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ぎょうだ古墳めぐりの旅 #9

ここからがさきたま古墳公園の北側のメインエリアとなります。
この古墳公園最大の前方後円墳や円墳、内部の埋葬設備の見れる古墳、そしてあの鉄剣の出土した古墳というように、まさに埼玉県を代表するかのような古墳を見ることができます。
また、今日は年に一度のさきたま火祭りの日でもあることから、そのイベントの表情もみられることでしょう。

石田堤

ハス池 浜梨花枝女史の碑を見ながら先に進むと直ぐ左手にハス池が目に映ります。

流石に古代蓮の里、行田ならではのハス池ですから季節にはハスが咲き乱れるものと思ったのですが、何となくハスの葉や茎などが見られませんので名前だけの池かもしれません。

露店 この辺りからボチボチ屋台が出店しています。

流石にさきたま火祭りの日とあって午前中ながら来場者もかなり多い様です。

石田堤 そしてここが「史蹟 埼玉村古墳」碑が立っている場所で、記念すべき第1回目の散策のスタート地点といっても過言ではない場所です。

改めてその2年半前の【さきたま古墳群】散策記を見返すと、実にあっさりとしか記載されていせんでした。
書いていることもあっさりですが、撮った写真もあっさりで、ストックも含めて古墳の写真が10数枚ある程度です。まあ、当時としてはこれほど続くとは思っても見ませんでしたし、思いつきではじめたのですから私の性分としてはこんなものだったでしょう。

露店 この先が「丸墓山古墳」で、右手の方が「将軍塚古墳」方面となるのですが、右手の園路には屋台がぎっしり連なっています。

屋台の誘惑も魅力的なものがありますが、まずは真直ぐ進んで「丸墓山古墳」へ向かいます。

石田堤 この「丸墓山古墳」に続くこの道が「石田堤」といわれる歴史的にも名高い道なのです。

石田堤
この一段高い桜並木は、天正18年(1590)に豊臣秀吉の命を受けた石田三成が、忍城を水攻めした際の堤の一部です。長さ28Km(一説には14km)に及ぶ堤をわずか5日間で築き、利根川と荒川の水を流入させたと言われています。三成の陣は丸墓山古墳の頂上に張られました。
(現地案内板説明文より)

小田原の役において、忍城城主・成田氏長は小田原城に籠城し、残った士卒・兵・地元農民ら3000人が忍城に立て籠もたことから、攻城の総大将に任じられた石田三成は力攻めを行ったのですが、周囲は沼や深田という足場の悪さにも守られ、城攻めは遅々として進まなかったようです。そのため、三成は水攻めを発案し忍城周囲に堤を築いたといわれているのです
総延長28kmに及ぶ堤をわずか5日間で作り上げたと言われているのですが、実際には自然堤防や微高地を巧みに繋ぎ合わせたものと考えられているようです。
そして堤の完成後、利根川・荒川の水を引き入れたのですが城にはあまり水が溜まらず、その後、増水により堤が決壊して石田方に多数の溺死者が出て、水攻めは失敗に終わったというのがその結末です。

しかし、これら一連の事項については諸説あるようです。
確かに水攻めは行なったのですが、これは三成の考えではなく秀吉の命によって水攻めを行い、秀吉の財と権力を誇示するデモンストレーションの一環であるといった説や、そもそも忍城は水城なので渇水に困っていてありがたかったとか、決壊など無かったかのような記述などなど、どちらかと言えば後世、三成の悪口=江戸幕府への媚、といった図式もあったようですから、三成こそいい迷惑なことだったかもしれません。
そしてこのストーリーを忍城側(成田氏側)から記述したのが「のぼうの城」で、本来なら2011年9月に映画で封切りされる予定だったのですが、震災の影響で水攻めという言葉やイメージが好ましくないとの判断から、来年2012年公開の延期されたそうです。
公開されれば一度見ておきたいです。
なお、この古墳公園から車で10、15分の場所に「石田堤史跡公園」があるとのことなので、こちらも一度訪れてみたいものです。

丸墓山古墳

丸墓山古墳 そして石田堤の突き当りが「丸墓山古墳」です。かなりの高さに圧倒されます。

記念碑 古墳の手前には埼玉村古墳群と刻まれた石碑が立っていますが、碑文はよくわかりません。

恐らく史蹟に認定されたときの記念碑ではないでしょうか。

丸墓山古墳
直径105mあり円墳では日本最大です。墳丘は埼玉古墳群の中で一番高く、約19mあります。墳丘に使われた土の量は二子山古墳より多かったという試算もあります。出土した埴輪から、6世紀前半ころ築かれたと推定されています。埋葬施設の内容は、現在のところ確認されていません。
南側から古墳にいたる道は、1590年に石田三成が忍城を水攻めにした時に築いた堤防の後といわれている「石田堤」です。古墳の頂上に陣が張られました。
平成19年(2007年) 埼玉県教育委員会
(現地案内板説明文より)

古墳を極端に大別すると、前方後円墳のような2つの山を持つ古墳と、円墳や方墳のように1つの山の古墳に分けられます。
前方後円墳が古墳界のスターなら、円墳・方墳などは差し詰めスクールメイツ(古っ!!)といったところでしょう。あくまで前方後円墳の引き立て役となっているのかもしれません。
それでも、この「丸墓山古墳」は、大部屋でも存在感のある俳優といたっところでしょうかね。何しろ日本一の円墳ですから大部屋と言うのも失礼かもしれませんが、前方後円墳で後円部の直径が100mを越える前方後円墳は50基以上あるそうですから、やはり大部屋であることは違いないようです。
ある意味では大きいだけの…、といったことになってしまうかもしれませんが、やはりこの説明にもある通り「丸墓山古墳」は三成の、と言ったほうがメジャーかもしれません。

丸墓山古墳 ということでまずは20m近くの古墳をのぼります。

2度目の登山ですが、2年半前よりは体力もついてきたので多少楽に登れるようになりましたね。

芝生広場のイベント会場 さきたま火祭りの産屋 墳頂近くから見える「芝生広場」にはすでに今日のさきたま火祭りの準備が整っているようで、中央にメインイベントの産屋があり、広場をコの字に囲むようにしてテントが張られています。

古墳跡 後から判ったのですが、産屋の周りに円形の植樹が3つあるのですが、実はこれが古墳跡の印だったのだそうです。

この芝生広場にはかつて10個以上の小さい古墳があったのですが、開削などにより現在は消滅していいます。そこでその古墳跡を残すための目印としてこの植樹をしているそうなのですが、言われてみれば妙な位置に植樹されていますからね。
3つのうちの左側にある大きな古墳跡が「埼玉2号墳」で梅塚古墳と呼ばれていた古墳跡で、23.5mあったそうです。
右側の手前にあるのが「埼玉3号墳」で17.5m、奥が「埼玉4号墳」で12.5mの円墳だったそうです。
そうなると気になるのが「埼玉1号墳」ですが、これは丁度屋台の裏手にあったようで、偶然の写真すら撮れませんでした。 2回目なので、もう少し小まめにと思うのですが性格なんですね、これが…。
まあ、とりあえずそういったことを知ったということで、この場は良しとしましょう。

さて2年半ぶりの「丸墓山古墳」墳頂です。
相変わらずの眺望です。若干木々に遮られる部分もありますが、「稲荷山古墳」「将軍山古墳」などを一望できます。

今回の重要な目的は三成になることです。

三成の水攻め 「丸墓山古墳」からの水攻めの様子を描いた絵がこちらです。

このように元々が水城ですからところどころに地面が露出しています。そして忍城はこの絵でも遠くに小さく見える程度ですから、結構堤は広い範囲といえるでしょう。

実際にその墳頂から忍城を眺望してみます。
忍城遠景 忍城 殆どこれでは判らない状態です。肉眼では見つかられないかもしれません。ズームにしてみるとやっと忍城が判別できます。

いずれにしてもこの辺り一体が水であふれていたのですから、秀吉の備中高松城の水攻めの関東での再演は示威行為としては、かなりの効果があったのかもしれません。
それにしても西国のスーパースター石田三成が「丸墓山古墳」に実際にいたのですから、それだけでも「丸墓山古墳」の価値は大きいと言えるでしょう。

稲荷山古墳

散策路 「丸墓山古墳」を下りて右手に向かう途中の散策路では春の名残の花が咲いています。

稲荷山古墳 しばし自然の中を歩くと古墳のスターである前方後円墳の姿が浮かんでいます。これが「稲荷山古墳です」。

後円部の墳頂にはなぜかモヒカン刈のような樹木が植栽されており、ちょっとユーモラスな光景です。

稲荷山古墳
全長120mの前方後円墳です。周囲には長方形の堀が中堤をはさんで二重に巡り、墳丘くびれ部と中堤のは造出しと呼ばれる張り出しがあります。古墳が造られた時期は、5世紀後半ころと考えられ、埼玉古墳群の中で最初に作られた古墳です。
前方部は、1937年に土取り工事で失われましたが、2004年に復原されました。
1968年の発掘調査では、後円部から二つの埋葬施設が発見されました。そのうち礫槨はよく残っており、多くの副葬品が発見されました。その1つである鉄剣からは、1978年に115文字の銘文が見出され、他の副葬品と共に1981年に国宝に指定されています。
平成19年(2007年)埼玉県教育委員会
(現地案内板説明文より)

埼玉県というか東国では5世紀後半の古墳はかなり早く比較的珍しい部類ではないでしょうか。凡そ関東で古墳が盛んに造られだしたのが6世紀からと言われているようですから。

この前方部が失われた「稲荷山古墳」には面白いエピソードがありました。
戦前の埼玉古墳群には「丸墓山古墳」始め「稲荷山古墳」「将軍山古墳」「二子山古墳」など現在の古墳が当然あったわけで、特にこの「稲荷山古墳」はまだ前方部が土取りされていない状態で残っていたそうです。
しかし、埼玉古墳群の整備事業が始まる前の1973(昭和48)年の「稲荷山古墳」は、説明にもあるように1937年の土取りで前方部が失われた状態で、木々に覆われた水田に浮かんでいるみすぼらしい古墳であったようです。

昭和初期の稲荷山古墳 その時の「稲荷山古墳」がこちらです。
《写真:(C)さきたま史跡の博物館》

そして整備を開始するにあたって、どれか一つ古墳の発掘調査を行うことになり、何故か選ばれたのがこの壊れかけた稲荷山古墳だったのです。
円墳の「丸墓山古墳」はともかく、前方後円墳として「二子山古墳」や「将軍山古墳」、「鉄砲山古墳」などが形状も残しつつあったのに、どうして「壊れかけた・・・」を選んだ理由はわかりませんが、何か閃いた直感というものがあったのではないでしょうか。その後、国宝としての世紀の大発見があったわけですから、何が幸いするかわかりません。
もしこの時、違う古墳を調査していたら、国宝の発見もなく、更に整備も中途半端に終わったかもしれませんのですから・・・。
その時の担当の方の決断が「さきたま古墳公園」の運命を左右したと言っても過言ではないでしょう。

稲荷山古墳 この「稲荷山古墳」もまた墳丘にのぼれるので、当然登ってみます。

墳頂にあがれば右手に今来た「丸墓山古墳」が見て取ることができます。
丸墓山古墳と稲荷山古墳造出し そして写真の手前に辛うじて写っている半円の緑の部分が「稲荷山古墳」の造出しです。

将軍山古墳 左手には「将軍山古墳」が見えます。

「将軍山古墳」の手前にびっしり駐車されている車輌は本日のイベントの関係者の車輌のようで、このような光景はやはり1年に1度のことでしょう。

古代蓮の里 また、視界を後に転じると「古代蓮の里」のタワーが良く見えるのです。

「稲荷山古墳」もまた「丸墓山古墳」同様広く見渡せる眺望が得られるところです。

そしてその墳頂にあるのが二つの埋葬施設です。

稲荷山古墳の埋葬施設
1968年の発掘調査で、後円部の頂上から2つの埋葬施設を発見しました。1つは素掘りの竪穴で、粘土を敷いた上に棺を置いた粘土槨、もう1つは、船形に掘った竪穴に河原石を貼り付けて並べた上に棺を置いた礫槨です。
粘土槨は、堀荒らされていて遺物はわずかでしたが、礫槨からは、金錯銘鉄剣をはじめとする豊富な副葬品が出土しました。それらは博物館に展示されています。

粘土槨 こちらがその粘土槨で、レンガで囲われた範囲が粘土質の部分なのでしょう。

礫槨 稲荷山古墳の埋葬施設 そしてこちらが礫槨です。比較的大きな石が敷かれているようです。

この案内板に埋葬想定図が掲示されていますが、埋葬者のすぐ左側に金錯銘鉄剣が置かれていたようです。

ここでは少し埋葬施設について調べてみます。
大別すると、説明に記述されている竪穴式と前述した「八幡山古墳」のような横穴式があります。
竪穴系は、築造された墳丘の上から墓坑と呼ばれる穴を掘り、その底に棺を据え付けて埋め戻したものです。従ってその構造から同じ古墳に違う人を埋葬する追葬はできず、埋葬施設内に人が活動するような空間はありません。その追葬をできるようにしたものが横穴式ですので竪穴式は横穴式より時代がずっと古いということになるのです。

そして竪穴式は時代順に4種類に更に分類されます。
1.箱式石棺:板状の石材で遺骸の回りを箱状に囲いこむだけのもので縄文時代以来の埋葬法。
2.木棺直葬:墓坑内に顕著な施設は作らずに木棺を置いただけのもので弥生時代依頼の埋葬法。
3.竪穴式石槨:墓坑の底に棺を設置したあと周囲に石材を積み上げて壁として、その上から天井石を載せたもので古墳時代前期から中期にかけて行われた埋葬法。
4.粘土槨:墓坑底の木棺を粘土で何重にもくるんだもので、竪穴式石槨の簡略版とも言へ古墳時代前期中頃から中期にかけて行われた埋葬法。

説明にある礫槨は粘土槨の一種で、墓室内部の棺を保護する材料の種類によるもので、他に木槨・石槨・木炭槨などがあるのです。したがって発掘してしまうと粘土槨は殆ど何も残らないのですが、礫槨はその石が残るということになります。
前述したように一般的に横穴式が全国各地に広がったのが6世紀になってからですので、出土品などとあわせて5世紀後半の築造といわれているのでしょう。

前方部 後円部から墳丘を前方部に移ります。

この古墳群の周辺は小沼と言われたように沼地でしたから、河川の改修や土地改良などで土取が盛んにおこなわれたのでしょうね。
それでも復原されるとなかなか壮観で、なだらかな起伏が非常に優雅でもあります。

さきたま火祭り、メイン会場 前方部の頂上に移ると、そこからもまた「さきたま火祭り」のメイン会場である芝生広場が一望できます。

会場ステージ 準備も万端といった風で、ステージでは太鼓の演奏が行われています。

ここからは芝生広場に移動して、暫くイベント周辺を散策してみます。

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