきを上げている。自分の尾にふり降りた霜を払おうとしていようだ。
◇ 解釈 ……
虫麻呂は常陸の国守藤原宇合(うまかい)の臣下であり、ここ埼玉以外でも、美里町広木で歌を詠んでいる。公用の旅で訪れたときに、目に触れた情景に対して感じたままに歌を詠んだのであろう。
(前玉神社オフィシャルサイトより)

この「埼玉の津」については下記のブログで説明されているので参考にすると良いでしょう。

参考:【クニの部屋 「北武蔵の風土記」】http://blog.goo.ne.jp/kuni-furutone118/e/ddf4215e682d46d7b2d1da0b5009db0d

ここから古墳の墳頂にある「前玉神社」を参拝します。

前玉神社 前玉神社 社殿 石段の上には古いながらも彫刻で飾られた社殿が印象的な「前玉神社」が凛とした空気が張りつめているようです。

前玉神社 境内 そしてさらにここが円墳の墳頂となるわけで、麓を眺めればこのような風景となります。

前玉神社 本殿 社殿の奥に鎮座しているのが本殿です。

前玉神社の歴史
前玉神社が最初に祀られた時代については、一説には大化の改新(645年)より一世紀以上さかのぼる安閑天皇、宣化天皇あるいは雄略天皇の頃の古墳時代(400年代後半から500年代前半)ではないかと考えられています。その名残として社は古墳群に向かって祈願するように建立されています。
前玉神社は千数百年の歴史を持つ荘厳で由緒ある古社です。
前玉神社の御由緒
前玉神社は「延喜式」(927年)に載る古社で、幸魂神社ともいいます。700年代の古代において当神社よりつけられた【前玉郡】は後に【埼玉郡】へと漢字が変化し、現在の埼玉県へとつながります。前玉神社は、埼玉県名の発祥となった神社であると言われています。
武蔵国前玉郡は、726年(神亀3年)正倉院文書戸籍帳に見える地名だと言われており、1978(昭和53)年に解読された稲荷山古墳出土の鉄剣の銘文から、471年には大和朝廷の支配する東国領域が、北武蔵国に及んでいたのは確実であると言われています。
北武蔵国の地元豪族が眠ると思われるさきたま古墳群の真上に建てられています。
前玉神社の御祭神
前玉神社の御祭神は、『古事記』所載の出雲系の神である、前玉比売神(サキタマヒメノミコト)と前玉彦命(サキタマヒコノミコト)の二柱です。天之甕主神(アマノミカヌシノカミ)の子で、甕主日子神(ミカヌシヒコノカミ)の母です。 女神と男神が一緒に祀られていることから、恋愛成就を祈願する参拝者の方が多く見られます。
(前玉神社オフィシャルサイトより)

ということでまさに埼玉県の「前玉神社」と言える、県民なら一度は訪れてみたい神社でしょう。

帰りがけに三の鳥居の左側に四の鳥居を見つけました。来た時には気がつかなかった鳥居です。

明治神社 明治神社 扁額には「明治神社」と刻まれていて、明治時代に埼玉地区の神社を合祀した神社だそうで合祀神は16柱を数えるそうです。

この「明治神社」の奥は社叢で覆われているのですが、その中には数々の記念碑が立てられています。
日露戦役記念碑 忠魂碑 興味深いのはこの日露戦役記念碑と巨大な忠魂碑で、これらの石碑はこの周辺にあった若王子古墳の石室の後壁および天井石で造られたものだそうです。

この若王子古墳とはさきたま古墳群のすぐ東にあった若王子古墳の一つで、前方後円墳1基、円墳7基が存在していたのですが、1934年(昭和9年)11月の小針沼干拓工事の際に埋立用土に用いられたため現在は全て消失しているそうです。
さきたま古墳群 そして社叢を抜けるとさきたま古墳群に繋がっているのです。

さすがに古代の町、行田市だけあって最初の古墳だけですでに気分はすでにハイテンションです。

帰り際、神社の横のお店の看板に惹かれて立ち寄って見ました。

御菓子司「かなざわ」 御菓子司「かなざわ」 御菓子司「かなざわ」というお店で、商品がいかにも行田らしいものが取り揃えられています。

古墳最中 「古墳最中」「のぼうの城」「忍城家紋もなか」などなどですが、ここではやはり「古墳最中」をいただきました。

最中のわりには甘さ控えめながらコクのある餡が中々美味でした。
身体ともに充実して次に進みます。

白山古墳

「浅間塚古墳」から北へ車で約5分ほどで次の古墳である「白山古墳」に到着です。

白山古墳 白山集会所の建物のある横に鳥居があり、その先にこんもりした墳丘があります。

ぎょうだ歴史ロマンの道 白山古墳
この古墳は、埼玉古墳群の北端に位置する直径約50m、高さ5.7mの円墳です。墳丘の一部に白山姫神社がまつられていて、その東側に横穴式石室の奥壁と思われる緑泥片岩が露出しています。また、社殿前の石段右手に積まれている人頭大の角閃石安山岩も、石室の壁材であると言われています。
発掘調査が行われていないため、不明な点が多い古墳ですが、7世紀前半頃の築造と推測されており、埼玉古墳群終末期に位置する古墳であると考えられています。
7世紀前半としては卓越した規模の古墳で、埼玉古墳群の最高首長墓の変遷と、古墳群の終焉を考える上で、非常に重要な古墳であると思われます。
行田市教育委員会
(現地案内板説明文より)

発掘調査が行われていない理由というのが実に興味深い話なのです。

その理由は、なんとこの地元に古くからある伝承で、この古墳を探ると祟りがあるという伝承なのです。古の人々ならいざ知れず現代人までもが伝承を鵜呑みに発掘を行わないとは解せない理由だと考えますが、昭和34(1959)年、行田市が市史編さんのたまに発掘を行った際、実際に火災が発生し、その原因が祟りにあるということから発掘が中止となったことがあったそうです。
古代ロマンを科学的に解き明かそうという現代人への古代人からの警鐘・・・、とでも言えば60分の特番が作れそうですが、昭和64(1989)年の極々簡単な調査である程度のデータは得られたそうです。

石室の壁材 鳥居の先の古墳の石段右手の岩がこれです。

これらの岩が石室の壁材なのでしょうが、恐れを知らぬ人たちの所業というところです。

白山姫神社 墳丘を上がると社がありますが、これが「白山姫神社」です。

「白山姫神社」の創建年代や由緒については不詳ですが、当地名行田市長野字白山の地名由来となっている神社なので由緒ある神社だったのではないかと考えられます。
少なくとも江戸時代には白山社と称していたことは確かなようです。

白山姫神社境内社 緑泥片岩の露出 社の左手には小さな祠があり、右手には説明にあった横穴式石室の奥壁と思われる緑泥片岩の露出を見ることができます。

これは鳥居脇にあった集会所を改築する際の土取をした時に現れたものだそうなので、元々この古墳はもう少し大きかったのでしょう。

説明にあるように古墳の築造は、一般的に3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までの約400年間を古墳時代と呼ばれている時代の中でも、6世紀末までは前方後円墳が全国的に作られた時代だったようです。
特に古墳の大きさ=権力者の力の大きさ、から考えれば近畿地方に超大型前方後円墳が存在するのは、より権力のある大王級の首長墓であるからといえるのです。
そして稲荷山古墳で出土した鉄剣などの存在から、5世紀後半に大和王権の支配圏が関東に及び、6世紀後半にはこれが関東全域に拡がっていったと考えられ、東国でも盛んに前方後円墳が築造されたのです。
しかし、6世紀末から7世紀にかけては前方後円墳は作られなくなり、代わって円墳・方墳などが作られるようになったのです。
その理由は、この時代は大和王権の権力の影響が薄まり、東国での豪族の直接の権力がその古墳に現れてきた時代に移り変わってきたからのようです。
それはこの6世紀末から7世紀での代表的な古墳が、終末期最大の前方後円墳である「大堤権現塚古墳」、最後の前方後円墳である「浅間山古墳」、そして終末期最大の方墳「龍角寺岩屋古墳」のいずれも千葉県に存在し、権力の中心である幾内に大型の前方後円墳が無いことからも窺えます。つまり幾内の支配及び流行が東国に及ばなくなってきたことを現しているのです。

行田市の古墳群でも同じような歴史を辿っています。時代ごとでの最大の大きさの古墳を列挙してみます。

5C末から6C初頭:稲荷山古墳(前方後円墳)120m
6C前半:二子山古墳(前方後円墳)138m
6C中葉:鉄砲山古墳(前方後円墳)109m
6C後半:真名板高山古墳(前方後円墳)104m
6C末から7C初頭:小見真観寺古墳(前方後円墳)112m
7C前半:白山古墳(円墳)50m
7C中葉:戸場口山古墳(方墳)40m
7C後半:八幡山古墳(円墳)80m

この様に7世紀からは前方後円墳は作られておらず、大きさも徐々に小さくなって来ているのです。
素人の私には良く分かりませんが、こういった古墳の変遷においてこの「白山古墳」が重要な位置づけにあると言っているのでしょう。
白山古墳 重要なるが故に、そろそろ本格的な発掘調査をされたらいかがでしょうか、除霊とかしながら・・・。

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コメント

  1. 薄荷脳70 | -

    march32、、、さん、ありがとうございます。

    march32・・・さん、お読みいただき、拍手をいただき重ねて御礼いたします。
    今後とも宜しくお願い致します。

    ( 15:32 )

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