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ぎょうだ古墳めぐりの旅 #6

5月4日、先日の散策とは打って変わった上天気です。
前述したようにこの日はさきたま古墳公園で「さきたま火祭り」が行われるとあって向うわけですが、改めてさきたま古墳群を散策したいと古墳公園にはAM10:30頃到着しました。
しかしながら古墳公園の大きな駐車場はすでに満車状態でなので、ちょうど公園の裏手にあたる高源寺臨時駐車場に駐車し少しばかり歩くこととなったのです。
夜、7時頃から始まるイベントですでに駐車場が満杯とは侮ってはいけないようですね。

さきたま緑道

さきたま緑道 臨時駐車場から古墳公園に向かう途中に「さきたま緑道」があります。

整備はされていながらもあくまで自然環境とマッチした道になっており、基本的なスタンスは公園なのだそうです。

このさきたま緑道はJR北鴻巣駅前の鴻巣市赤見台近隣公園から、武蔵水路に沿ってさきたま古墳公園に至る4.5kmの道で、遊歩道と自転車道のある緑道で、昭和58年4月に一部開通し、平成元年に全線開通したそうです。
ちょうど臨時駐車場からの道と交差し左折して進むと緑道の本線に向かい、右折すると古墳公園の裏手の入口に行き着きます。

LOVE DANCE この丁度交差点にはこのような彫刻が展示されています。

タイトルは「LOVE DANCE」で埼玉県美術家協会賞を受賞した作品です。

これは平成元年に開催された「第4回国民文化祭さいたま'89」にともなって製作された彫刻50点のうちの1点のようです。
4.5kmに50点もの彫刻が展示されているとのことなので、ちょっとした庭園美術館でしょう。

アジサイ また、一部の樹木には案内板が立てられており、案内板には「アジサイ「紫陽花の 八重咲く如く 弥つ代に をいませわが背子 見つつ偲ばむ」 橘諸兄(巻4448)」と書かれています。

万葉集でアジサイを詠んだ歌のようです。何故唐突に万葉集なのかはよくわかりませんが、緑道に植えられている花草木に関しては万葉集の該当する歌が添えられているのかもしれません。
先日【安行の植木】で、川口市を散策した際はじめて知った「万葉植物園」とコンセプトは同じではないでしょうか。となると4.5kmにわたる「万葉植物道」となる訳ですね。

ここで詠まれた紫陽花とは、唐の詩人の白楽天が命名した別の花のことで、平安時代の学者、源順が今のあじさいにこの漢字をあてたため、その誤用が広まったそうで、万葉集では安治佐為と記載されているようです。
因みに作者の「橘諸兄」は元皇族で奈良時代の政治家で、源平藤橘と臣籍降下した名家のひとつで、橘諸兄は初代橘氏長者なのです。
但し、源平藤と比べると没落も早くメジャーではありませんが。

連 先に進むと更に彫刻が展示されています。

こちらのタイトルは「連」というそうで、ま、何となくそんな感じに見えるものです。

「さきたま緑道」4.5kmの内のホンの100mばかりを歩いただけですが、緑道をずっと歩いてみるのも癒されるかもしれません。

奥の山古墳

「さきたま緑道」が行き着いた先は当然「さきたま古墳公園」です。
map map 古墳公園は中央に県道77号線が走っており、県道により北側と南側に丁度分けられるようなロケーションになります。

「さきたま緑道」は、その南側の西部分に繋がっていて古墳公園へのエントランスになっています。
とはいっても古墳公園は大変広いので当然公園の境界柵などは無く、ほぼ何処からでも入れるので、特に厳密な入口ではないのですがそんな感じといったところです。

目の前に直ぐ古墳があります。
実に約2年半ぶりの散策で、今を思うとこの散策がきっかけとなって旅と歴史が始まったのですから感慨深いものがあります。
とはいいながらも以前訪れたときには余りの暑さで公園の南側は全く散策しなかったので、こちら側は今回が初めてということになりある意味では新鮮味に溢れているのです。

そしてその目の前の古墳が「奥の山古墳」です。
さきたま古墳公園 奥の山古墳 「奥の山古墳」の周りは何やら工事中で近づく事はできないようです。

特に案内板も無いのでさきたま史跡の博物館のサイトで調べてみました。

奥の山古墳
北鴻巣駅から武蔵水路に沿って、「さきたま緑道」を歩いてくると、最初に見えてくる古墳が奥の山古墳です。
埼玉(さきたま)古墳群の多くの古墳が大字埼玉に分布していますが、奥の山古墳や中の山古墳は大字渡柳にあります。
渡柳地区にある古墳は、東から戸場口山古墳・中の山古墳・奥の山古墳と並び、一番奥にあることからこの名前が付けられました。
1968(昭43)年に周堀の一部の発掘調査が行なわれ、埼玉古墳群では唯一、一重で盾形周堀と考えられていましたが、2007(平19)年度から2009(21)年度まで行った発掘調査で、台形で二重周堀の前方後円墳であることや、墳丘の全長がこれまで考えられていた長さより4m短い66mであることが分かりました。
また、周堀については埋まっていた土を分析したところ、水のない空堀であったことも分かりました。現在はその成果をもとに、平成21年度から3年計画で復原整備を続けています。
(「さきたま史跡の博物館」オフィシャルサイトより)

その復原整備の工事なのですね。
渡柳地区にある一番北部にあるから奥の山ですが、現在は古墳公園の中では中の山古墳についで南側にあります。
では戸場口山古墳は何処に行ってしまったのかと思えば、丁度今回車を止めた臨時駐車場の近辺にあったらしいのですが、現在は宅地になってしまい消滅しており、もともとは一辺40mの方墳だったそうです。

ここで今回の散策にあたって認識しておかないといけないことがあるようです。
古墳と古墳群の関係ですが、文字通り古墳が幾つか集まったものが古墳群です。
そこで、ここ行田市に限っての古墳群を分類してみます。基本的に古墳群の名称はその場所の地名(当時では字名)です。
先の散策で見てきた順に分類します。

1.浅間塚古墳:『埼玉古墳群』
2.白山古墳:『白山古墳群』
3.真名板高山古墳:単独
4.八幡山古墳・地蔵塚古墳:『若小玉古墳群』
5.虚空蔵山古墳・天神山古墳:『小見古墳群』
6.大日塚古墳:『佐間古墳群』

ということになります。
そしてこの「奥の山古墳」は『埼玉古墳群』となるのですが、元々は「中の山古墳」「戸場口山古墳」の3基で『渡柳古墳群』に属していたのでした。
そして現在『埼玉古墳群』の「浅間塚古墳」を除く全ての古墳と、焼失した「戸場口山古墳」を除く2基の古墳が、「さきたま風土記の丘」として整備され、後に「浅間塚古墳」を組み入れてさきたま古墳公園となったのです。
ちょうど奥の山古墳の北から上が「埼玉」という地名だったということです。当時の行政の境界線に意味があるのかどうかは分かりませんが、その土地土地の首長の墓と考えれば大きな意味もあるのでしょうが・・・。
しかし、現在でも『白山古墳群』は、現在埼玉古墳群と白山古墳群のある台地を隔てている旧忍川も古墳時代には存在しなかったことから、この白山古墳群も埼玉古墳群の中にカウントするべきという意見があるそうなので、一応意味合いは重要なようです。
因みに行田市にはこれ以外に、酒巻古墳群、犬塚古墳群、斎条古墳群、大稲荷古墳群などがあるようです。

奥の山古墳 それでは「奥の山古墳」を少し眺めて見ることにします。

全長は66.5mある前方後円墳です。一般的に素人が見て一番古墳らしく見える形の前方後円墳です。何故かといえば日本で一番大きな前方後円墳が仁徳天皇陵で、必ず歴史で習うからお馴染みであることと、古墳イコールの刷り込みがあるからでしょう。
因みに仁徳天皇陵は486mあるそうですから、奥の山古墳の約7、8倍はあるということです。歩くのも嫌になりますね。
復原整備でどのように変るのか期待されますね。

中の山古墳

ここからは公園内の遊歩道に沿って半時計回りに進みます。

奥の山古墳 中の山古墳 整備された遊歩道を歩くと視界が開け次なる古墳「中の山古墳」が現れます。

中の山古墳
形状:前方後円墳、全長:79.0m、後円部:径39.0m 高さ4.4m、前方部:幅40.0m 高さ5.5m(平成2年2月現在)
古墳群内の前方後円墳のうち、第6位の規模です。最近の発掘調査で、二重の堀のめぐっていることがわかりました。
堀からは、須恵器の技法で作られた埴輪壺が多数出土しています。
古墳の築造年代は、6世紀末から7世紀はじめと考えられ、古墳群中の前方後円墳としては、最も新しい可能性があります。
(現地案内板説明文より)

ここでは埴輪壺なる土器が多く出土しているようですが一体どんなものなのでしょう。

それを知るにはまず須恵器の技法なるものを知らなければならないようです。 須恵器とは、青く硬く焼き締まった土器で、古墳時代の中頃(5世紀前半)に朝鮮半島から伝わった焼成技術をもって焼いた焼き物のことなのです。
それまでの日本における焼き物、いわゆる縄文式、弥生式などの土器は赤っぽい素焼きの土器しかなかったのですが、それと大きく異なっていたのはその技術にあるそうです。
それまで野焼きという焼き方から、窯を使う焼き方になったことから硬質な土器として高級品扱いをされはじめたようです。
そしてこの埴輪壺は正式には須恵質埴輪壺と呼ばれており、口の部分がラッパのように少し大きく開き、底が僅かに縁の部分を残した状態で穴か開いていて、基本的には須恵器の壺として作成されていたのですが、底に穴が開いていることから古墳樹立専用だといわれているようです。

須恵質埴輪壺 須恵質埴輪壺
《写真:(C)さきたま史跡の博物館》

因みに埼玉県の寄居町末野遺跡の発掘調査で確認された須恵器窯跡からこの壺が出土したことから、この古墳の出土品の一部が寄居から搬入されたものだということが判明したそうです。
こうゆう因果関係があるから面白いのですね。

鉄砲山古墳

鉄砲山古墳 「中の山古墳」から遊歩道を進むと芝生の広場があり、その先に3つ目の古墳である「鉄砲山古墳」があります。

鉄砲山古墳
形状:前方後円墳、全長:112.0m、後円部:径56.0m 高さ9.0m、前方部:幅73.0m 高さ9.8m(平成2年2月現在)
古墳群中3番目に大きな前方後円墳で、西側くびれ部に造り出しがあります。堀は調査の結果、他の古墳と同様、二重にめぐっていることがわかりました。
掘りからは、円筒埴輪のほか、土師器、須恵器の破片が発見されています。
古墳の築造年代は、6世紀後半と考えられています。
なお、古墳の名称は、江戸時代に忍藩が砲術訓練場として使用したことに由来します。

埼玉大型前方後円墳ベストテン
1.二子山(埼玉古墳群)全長135m
2.稲荷山(埼玉古墳群)全長120m
3.将軍塚(東松山市下野本)全長115m
4.真観寺(行田市小見)全長112m
4.鉄砲山(埼玉古墳群)全長112m
6.高山(行田市真名板)全長108m
7.天王山塚(南埼玉郡菖蒲町下栢間)全長107m
8.将軍山(埼玉古墳群)全長101m
9.中の山(埼玉古墳群)全長79m
10.永明寺(羽生市下村君)全長78m
(現地案内板説明文より)

実際に見てよくわからなかったのが「造出し」です。
そもそも「造出し」って何…?からはじめないといけないようです。
この「造出し」とは、被葬者に対する祭祀の場として使われた場所で、現代で言うところの斎場なのです。
これはある意味前方後円墳の成り立ちにも関係しているようです。

前方後円墳の成り立ちには諸説あるらしいですが、一般的には弥生墳丘墓の発展形と考えられているようです。
弥生墳丘墓というのは弥生時代の終わり頃に、径15メートルぐらいの円丘、 一辺20メートルぐらいの方丘などの盛り土をした墓のことです。そして弥生時代後期後半から終末期にかけてこれらの弥生墳丘墓の中には後の前方後円墳の前方部のような突出部が付く墳丘墓が出てくるのです。これはそれまでの弥生墳丘墓に格差が無かったことから、突出部をつけて首長墓専用として築造されるようになったからなのです。
そして時代が下がった古墳時代においては、後円部がが埋葬のための墳丘で、前方部が死者を祀る祭壇として発生・発達とするという説や葬列が後円部に至る墓道であったとする説があり、いづれにしても突出部が変化し次第に前方部独特の形態をなしていったというのが前方後円墳のはじまりのようです。
そして更に時代が下がると、後円部のみならず前方部にも埋葬がなされるようになったことから、斎場として「造出し」が築造されるようになったのです。これは墳頂へ登ることが禁忌され、畏敬されたことと関わっていると考えられているそうです。したがって最古級の前方後円墳や小型の前方後円墳にはこの「造出し」が無いものが多いのは明白です。

そしてこの古墳での埴輪のなかで一番早く登場するのが円筒埴輪で、その起源は弥生時代後期に吉備地方で発達し葬送儀礼用の特殊な土器であると考えられているようです。
この円筒埴輪は埴輪の中でも最も大量に、そして前方後円墳の広がりにやや遅れながら全国的に広まっていったので、古墳の年代を決定する標識になる役割を持った埴輪といわれているのです。
形状はもともと壺を載せる器台だったものが、垣根のように並べて配置されたため、下部が単純な土管(円筒)状になっています。種類は多くなく普通円筒と朝顔形円筒、いわゆるラッパ形の2種類に大別され、円筒埴輪数本に対して朝顔形埴輪1本の割合で配置されるのが一般的なのだそうです。

円筒埴輪 円筒埴輪
《写真:(C)yamashirodayori》

やはり土器・埴輪1つ1つが太古の情報をたくさん提供していることを改めて知った円筒埴輪でした。

ここには埼玉県の前方後円墳ベストテンが掲載されていますが、前述したように全国での1位は486mの仁徳天皇陵で、2位応神天皇陵が416m、3位履中天皇陵が362mと続き、10位は仲津姫皇后陵の286mですが、それでも埼玉県1位の二子山の135mよりも倍以上あるわけで、比較にならないほどの大きさの前方後円墳といえるのですが、殆どが近畿地方を中心としているのは、やはり権力の大きさの違いなのは当然ですね。

4月に散策した古墳は多かれ少なかれ、江戸時代前後には古墳が神社や富士塚といったように信仰の場所として使われていましたが、今日散策した3基は全く信仰に使用がされていた形跡がありません。
この鉄砲山などはその一例で、江戸時代に忍藩の砲術訓練場だったそうですから、ある意味信仰とは真逆の使われ方なのです。
これは何か意味があるのもなのか、単なる偶然なのか理解に苦しむところです。

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