ぎょうだ古墳めぐりの旅 #8

ここからが一般的に「さきたま古墳公園」を訪れた方が、最初に散策されるコースでしょう。
当然駐車場やバス停がこの辺りですから当然といえば当然ですね。
ただし今回はさきたま火祭りですから車も人も大変混雑しています。1年にそれほど無い混雑振りなのではないでしょうか。

愛宕山古墳

順路は先ほどの「さかもと」と駐車場の間の道を北に進みます。

愛宕山古墳 愛宕山古墳 少し先に進んだところの右手にあるのが「愛宕山古墳」です。
2年半前に来たときには全く気がつかなかった古墳です。

確かに一見しただけでは古墳らしく見えませんので、説明板がなければ通り過ぎていたかもしれません。

愛宕山古墳
全長53m、埼玉古墳群の中で最も小さな前方後円墳です。
最小ではありますが、他の前方後円墳と同じく、周囲には長方形の堀が二重に巡ることが、発掘調査により確認されました。墳丘内部は未調査であるため、埋葬施設の形や大きさ、副葬品の内容など詳しいことはまだ分っていません。
出土した遺物は、円筒埴輪のほか、人物・太刀・盾・蓋(貴人の傘)などを表現した形象埴輪があります。円筒埴輪は、高さが40cm前後で、他の古墳に比べ小さいのが特徴です。
古墳の造られた時期は、出土した遺物から6世紀前半と推定されています。
平成21年(2009年)3月 埼玉県教育委員会
(現地案内板説明文より)

形象埴輪 先の「瓦塚古墳」と同様ここでも円筒埴輪以外の形象埴輪というものが出土しているようです。
《写真:(C)さすらいの講師の極私的日常》

この形象埴輪というのは大別すると、家形埴輪・器財埴輪・人物埴輪・動物埴輪の4種に分けられ、配置位置が限定されているのだそうです。
そもそも区画のために並べられていた円筒埴輪とは別に、古墳が平野に造られるようになった頃から要所要所を飾るために置かれたものが形象埴輪だったそうです。

家形埴輪とは、文字通り首長の居館や神殿などをかたどった埴輪で、最も中心的な埴輪として墳頂の中央部に配置されるものだそうです。単独で置かれることは少なく複数で置かれ、その周りを円筒埴輪などが取り囲むようになっているようです。
器財埴輪は、先の説明にもあった太刀・盾・蓋などの冠や椅子などの威儀具、高坏や壺などの容器、そして武器・武具などをいいます。これらは家形埴輪を守護するのが目的で、その周りに円筒埴輪などと一緒に配置されるそうです。
人物埴輪は、「瓦塚古墳」で説明のあった琴を弾く男子、踊る男女、武人などの人物で、特に、何かを捧げ持つ女子が圧倒的に多く巫女と考えられているようです。
そして最後の動物埴輪には飾り馬が圧倒的に多く、これは被葬者の権威を表していることから人物埴輪と一緒に置かれるようです。馬のほかには、イヌ・鶏・鷹・イノシシ・シカ・牛などがあるそうです。
このような内容とある程度の決まりによって形象埴輪が作られているのですが、後世の調査においては、建築物、葬送儀礼、衣装・風俗・身分、そして古墳祭祀などの復原に大いに役立つ貴重なデータなのです。

土器や埴輪は年代を知る上でも重要なフォクターのようですが、やはり古代からのメッセージと言えばロマンでしょう。

天祥寺

天祥寺 「愛宕山古墳」から先に進むと築地塀の続く一画があり、途中に山門があります。

「天祥寺」という寺院で由来書がありました。

天祥寺由来
旧幕時代大名の数、270余藩というが、10万石以上は50余のみ、而も大名格の溜間詰は最高の格式にして、井伊大老、松平下総守外六家に過ぎず、御三家、加賀百万石より上位なり。
初代忠明公は家康の外孫、初代唯一の大阪城主として大阪復興にあたり、後に姫路城主となり西国探題の名君たり。
天祥院殿と法名す。即ち天祥寺開基、京都妙心寺に現存する塔頭、天祥院の本寺たり。
九代忠堯公、桑名より忍に移封、天祥寺を今の埼玉に建立、十一代名君忠国公、十二代忠誠公の三君、この蛍域の地下に眠る。
近時、この地、風土記の丘と称し、古墳群を埼玉名発祥の地として自然公園とす。
現在松平家の墓所は行田市の文化財の指定を受けて目下大方の檀家のご協力を得、加藍建立途上にあります。
(現地案内板説明文より)

大名の格式には7つの序列があるそうです。
伺候席といい江戸城に登城した大名や旗本が、将軍に拝謁する順番を待っていた控席のことです。
格式の高い順に、大廊下、大広間、溜間、帝鑑間、柳間、雁間、菊間広縁となっています。そしてそれぞれの伺候席に詰めた大名家は以下の通りです。

1.大廊下(将軍家の親族が詰めた殿席で、上之部屋と下之部屋の二つに仕切られていました):上之部屋=御三家、下之部屋=加賀藩前田家、福井藩松平家など
2.大広間(基本的に大廊下と大広間は将軍家との親疎の違いで、厳密には大廊下が大広間よりも格が上ということを意味していません):国持大名(国主)および准国持大名(准国主)、四品以上の官位を持つ親藩および外様大名
3.溜間(代々溜間に詰める大名家である定溜と一代に限って溜間に詰める大名家を飛溜があります)
:定溜=会津藩松平家、彦根藩井伊家、高松藩松平家、飛溜=伊予松山藩松平家、姫路藩酒井家、忍藩松平家、川越藩松平家など
4.帝鑑間:幕府成立以前から徳川氏に臣従していた大名が詰める席で譜代大名など。
5.柳間:五位および無官の外様大名・交代寄合・表高家・並の寄合衆が詰める席。
6.雁間:幕府成立後に新規に取立てられた大名のうち、城主の格式をもった者が詰める席。
7.菊間広縁:幕府成立後新規取立の大名の内、無城のものが詰める席。

という事で「溜間の飛溜」として確かに格式は高いことは間違いないようですが、御三家より格上というのはどうなのでしょう。
解釈や時代によって違うという見方もあるのかもしれませんが・・・。

松平忠明とは、奥平信昌の四男で母が徳川家康の娘・亀姫なので家康の外孫にあたります。初名は奥平清匡で、天正16年に家康の養子となったことから松平姓の改姓し、慶長4年徳川秀忠の偏諱を受けて松平忠明と名乗りました。初陣は関が原の戦いで戦功を挙げ伊勢亀山5万石に取り立てられたようです。
一番の勲功は大阪の陣で、特に和議のあとの大阪城の外堀・内堀を埋立てたのは有名で、後の目的を達成するために、最初に周りの障害を取り除くことの慣用句である「外堀を埋める」はこれを由来としているのです。
そして冬の陣、夏の陣通じで戦功第一と評価され大阪10万石の藩主となったのです。
大阪では河川改修や新田開発など市街の復興と再編に努め、後に大阪が日本の商業都市として「天下の台所」と称される基礎を作り出したののもこの人だったようです。
その後、元和5年(1619)大和郡山12万石に転封され、ここで「天祥寺」を創建したのです。

藩主というものは移封と共に菩提寺も移築したので、大和郡山で創建した「天祥寺」は、その後藩主と共に各地を転々としたのです。
大和郡山藩をはじめとして、播磨姫路藩、出羽山形藩、下野宇都宮藩、陸奥白河藩、出羽山形藩、備後福山藩、伊勢桑名藩と転封し、この間約200年経過した文政6年、9代忠堯のときに武蔵忍藩に移封され、この後は明治維新までずっとこの行田の忍藩の藩主でしたので、基本的に松平(奥平)家は江戸時代の300年をずっと見つめてきた名家なのです。
このように長い歴史と転封から松平(奥平)家の菩提寺は3ヶ所あり、和歌山県の「中性院」、台東区の「天眼寺」、そしてここ行田市の「天祥寺」で、そしてここ「天祥寺」に眠っているのが9代忠堯、11代忠国、12代忠誠の3人となるのです。

市指定文化財 旧忍藩主松平家の墓 早速境内に入ってみます。直ぐ左手にその墓所があります。

市指定文化財 旧忍藩主松平家の墓 昭和47年11月9日指定
この墓地は、忍藩主松平忠堯(9代)、忠国(11代)、忠誠(12代)のものです。
松平氏は、文政6(1823)年3月に忍藩主として桑名から移封となり、ここ天祥寺を菩提寺として建立しています。
墓石の形は皆同じで、高さ4.5メートル、台石を三重に積んだ上に石の玉垣を巡らせています。
平成4年3月 行田市教育委員会
(現地案内板説明文より)

市指定文化財 旧忍藩主松平家の墓 それなりに堂々たる墓所です。

因みにこの3藩主以外の歴代の藩主は、初代忠明と2代忠弘が和歌山県の「中性院」、それ以外の藩主はすべて台東区の「天眼寺」に埋葬されているとのことです。

墓所は確かに立派ながら、伽藍はガランとして(ちょっと臭すぎた)いるのですすが、一体どういったわけでしょう。
江戸時代、松平(奥平)家の菩提寺として隆盛を誇った天祥寺だったのですが、明治維新後の廃仏毀釈の影響や太平洋戦争後の荒廃で無住となり廃寺同様に荒れ果ててしまい、この間にほとんどの寺宝は散逸してしまったそうです。
そして昭和53年、前住職の釈浩堂和尚が再興を図るために京都より移られ、文字通り崩れかけた寺の再建に尽力し30年が経過しているそうです。したがって現在は復興途中ということのようです。
さきたま古墳公園内にこのような美味しい歴史があったと思いもよりませんでした。

梨花枝 歌碑 その先がいよいよ古墳地帯となるのですが、左側に1つの石碑があります。

その石碑には「東方より 光は射すと 玉の柩 現れて輝る 一ふりの剣」梨花枝と刻まれています。古墳と鉄剣を詠んだ分りやすい句という、素人にも優しい配慮のある句碑なのです。
さて、そこでこの句を詠んだ「梨花枝」なる人は誰? ということで調べてみると実に面白いことが判りました。

作者は「浜 梨花枝」という方で、大正元年8月行田市で生まれだそうです。
生家は前玉神社でもでてきた小埼沼付近だそうで、木曽源氏の流れを汲む名門であり大地主である「湯本家」なのだそうです。
祖父の湯本義憲という人は日本三大治水家の一人として名高い方のようで、4月に訪れた前玉神社の境内に頌徳碑があったそうなので写真で確認してみたところ、丁度弁天池のとなりに大きな石碑が確かにありました。

湯本治水翁頌徳碑 今更ながらですがこちらの石碑です。

石碑は湯本治水翁頌徳碑と刻まれていて、衆議院議員として河川・治水に関する様々な建議を提出していて、明治に制定された河川法は湯本の行なった数々の建議の成果であるといっても過言ではないといわれるほどの功績を残された方のようです。

そのような裕福な家庭に生まれ育った梨花枝女史は、埼玉県立忍高等学校から東京家政大学へ進学し19歳で結婚となるのですが、そのトツギーノ先の「榎本家」もまた埼玉県久喜市に屋敷を構える富豪の大地主で、夫の善兵衛氏は、後に初代久喜市長になった方だそうです。
このような何不自由1つ無い暮らしのなかで、太平洋戦争の直前の昭和15年に与謝野晶子の門下に入り、与謝野晶子の最後の弟子となるのです。

しかしながら、終戦後の混乱の中で待ち受けていたのは今だ嘗て味わったことの無い困窮でした。大地主だった故に農地改革などによって一転して財産を失ったようです。
そのような状況が落ち着いてきたのが昭和30年代で、この頃から創作意欲も湧いてきたようで昭和32年に散文同人誌「下界」に入会し、更に鈴木幸輔の歌誌「長風」の創刊に携わることになったそうです。
昭和35年12月には、歌誌「長風」に発表した作品をまとめた歌集『風紋』を著し、「女歌の極み」として高く評価されたようです。

ところで、ここで鈴木幸輔の歌誌「長風」という名称に聞き覚えがあり、思い出してみたところ実に興味深い繋がりがありました。
鈴木幸輔氏は【長谷川かな女】で訪れたさいたま市の別所沼公園に鈴木幸輔氏の碑が建立されていて、この碑について幸輔氏のご子息からメールをいただいた経緯があったので良く憶えていました。
さいたま市と行田市で思いも寄らない縁があったものです。

その後、昭和58年にこの碑が建立され、更にその翌年の昭和59年には勳五等瑞宝章を授与されたそうです。
芭蕉や一茶などの句碑はそれはそれで貴重で価値のあるものですが、このような地元の歌人などの碑も由来・由緒などがわかれば、それもまた非常に興味深いものです。

先の八幡山古墳の歌碑等もその類でしたが、できればその場でそういった由来を知りたいものです。

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