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ぎょうだ古墳めぐりの旅 #2

「白山古墳」を後にして次なる古墳は「真名板高山古墳」です。 「白山古墳」からは車でも20分ほどかかる場所で東方向になります。
古代蓮の里 途中、最初に訪れた時に寄った古代蓮の里があります。

ランドマークのタワーが見て取れますが、蓮の季節にはまだ少し早い頃で一度は蓮の時期に訪れようとは思っているのですが・・・。

真名板薬師堂

古代蓮の里の前の道を道なりにまっすぐ進み、小学校を超えると田んぼの中に古墳が見えてきます。
真名板高山古墳 これが「真名板高山古墳」です。

ここまま少し先まで進むと左側に寺院があり、その奥に古墳があるので寺院に立ち寄りながら古墳に向います。

薬王山薬師如来 この寺院は「薬王山薬師如来」だそうです。

仁王門 境内の参道先にあるのは「仁王門」です。

当然ながら阿吽の金剛力士像が祀られていますが、ちょっとおどけたような力士像です。
吽像 阿像 左が吽像で、右が阿像ですが、何となく引き締まった体に比して下膨れの顔が妙に親しみ易さを憶えます。

市指定文化財 公孫樹 境内はかなり広く仁王門の先に大きな樹木が立っています。

市指定文化財 公孫樹 昭和33年3月1日指定
雄木2本、雌木1本からなるもので、最大目通り5.5メートルを計る、しない有数の巨木です。
平成元年3月 行田市教育委員会
(現地案内板説明文より)

3本並んだ右側が雌木だそうです。

今更なのですが一応お約束という事で・・・。
公孫樹とはイチョウのことで、名前の由来は葉が鴨の足に似ていることから中国名の一つである「鴨脚(オウキャク)」の中国の宋時代の音読み"ヤーチャオ"が訛ったとされる説が現在有力となっているようです。
漢字の「銀杏」は実の形がアンズに似ていて殻が銀白色であることから由来していて、「公孫樹」は植樹した後、孫の代になってやっと実が食べられるという意味によるもので、いずれにしても全て中国語から伝わったものです。
確かに存在感のあるイチョウで、さすがに行田市の「市の木」だけのことはあるようです。

薬師堂 そしてその先にあるのが薬師堂です。

埼玉県指定文化財 銅造伝薬師如来立像 平成17年3月22日指定
像が安置されているこの薬師堂は、江戸時代にこの土地にあった花蔵院という真言宗寺院の境内にあって、その差配を受けていた堂であったといわれています。(「新編武蔵風土記稿」)。花蔵院は明治時代初期に廃寺となり、現在は薬師堂のみが残り、この像は両手先が失われていることから「手なし薬師」として地域の信仰を集めています。
像の制作時期は鎌倉時代後期であり、この時期の金銅仏は全体的に小作りなものが多い中で94cmもの像高を持つ像は珍しいものといえます。また、薬師堂の近くには、この像とほぼ同じ時期にあたる「建治元年(1275)」銘の板石塔婆(行田市指定文化財)があるほか、鎌倉時代の『吾妻鏡』には「真名板五郎」という当地の地名を冠した武蔵武士の名が見え、その館がこの薬師堂周辺にあったと推測されていることから、この像の造立との関係が考えられています。
平成19年12月 埼玉県教育委員会・行田市教育委員会
(現地案内板説明文より)

この薬師如来立像は秘仏のようなので案内板に写真が掲出されています。

埼玉県指定文化財 銅造伝薬師如来立像 これが銅造伝薬師如来立像で、確かに手首が無いのが見て取れます。

この如来立像にまつわる伝説がこの地には残されています。
その伝説とは、ある時この如来像が盗まれ、盗人から古物商に売り払われたことがあったそうです。
買い取った古物商では手が無いということで売り物にならなかったそうです。しかしあまりに如来像が重かったので古物商は像の中にきっと金が詰め込まれているのであろうと勝手な想像を膨らませ、日本橋茅場町の鋳物師に溶かすように頼んだのでした。
鋳物師は早速溶かし始めたのですが如来像は一向に溶ける気配がなく、それどころか鋳物師は原因不明の高熱に浮かされてしまったそうです。驚いて祈祷師に原因を探らせたところ、祈祷師は早く元の場所に戻さないと茅場町一帯に病人が出ると告げたのでした。
慌てた人々はこの薬師如来像が真名板の薬師堂から盗み出されたものであることを突き止め、盛大に見送り式を催し山門とお堂をこの地に寄贈し丁重にお詫びしたそうです。
同時に茅場町では悪疫消散の地として立派な薬師堂を建立し、それが評判の高い現在の茅場町薬師堂であるということです。
それ以来、ここ真名板の地では、鍛冶屋、鋳掛屋には、祟りがあるという伝説が生まれたのだそうです。

薬師堂 厨子 薬師堂の中には厨子があり、薬師如来立像は、この中に安置されているのでしょう。

参拝を済ませて境内を散策します。

市指定文化財 板石塔婆 薬師堂の左手に「建治元年(1275)」銘の板石塔婆があります。

市指定文化財 板石塔婆 昭和34年3月19日指定
阿弥陀信仰を示す六字名号が刻まれたもので、高さ3.51メートルを計ります。
最下部に建治元年(1275)の記年銘が刻まれています。
平成元年3月 行田市教育委員会
(現地案内板説明文より)

この板石塔婆は鎌倉時代の武士で在俗出家した西念という僧が建立したものだそうです。かなり大きな塔婆ですが、日本で一番大きな塔婆は埼玉県秩父長瀞にある野上下郷板石塔婆の約5メートルですからさすがにかないませんが、かなりの存在感はあります。
それに比べると、その左側にある高さ65cmの小さい板石塔婆は、流石に存在感は薄れてしまいますが、文永2(1265)年の記年が入っているそうなので、歴史的には存在感を誇示しているかのようです。

石碑群 そして板石塔婆の左手には弁財天や庚申塔など古そうな石碑が置かれており、いずれもこの薬師堂の歴史を偲ばせるものです。

真板氏館跡碑 その左には真板氏館跡と刻まれている石碑があります。

この近くに「真名板氏館」があったことによるもののようです。
その館、は吾妻鏡に「弓始、的始の儀」という正月の恒例行事の射手に選ばれた弓の名手、真名板五郎次郎経朝が住んでいた館と言われているそうです。

しなしながら埼玉苗字辞典によるとこう記載されています。

真板
前田(まえた)の転訛なり。真名板の俎は洪水で洗い流された田畑を云う。全く違う意味である。新座、鳩ヶ谷、春日部、越谷、本庄等に存す。千葉県君津市三十五戸、市原市七戸あり。
大中臣姓真板氏 苗字にて上総国住人なり。中興武家諸系図(宮内庁書陵部所蔵)に「真板、大中臣姓」。吾妻鑑巻三十五に「真板五郎次郎経朝」。巻四十二に「建長四年十一月二十一日、真板五郎次郎大中臣経朝」。上総国山辺郡小西村(大網白里町)の日蓮宗信徒なり。本土寺過去帳(松戸市)に「妙言善尼・小西真板神五郎母・永正七年二月三日。妙円尼・小西真板二郎右衛門息女・九月四日」あり。小西村に日蓮宗正法寺あり、真板氏は現存無し。市原市潤井戸に七戸存し、日蓮宗泰行寺・光福寺あれば此地の出身にて、小西城主原氏に仕える。君津市内の真板氏居住地には日蓮宗寺院は無し。尚、武蔵国埼玉郡真名板村(行田市)の廃寺新義真言宗花蔵院は吾妻鑑の真板氏館跡と伝え、薬師堂門前に真板氏館跡の碑あり。全くの無関係で附会なり。
(「埼玉苗字辞典」より

上総国とあるので現在の千葉県中部で、どうやら真板五郎次郎経朝は埼玉の人ではなかったようです。
最後の部分にもあるように、「全くの無関係で附会なり」というように「こじ付け」ということになっているようですが、真相は如何なのでしょうか・・・。

新渠之碑 その隣には「新渠之碑」が建立されています。

この真名板村は古代より湿地で毎年夏には洪水が起こり、常に被害は常に甚大だったそうです。
そのため江戸時代の斉藤義住(斉藤家第14代当主)は天保11年116間の渠を築き、更に安政5年には486間の渠を築き水害を激減させたことにより、その偉業を称えた碑なのだそうです。
実に様々な歴史が眠っている真名板薬師でした。

真名板高山古墳

真名板高山古墳 薬師堂の奥にある丘が「真名板高山古墳」です。

県指定史跡 真名板高山古墳 昭和49年3月8日指定
この古墳は、東西に主軸を持つ前方後円墳で、旧忍川の沖積地に向う微高地上に立地している。
現存の墳丘の大きさは、全長90.5メートル、前方部の高さ7.3メートル、最大幅50メートル、後円部の高さ5.4メートル、直径40メートルである。
墳丘の形状は、かつて多量の封土が除去されたために、大きく変形している。
築造年代、埋葬施設、副葬品類については明らかではないが、周辺から採集された埴輪片等から、6世紀後半の築造と考えられている。
武蔵最大の規模を誇る埼玉古墳群は南西約4キロメートルにあるが、時期的には並行しており、その関連が注目される。
平成2年3月 埼玉県教育委員会・行田市教育委員会
(現地案内板説明文より)

「真名板高山古墳」は現在までの1400年間に古墳を乗せた地盤が徐々に沈み、洪水などで回りに土が積もった結果、約3mも地下に沈んでしまっていると考えられているようです。
従って実際は見た目よりも大きく、説明にある全長90.5メートルより遥かに大きい127メートルと推定されているそうです。

実際に墳丘に上って見ます。
薬師堂境内 やはり7mは結構な高さで薬師堂が一望できます。

真名板高山古墳 真名板高山古墳 斜面 尾根を進むと括れ部分の南側が急な崖になっています。

元々この辺りに花蔵院があったところのようで、先に見た「新渠之碑」にもあったように付近の河川の護岸工事等で土の採取が行われたことから墳丘はかなり変形し、このように急な崖になっているのです。

仙元宮 先に進むと後円部には仙元宮と刻まれた祠と、庚申塔があります。

仙元宮はイコール「浅間社」となることから、ここにはコノハナサクヤ姫が祀られているということになります。
江戸時代における富士信仰の流行で各地に富士塚が作られたのですが、富士塚には2種類の築造の仕方があり、1つは実際の富士山の溶岩を積み上げて塚を造る場合と、元々ある丘や古墳を利用して造る2つの造り方があるのです。
そうなると古墳などは実に手軽に作れる富士塚であるといえることから、古墳の墳丘に浅間神社が建立されるのも無理からぬ話となるわけです。

真名板高山古墳 行きがけに写真を撮った場所がこちらの方向で、ちょうど車の通っている辺りが撮影した場所です。

さきたま古墳群のように綺麗に整備はされていませんが、野生の荒々しさを残したような古墳で、まさに江戸時代の原風景的な真名板高山古墳でした。

八幡山古墳

「真名板高山古墳」から再び西の方角に戻るように車で凡そ20分ほど進むと工場地帯の一角にある「八幡山古墳」に到着です。

八幡山古墳石室 碑 入口付近には八幡山古墳石室と刻まれた石碑があり、かなり散ってしまった桜とともに春の名残を醸し出しています。

八幡山公園 全体は「八幡山公園」となっており、幾つかの遊具が設置されているようです。

早速古墳に近づいてみます。
八幡山古墳 かなり大きな円墳のようですが、余り高さは無くなだらかな斜面の古墳です。

記念碑 事務所 近くには記念碑や資料館のような建造物がありますが、先の震災の影響なのか人も居らず中にも入れないようです。

付近に案内板が設置されています。

埼玉県指定史跡 八幡山古墳石室 昭和19年3月31日指定
八幡山古墳は、この周辺に広がる若小玉古墳群の中心となる古墳のひとつで、7世紀前半につくられた直径約80mの大型の円墳と推定されています。
昭和9年に約2km東にあった小針沼埋め立てのために古墳を崩した際に石室が現れ、翌年には発掘調査が行われて、前・中・後室の3室からなる全長16.7mの巨大な石室であることが明らかになりました。その後、昭和52から54年に発掘調査と復元整備が行われて現在の姿になっています。
発掘調査では最高級の棺である漆塗木棺の破片や銅椀など豪華な遺物が発見されており、この古墳に葬られていた人物がかなりの権力者であったと考えられることから、この古墳を「聖徳太子伝暦」に登場する武蔵国造物部連兄麿の墓と推測する説もあります。
なお、この石室は奈良の石舞台にひってきする巨大な石室であることから、「関東の石舞台」とも呼ばれています。
平成21年3月 埼玉県教育委員会・行田市教育委員会
(現地案内板説明文より)

この「八幡山古墳」のある若小玉古墳群とは、昭和初期までは愛宕山古墳・荒神山古墳など2基の前方後円墳と9基の円墳・方墳が存在していたそうです。この古墳群の特徴としては住居跡などとともに密集して築かれていたようで、三宝塚古墳は住居跡の上に築造されていたそうです。
しかしながら現在では殆どの古墳は削平され富士見工業団地になっており、この「八幡山古墳」と「地蔵塚古墳」だけが残っているのです。
消滅した古墳で名称のついていた古墳は、愛宕山古墳(前方後円墳)、荒神山古墳(前方後円墳)、笹塚古墳、三宝塚古墳、九仙塚古墳、鎧塚古墳(以上すべて円墳)で、残る3基は無名の古墳です。

まずはその石室を眺めます。

埼玉県指定史跡 八幡山古墳石室 埼玉県指定史跡 八幡山古墳石室 かなり大きな板石と人頭大の岩によって作られているようで、確かに石舞台のような雰囲気を醸し出しています。

説明にもあるとおり封土を取り去った結果として石室が露出したわけですが、それまでは石室の上約10mくらい封土がされていたようで、恐らく現在のようななだらかな形状ではなく、もっとお椀状の古墳であったのだろうと想像します。
それでも3月の地震でも崩れた様子も無いのは、先ほどあった整備記念碑にも刻まれていた様に昭和52年からの補修工事によって強固になったからでしょう。

石室への扉は閉まっていたのですが、鍵がはずされていたので「きっと入っても良い」との勝手な解釈で石室を見学します。

石室入口 石室入口 入口を入ったところがここです。多少かがめば入れるほどですから結構広いものです。

説明にあったこの部分が前室です。
前室 前室奥の左右に石祠があります。

左側奥にある祠には「八・・・」と刻まれているのでこの古墳の名称の由来となった「八幡社」でしょう。
江戸時代の「新編武蔵風土記稿」には「八幡社社地は塚の上にて、鋪10間四方、高さ1丈56尺、巽方に塚の崩し所あり、その間より石棺とおぼしきもの顕る。三方平らなる石にて畳み上げ、厚さ1尺の黒き岩石を屋根とせり。内の広さ三畳敷きほどにて、その中は八幡の石祠を置き、いかにも上代の墳墓と見えたれど、今土人もその故を伝えず。」と記載されていて、この石祠がその当時のものなのかどうかはわかりませんが、由緒あるといえるのかもしれません。
その手前にある石碑は全く判りませんが、右側にある石祠には仙元大菩薩と刻まれていますので、こちらは先の真名板高山古墳と同じ「浅間社」です。
特にこちらについては記載等は無いようなので、恐らくこちらは墳丘の上に祀られ富士塚として信仰されたものと考えられます。
当時の江戸庶民としては、古墳の価値よりも富士塚としての立地の方が価値があると感じていたのでしょう。
それにしても江戸時代から石室があり豪華な遺物が残っていながら良く盗掘されなかったものです。これは「八幡社」を祀ったことからの影響でなのでしょうか・・・。

中室は広い空間で後室の前に祭壇のような石が置かれているので、ここで祭祀を行ったのかもしれません。
中室 天井岩と左右の壁との接合部から若干陽が漏れています。封土されていれば真っ暗なのでしょうか。

天井や入口の岩が心持ち緑色掛かっているのは、古墳には定番の緑泥片岩が使用されているからでしょう。

その先の奥室へ入りますが、さすがにここまでは光が差し込まないので結構暗く若干の心細さがよぎります。

奥室 奥室へ入ると、そこは完全に立ち上がれる高さのある空間です。
それと同時に急に明るくなったのは、どうやら人を感知する照明が設置されているようで入った瞬間に点灯したようです。

奥室 後にある照明のある壁には厚く大きな石板が重ねられていて耐過重構造なのでしょうか。

壁面はジグソーパズルのように実に上手に岩が組み合わされ全く隙間がありません。
ピラミッドなどもその様な技術が使用されているので本来は驚くべきことには当たらないのでしょうが、実際に目の当たりにするとやはり古代人の技術の驚かされないわけにはいきません。
まあ、補修されているので古代と現在の材料と技術がミックスされているわけですが、基本的にその古代技術の価値は全く失われることは無いでしょう。

奥室 この奥室でもやはり壁と天井の隙間からが若干の陽の光が漏れています。

先の中室と同じように封土で覆われているのでここだけ手を抜いたのか、後世の崩壊によって開いてしまったのかは定かではありませんが、壁面を見る限り後世の崩壊なのではないかと推測します。

この中にいると古代の息吹が聞こえてくるようです。
さすがに「関東の石舞台」と呼ばれるほど非常に価値のあるものに触れられた気がします。

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