FC2ブログ


ぎょうだ古墳めぐりの旅 #5

念願だった利根大堰を散策して、ライフラインである水の重要性を改めて感じた貴重な散策でした。
ここからは最後の古墳に向かいますが、最後の古墳は比較的さきたま古墳群に近い場所なので、丁度行田市をグルッと回ってきた形になります。

足袋とくらしの博物館

最後の古墳へと思いながら、何となく面白いところがありそうだとつい寄ってみたくなる貧乏性は一生のもので、利根大堰からの帰り道、行田市街を通ることから市街地を少し散策することにしました。
以前、忍城などを訪ねたときに行田が足袋の町ということを知ったので、少し行田の足袋について知りたくてネットで調べてみると、NPO法人の「足袋とくらしの博物館」というのがあるそうなので、そこに立ち寄ってみることにしました。

市街地のちょっと奥まったところにあることから場所がわかりにくかったのですが、何とか探し当てて到着しました。
いざという時には本当にネットとナビはコンビニエンスです。

足袋とくらしの博物館 足袋とくらしの博物館 塗装などは比較的綺麗ですが、建物自体は歴史がありそうな入口を入ります。

中に入るとスタッフの方から応対いただき、入館料¥200-を払って見学の開始です。

元工場内 まずご説明いただいたのは、この建造物についてでした。

元々牧野本店という足袋屋の建物だったそうです。いただいたパンフレットの説明です。

牧野本店について
当博物館の建物は、元は牧野本店と言う老舗の足袋商店が大正時代後半に建設した工場を整備・改装したものです。
牧野本店は、明治7年に忍藩松平下総守の家臣であった牧野鉄弥太氏が創業しました。明治維新後行田では、牧野氏のように足袋商人に転身した武士が数多くいましたが、成功を収めた者はごくわずかでした。そのような中で牧野本店は成功を収め、明治32年以降明治時代に3棟の土蔵を建設するなど、商売を拡大して行きました。
大正時代中頃には、白足袋の製造を始め、大正時代後半には当博物館の木造洋風の工場(大正11年8月10日棟上、当初は平屋でした)と西隣の土蔵(足袋蔵、大正11年5月23日棟上)を建設、電動ミシンを導入して設備の近代化を図りました。さらに大正13年頃には南隣の店蔵(大正時代の行田を代表する立派な建物です!)を建設、昭和初期には当博物館の工場を二階建に建て増して、現在の姿となりました。
牧野本店は「力弥たび」の商標を用い、主に青森、岩手など東北地方の呉服店に足袋を卸していました。特に青森県八戸市では足袋と言えば「力弥たび」と言われる程独占的に足袋を卸していたそうです。
昭和30年頃を境に足袋の需要が落ち込み始めて以降は、一時期子供用ズボンやトレーニングパンツなどの製造も手がけましたが、やがて足袋製造専業に戻りました。その後は問屋卸を中心に、鶴岡産業など他社の足袋製造も引き受けて足袋生産を続けましたが、服装の洋装化に伴う足袋需要の極端な減少、従業員の高齢化、後継者不在といった悪条件が重なり、平成17年4月をもって3代続いた牧野本店はその永い歴史に終止符を打ちました。
(「足袋とくらしの博物館 見学のしおり」より)

うなぎの寝床風なこの建物はそのまま元工場だったのですね。

ここの目玉は職人の方による実際の足袋を作る行程が見られることです。 足袋づくりの工程は「見学のしおり」に寄れば、行田の足袋工場では、一般的に“ひきのし”から“仕上げ”まで13ないし14の工程で分業生産されていて、これは大阪・堺の福助足袋が始めた分業生産システムを手本にしたものだそうで、コンピュータ制御のミシンを使う最新式の工場でも同じ分業生産システムが取られるということから、基本は改良の余地のないほど確立しているということに他ならないようです。

足袋製造行程1 足袋製造行程2 こちらが見学のしおりでの足袋づくりの行程です。

スタッフの方の説明によると、こちらの博物館には、すべての行程の職人が常時いるわけではないそうですが、日時を分担して職人の方に来ていただいているのだそうです。
この日は縫製と抜きの2名の職人の方がいらっしゃいました。

抜き行程 抜き行程 まず見せていただいたのが、布から足型を抜く行程です。

職人の方の後ろの棚にあるのが、その足型を抜く金型でサイズなどによってかなりの種類があります。

このようにして金型を布にあて、前にあるプレス機で型を抜くのです。
一番難しいのは取り都合で、一枚の布からいくつの足型が取れるかによってコストが変ってきます。当然、1枚の布から1つでも多く取れたほうが儲かるわけですから、その按配を見極めるのがこの抜きの職人の技だそうです。
足袋の足型は左右の側面と足裏に部分の3枚1セットで作られるそうで、この抜きが終ると次が縫製ということになるのでしょう。

縫製 縫製では文字通り足袋を縫っていくのですが、ここでは当時のままのミシンで縫われています。

よく見れはSINGERブランドのミシンのようです。何となく記憶には残っているミシンなのですが…。
SINGERミシン SINGERミシン そして更によく見れば、1台のミシンには「31一20PATENTED U.S.A FEB.21一1899」というプレートが付けられています。

100年以上前のミシンが未だに現役で使用されているのですから驚きです。
このような実際に使われていた機材で、実際に作られている職人の方によって、足袋が作られるということに非常に価値のある博物館であるといえるでしょう。

足袋 但し、昨今では昔のような単なる白足袋や黒足袋だけでなく、このようなカラフルな足袋が受けているそうです。

めっきり足袋を履く機会も早々無いでしょうが、茶道や華道などの芸事などには今だ健在であり、日本のよき文化を残しているといえるでしょう。

1階を見学した後は2階を見学します。
2階は足袋に関する歴史や町の展示がされています。

手回しミシン 中央には行田の足袋を象徴するような日本の初期のミシンであろう手回しミシンが展示されています。

江戸時代の行田足袋 最初に案内されたのは行田市の足袋の歴史ですが、ここには江戸時代の足袋製造の絵が掲出されていて、行田市の足袋製造は江戸時代に盛んになっていたことがわかります。

行田足袋のあゆみ
行田市では、江戸時代前期より足袋づくりが始り、周辺地域で綿栽培や青縞の生産が盛んで原料の入手が容易であったことから地場産業として発展、240年前の明和2年(1765)の道中案内に「忍のさし足袋名産なり」と記されるほど、江戸時代中期以降は足袋づくりが盛んになります。
明治時代になるとミシンの導入による機械化、工場での分業生産による生産体制の近代化に成功して近代産業へと脱皮・発展しました。
そして最盛期の昭和13年には約200社の足袋商店が操業し、年間約8,500万足、全国シェアの約80%の足袋を生産する“日本一の足袋のまち”になりました。
しかしながら、昭和30年前後を境にナイロン靴下の普及、洋装化の急激な進行などで、足袋の生産量は減少を続け、廃業、もしくは被服生産などに転換する足袋商店が相次ぎました。
近年になると操業を続ける足袋商店も賃金の高騰、職人の高齢化、施設の老朽化などから生産拠点を市街・海外へと移すケースが目立っ様になり、現在では約20社余りが足袋生産・販売に携り、年間約141万足、全国シェアの約35%を行田で生産しています。
(「足袋とくらしの博物館 見学のしおり」より)

行田市経済要図 ちょうど行田の足袋産業のピークだった昭和30年頃の「行田市経済要図」です。

オレンジ色に塗られた箇所が足袋に関する企業・店舗などだそうで、いかに行田の足袋産業が一大産業だったことが窺える一例です。

「福助」運動会 この1枚の写真は同じ昭和30年頃の会社の運動会の写真です。

この会社はあの足袋で有名な「福助」で、当時工場が行田にあったのだそうですから、いかに行田の足袋が全国区であったかが判ります。

足袋シール こちらの展示は足袋のブランドのシールだそうです。

実際にはこれ以上のブランドがあったそうで、足袋の製品のなかにこのシールが入れられていたものだそうです。
当然それをコレクションする人もいたのでしょうね。

足袋シール入場券 表 足袋シール入場券 裏 因みにこちらの博物館の入場券は、その足袋のシールをモチーフとした入場券で、入場券自体にも面白い価値があるのです。

先の経済要図の足袋に関する企業などの中には、このようなシールや足袋を入れる箱を印刷する印刷会社も多くあり、それだけでビジネスになったそうですから、恐るべし行田の足袋です。

2階展示室 後は様々な製品や写真などが展示されていて、普段見ることのない貴重な展示を見ることができました。

崩れた蔵 帰り際、係りの方から説明をいただいたのですが、牧野本店の歴史にもあったように、この工場のとなりには土蔵があったのですが、先の震災により1つは倒壊し、2つは壁が落ちたそうです。

牧野本店正面 最後にこの建物の正面にまわって見ました。

左が店舗で右が工場ということでしょう。結構立派なものだと思っていましたが、係りの方の話だと、この牧野本店は行田の足袋やでは中クラスの規模だったそうです。

他にも足袋に関する施設は多いのですが、そろそろ時間も押し迫ってきたので本当に最後の古墳に向います。

大日塚古墳

行田市埋蔵文化財センター 最後の古墳は「大日塚古墳」ですが、塀によって囲われており、正門には「行田市埋蔵文化財センター」となっています。

以前までは「行田市史料館」だったそうですが、平成22年10月から「行田市埋蔵文化財センター」への改修のため現在は工事中なのだそうです。

市指定文化財 史跡 大日塚古墳 敷地内の庭にその古墳があります。

市指定文化財 史跡 大日塚古墳 平成11年3月25日指定
大日塚古墳は6世紀前半頃に築造された直径18mほどの円墳と考えられている。
本古墳は佐間古墳群に属し、周辺には他にも数基の円墳が存在していた。昭和52年8月に発掘調査が行われ、箱式石棺1基の上に粘土槨2基が検出されている。粘土槨からは直刀、刀子、鉄鏃、人骨片等が検出された。
本古墳の築造時期は埼玉古墳群内の稲荷山古墳に近い時期と考えられ、埼玉古墳群と周辺の古墳群との関連を考える上で極めて重要な古墳であるため、平成11年に市指定文化財に指定、平成13年に環境整備を行った。
墳頂部には嘉禎2年(1236)銘の大日種子板石塔婆が立っていたが、昭和36年に県指定文化財に指定され、現在は保護のため史料館内に展示している。
平成13年8月 行田市教育委員会
(現地案内板説明文より)

小振りですが綺麗な形の円墳です。
墳頂に大日種子板石塔婆が立っていたことから大日塚というここも実に明瞭な古墳名です。
しかし現在史料館は改装中ですから、その板石塔婆は何処に保管されているのでしょうかと見渡せば、古墳の先に板石塔婆の頭の部分が見えるので古墳の裏側に行って見ます。

古墳裏手 廃棄ミシン 古墳の裏側には板石塔婆の前に無残なミシンが置かれて・・・、否、恐らく廃棄されるのでしょう。

この状態では仕方ないでしょうが、一方で「足袋とくらしの博物館」のように何とか古いミシンを残そうとしているのを目の当たりにしては、どうもこのような状況が今ひとつ納得できない気がするのですが・・・。
まあ、それなりの理由もあることでしょうから仕方ないことなのでしょう。

県指定文化財 大日種子板石塔婆(複製) さてその古墳名ともなった板石塔婆です。

県指定文化財 大日種子板石塔婆(複製)
嘉禎2年(1236)に左近将監が父母の供養のために造立したもの。もとは大日塚古墳の墳頂部に立てられていたもので、実物は行田市史料館内に展示されている。
(現地案内板説明文より)

碑面上部に金剛界、胎蔵界の大日如来を示す「バン」と「ア」の二尊を深く鋭い薬研彫りで上下に鐫刻され、下段には流麗な草書体で左右に「右為父母現当也」「左近将監敬白」、中央に「嘉禎二年丙申八月二十一日彼岸第六」と刻まれており、種子・銘文の薬研の鐫刻は、雄渾にして美しく、金胎両界の縦書きも珍しい鎌倉時代の名作なのだそうです。
で、結局現在は何処に保管されているのでしょうか・・・。

富士T-1

「大日塚古墳」からさきたま古墳群へはもう僅かな距離で、県道77号線で目をつぶっても行けるロケーションなのですが、何を勘違いしたか、県道77号線へ出る路地を反対に進んだたため、県道77号線に並行する1本裏の道を進んでしまいました。
それでも突き当たりは同じなので、そのまま進み忍川を越えたあたりでオレンジ色の飛行機を発見しました。
埼玉スバルのディーラーのようなので、ちょっと勝手ながら見物でもと車を乗り入れました。まあ、ディーラーであれば無下に拒まないでしょうから・・・。

富士T-1 富士T-1 オレンジと白のツートンカラーが実に遠くからでも目を引きます。
近づいてみるとそれ程大きくはない機体で、結構古い感じのフォルムです。

案内板があります。

国産初のジャット機 富士T-1物語
昭和20年(1945年)の終戦後、日本は航空機の開発・生産ができない7年間の空白期間がありましたが、やがて航空再開への道を取り戻し、航空自衛隊の発足とともにジェットパイロットの育成が計画されました。
昭和31年1月(1956年)に防衛庁より富士重工・新三菱重工・川崎航空機・新明和工業の4社に対し国産ジェット機の生産依頼があり、各社が基本設計書を提出、同年7月、唯一「後退翼」の提案を行った富士重工が正式に受諾されました。
「納期を死守せよ」を合言葉に昼夜を問わず作業が行われましたが、尾翼や後部胴体の製造が間に合わないと判断して、新三菱重工や川崎重工に協力依頼をし、開発製造が行われました。
しかし、富士重工製ジェットエンジンの開発が間に合わず、英ブリストル社製のジェットエンジンを搭載して、昭和33年1月19日(1958)午前11時、T-1Aジェット機は僅か300メートルの滑走で離陸し、約30分のテスト飛行に成功しました。
富士重工製国産ジェットエンジン(JO-1の発展型であるIHI製JO-3)を搭載したT-1Bジェット機は、昭和35年5月17日(1960年)に初飛行に成功しました。その後、T-1ジェット機は、航空自衛隊の各基地に配備され、40数年の長きに渡り3,000名以上のジェットパイロットを育成してまいりました。
なお、昭和20年8月7日に、富士重工の前身である中島飛行機が開発製造した日本初のジェット機 橘花(きっか)が、約12分のテスト飛行に成功しましたが、終戦により全てを剥奪されました。
平成16年9月15日 展示
・ジェット機の組立・設置をされた航空自衛隊の方々(組立・設置期間:平成16年7月22日より30日)
浜松基地 第一術科学校(以下筆者略)
(現地案内板説明文より)

調べてみれば「埼玉スバル」のサイトに詳しくT-1に関しての説明がされています。
そして定期的に見学会が開かれているのですね。怪しいオッサンが追い出されても文句を言えなかったところでした。
T-1に関してはHPで十分理解できますが、隣にあった資料館は一度見たいものです。

参考:【埼玉スバル】 日本初のジェット機T-1 http://www.saitama-subaru.co.jp/t-1/index.html

という事で、これで本日の散策は本当に終了です。
何とか雨にも降られずに様々な貴重な知識や経験を得ることができました。これだけ身近なところにこれだけの古代ロマンがあるとは埼玉県も捨てたものではないようです。
後半のさきたま古墳群も改めてじっくり散策したいものです。

関連記事
スポンサーサイト





コメント

    コメントの投稿

    (コメントの編集・削除時に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)


    トラックバック

    Trackback URL
    Trackbacks