ぎょうだ古墳めぐりの旅 #4

小見古墳群を終えて次なる古墳に向う予定でしたが、まだ時間はありそうなので予定を変更することにしました。
小見古墳群のある小見地区は行田市の中で比較的北部に位置しています。そこで以前から一度訪れてみたかった利根大堰に寄ってみることにしました。
埼玉県の中央部を散策すると、見沼通船堀などをはじめとした様々な河川や用水路を知ることができますが、その利根大堰はそれらの源となっているのです。
ここ小見地区からは車で20分程度でしょう。雨も降る心配もそれ程無くなったことから思い切って足を伸ばしてみました。
古墳巡りは小休止です。

見沼代用水元圦公園

とりあえず利根大堰には到着したのですが、何も調べていないので何処を何処やら、という事で近くに公園の駐車場があったのでとりあえず車を止めてマップを確認しました。

利根大堰 見沼代用水元圦公園 凡その周辺マップがこちらで、南の方に風車が見えるのでここは「見沼元圦公園」となるようです。

風車の先は庭園や遊戯施設、ゲートボールコートなど様々な施設が細長い敷地に設置されています。
見沼代用水元圦公園 「見沼・・・」というくらいなのでやはり見沼代用水に関連したものなのでしょう。

ここからマップの順路のように北へ向って散策をはじめます。

道路をこえて先に進むと左側の空き地のようなところに幾つかの石碑などがあります。

史跡 見沼代用水元圦公園 反対がわの入口に「史跡 見沼代用水元圦公園」と刻まれています。

その隣に案内板が置かれています。

見沼代用水元圦の沿革
見沼代用水は享保12年(1727)8代将軍徳川吉宗公の新田開発計画にもとづいて、幕府勘定所吟味役井沢弥惣兵衛為永によって開発され、現在の行田市から東京都に至る17市区町村の水田約15,000haをかんがいしている。
開発当時の元圦(用水取入口)は木造であり、以来元圦及び増圦の2口で取水していたが、明治39年(1906)1口のレンガ造りに改造し、昭和13年、34年に一部改造したが、同43年(1968)利根大堰からの取水開始に伴って、元圦は廃止するに至った。
当改良区は見沼代用水元圦公園を設け碑を建てて史跡を後世に伝える。
昭和52年3月 見沼土地改良区
(現地案内板説明文より)

史跡 見沼代用水元圦公園 案内板に当時の地図が描かれていますが、やはり説明が無いとわかりにくいです。

史跡 見沼代用水元圦公園 石碑 そして北側にある石碑は、見沼代用水の開発を顕彰した記念碑のようです。

中央にある大きな石碑は見沼元圦改築之碑で、明治39年にレンガ造りに改修したのを記念した石碑だそうです。
そして碑文には八間堰、十六間堰、柴山伏越、瓦葺懸樋の記述があり、十六間堰を除く3施設は、明治から大正にかけて、煉瓦造りで改修されたと記載されているそうです。
確かに地元上尾市にある【瓦葺伏越】にもその様な碑がありました。
その右側の碑は同じように撤見沼渠増圦碑記で増圦(木製)を撤去したのを記した碑だそうです。
そして左側の社は元圦鎮守弁財天で水の神弁財天と、井沢弥惣兵衛が合祀されているそうです。倒れている燈籠はやはり先の震災によるものでしょう。

見沼代用水の建設の歴史は【見沼田んぼと見沼通船堀】で詳しく調べたので、ここでは概要だけ記載します。
現在の大宮・浦和あたりに地域の水資源として江戸時代に見沼溜井という大きなため池があったのですが、時代とともに水量も不足がちとなったことから、見沼溜井の代替となる水路が必要となったのです。
そこで見沼溜井の代替案として計画されたのが見沼代用水という水路で、その水源を利根川から取水することを決めたのですが、利根川の何処から取水するかを井沢弥惣兵衛は調査しました。
その結果、現在地である行田市の下中条村となったのでした。これはこの付近の利根川の流れの水深が年間を通して安定していることと、享保以前の100年間の洪水時でも堤の決壊がなかったことなどから決定されたのだそうです。
こうして江戸時代に現代でも残る見沼代用水が完成したのですが、現在の取水口もこの江戸時代とほぼ同地点であることから、当時の土木知識・技術の高さを窺い知ることができる構造物なのです。

史跡 見沼代用水元圦公園 もう一つこれらの碑の右側に大きな碑があります。

「甦った見沼代用水」と刻まれた合口2期事業完成の記念碑で、見沼代用水がそれまでの農業用水主体から水道用水主体のための多目的用水路への改修を行った工事の記念碑です。
これも先の瓦葺伏越に同じようなものがありました。
埼玉県中央部の各地を訪ねていくと、そこここに見沼代用水の広大な歴史を感じることができます。

利根大堰

見沼代用水元圦公園の先はすでに利根川河川敷の堤防に突き当たります。
利根大堰 突き当たったあたりは大きな案内板とともに広場のようになっています。

ここは社会科見学などで訪れた児童に説明する場所なのだそうです。社会科見学で訪れる生徒は多いのでしょうね、きっと。

樋管 広場の先には水門のような建物があります。

これは樋管といもので、河川の堤防の中に水路が埋設された構造物のゲートだそうで、利根大堰でせき止められた水がこの樋管を通って堤防の外、いわゆる河川敷外へ流れるのです。

樋管 ということは当然堤防の反対側にもあるわけで、堤防に上がると確かに河川敷側の樋管のゲートがありました。

利根大堰 利根大堰 そして河川敷を見ると利根川に利根大堰を見ることができます。

この利根大堰は先にもあったように利根川の取水のための施設で、見沼代用水元圦と同じ地点に建造されたのですが、建造されるまでの歴史を追ってみます。

高度経済成長に伴って東京都の水需要は急激に増大し深刻な問題をはらんできました。そして1964年の東京オリンピックを前にして東京は未曾有の大渇水(通称:東京砂漠)が起こり危機的状況に陥ったのです。東京都の緊急要請により朝霞水路や秋ヶ瀬取水堰などが建設され急場を凌いでいたのです。
その間に1963年の利根導水路計画に従い、利根川から水道用水を取水するために見沼代用水元圦がある地点に利根大堰を建設し、首都圏の水需要を抜本的に解決しようとしたのです。
そして1968年4月にこの利根大堰が完成したのです。

以上がこの利根大堰が造られた経緯ですが、現在では以下のような役割を担っています。
1.利根川上流のダム群により開発した都市用水を武蔵水路及び荒川を経由して東京・埼玉に導水する。
2.利根川中流部に展開する29,000ヘクタールの水田に安定的に灌漑用水を供給する。
3.緊急かつ暫定的に利根川の余剰水を取水して隅田川の河川浄化を行う。
というように、現在、そして将来的に渡ってもこの利根大堰の役割は大変大きなものがあるようです。

取水口 もう少し利根川に近づいて見ると、取水口を見ることができます。

まさにここが東京・埼玉への水の供給の出発点なのです。

例えば5月19日午前9時の利根大堰総取水量は84.164m3/sで、判り易くいえば1秒間に84.164トンの水を取水しているということです。

左側に立っているタワーは水位観測塔で、洪水や渇水などでの水位を確認しその対応を取るための指標です。

樋管のゲート この取水口の反対側が樋管のゲートで、現在ゲート3門はオープンのようです。

更にここからは利根大堰に近づきます。

大堰自然の観察室 すると途中に地下に下りる階段があり、そこには「大堰自然の観察室」と書かれています。

大堰自然の観察室 大堰自然の観察室 基本的にはこの利根川に住む魚類の生態を学ぶ施設となっていますが、目玉はこちらです。

実際の利根大堰の魚道が見られるようになっていて、この魚道を通る魚を実際に見ることができるのです。
特にここでは4月から5月にかけてはアユが遡上し、秋から冬にかけての時期にはサケの遡上が見られるそうで、なかなか考えられた施設なのですが、今日は残念ながら魚1匹も通りませんでした。

地上にあがって更に利根大堰に近づきます。

魚道 これが先ほどの観察室で見た魚道で、結構覗き込む人が多かったのでしょうか、転落防止ネットが張られています。

そして下流側の利根大堰です。

長さは約500メートルあり、水門は12あるそうです。

架かっている橋は正式には武蔵大橋というそうですが、やはり地元でも利根大堰というほうが通りが良いようです。

利根大堰 このように堰きとめられていて、高いほうが上流で低いほうが下流です。

この高低差は通常は人の高さくらいだそうですが、当然水量の増減により調整されるのです。

利根大堰 こちら側で水面上に突き出た部分は魚道で、先ほどの魚道を含めて利根大堰には3本の魚道があるのです。

しばしダイナミックな光景を眺めて堤防に戻ります。

用水路

導流部 堤防を越えて市街地側に戻り、もと来た説明広場では無く樋管ゲートの左側を戻ります。

この辺りから多少青空も見え始めましたが、一時のことのようです。

導流部 取水され樋管を通過した水は導流部と呼ばれる水路を流れます。

利根導水路 須加樋管 水資源機構 来た時は気が付きませんでしたが、樋管ゲートには「利根導水路 須加樋管 水資源機構」と記載されています。

この「須加」とはこのあたりの地名で砂が溜まる土地という意味だそうです。

先に見える橋が須加大橋でその先からは急に水路の幅が極端に広くなります。
沈砂池 これは「沈砂池」というそうで、水路の幅を広くすることで流速を極端に遅くして砂や土を沈殿させるためのものなのだそうです。

要するに砂や土を一緒に流すと用水路に溜まり、最悪の場合用水路が埋まってしまう場合が考えられるからです。

分水工 そしてその先が「分水工」と呼ばれる各用水路に振り分ける場所です。

分水工 ここの分水工では左から「邑楽用水路」「埼玉用水路」「武蔵水路」「見沼用水路」「行田浄水場」の5水路に分水されます。

邑楽用水路 一番左側の「邑楽用水路」は群馬県邑楽町方面への農業用水路です。

ここ埼玉県側の沈砂池で土砂を落とした後、利根川の下をパイプを通して送水しているのです。流量は5.461m3/sで全体の4%を占めています。
邑楽用水路 先ほど樋管ゲートからの導流部の右側にある水路が利根川の下のパイプに向う水路なのです。

余談ながら1900年2月、足尾銅山の操業停止を求める渡良瀬川流域の農民、およそ2500名は邑楽郡渡良瀬町(現.館林市)に集結し、東京への請願を決行するため利根川の川俣の渡しへ向かう途中、佐貫村川俣の上宿橋にさしかかったところで、待ちうけていた300余名の警官・憲兵隊と衝突し、多くの犠牲者を出したそうです。これが川俣事件と呼ばれる事件で、その衝突した川俣の上宿橋が架かっていたのが現在の邑楽用水路なのです。
この事件に端を発した足尾銅山の鉱毒事件は、【下總皖一】で訪れた谷中村の渡良瀬遊水地化反対闘争へ移っていくのでした。

埼玉用水路 その隣の「埼玉用水路」は、江戸時代初頭の1840年(天保11年)に開削された灌漑用水路です。

利根川の利根大堰から引いた水でこの用水路が開削される前に直接取水をしていた羽生領用水路、葛西用水路、古利根用水路及び稲子用水路へ供給する農業用水として開削されたものです。延長は16.7kmで主に埼玉県の行田市、羽生市、加須市周辺の約12,000haの農地を灌漑しているのです。
流量は34.036m3/sで全体の24.6%を占めています。

武蔵水路 その隣が「武蔵水路」です。

「武蔵水路」は、利根川の水を荒川に導くための導水路で、利根大堰からほぼ真南に流下し鴻巣市で荒川に注ぎます。途中には見沼代用水を荒木サイフォン(伏越)、上星川を上星川サイフォン、秩父鉄道を白鳥田サイフォン、国道125号を長野サイフォン、元荒川を元荒川サイフォン、足立北部排水路を箕田サイフォンと6ヶ所で交差しているいます。
そしてこの水路で荒川に通された水は秋ヶ瀬取水堰から朝霞浄水場、大久保浄水場を経てそれぞれ東京都水道局の約40%、埼玉県水道今日の約80%の広範な地域に上水道として供給しているのです。
ここでの流量は50.000m3/sで全体の36.2%を占めています。

見沼用水路 次は「見沼用水路」です。

「見沼用水路」についてはもう特に説明する必要もないでしょう。
流量は44.633m3/sで全体の32.3%を占めています。

行田浄水場 最後は「行田浄水場」で、流量は4.108m3/sで全体の3.0%を占めています。

文字通り「行田浄水場」に向う水路で、行田浄水場はちょうど古代蓮の里の隣にあります。この行田浄水場からは上尾市、伊奈町、桶川北本企業団、鴻巣市、幸手市、杉戸町、宮代町、五霞町、久喜市、蓮田市、白岡町、行田市、羽生市、加須市、熊谷市、嵐山町、小川町、深谷市、寄居町、本庄市、上里町、神川町、美里町、以上の23団体(24市町)に給水している重要な浄水場なのです。
因みに自宅の上尾市では、この行田浄水場とさいたま市にある大久保浄水場で浄水処理された水道水と、上尾市内にある水道用深井戸30本の地下水をミックスしたものを水道水としているようです。

分水工の先の下流に進むと用水路を確認することができます。

見沼用水路 見沼用水路 一番左が「見沼用水路」で結構早い流です。鮮やかな花とのコントラストが綺麗です。

武蔵水路 武蔵水路 その隣は「武蔵水路」です。こちらも結構流が早いようです。

「見沼用水路」と「武蔵水路」は暫く並行した後サイフォンで交差して左右に分かれていくのです。

また、分水工で分かれた直後の「武蔵水路」はここで更に小さな水路に分かれています。
農業用水路 農業用水路 この水路は暫く「武蔵水路」と並行していくのですが、農業用水路なのかも知れません。

埼玉水路 埼玉水路 そして一番右手が「埼玉水路」で、分水工で分水されすぐ東の方向へ曲がっていきます。

利根大堰 このように5分工された水路が埼玉県の広い範囲で水を供給しているのです。
《写真:(C)埼玉県》

利根大堰は埼玉県のライフラインを握っている重要な施設との認識を深めることができました。
社会科見学は重要な学習です。

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