ぎょうだ古墳めぐりの旅 #11

いよいよ古墳散策もラストに近くなってきました。
足掛け2日間にわたる古墳散策も随分と見学をして知識も少しは豊富になってきた感じがします。
最後に心残りのないようガッツリ散策を楽しみたいものです。

二子山古墳

「将軍山古墳」を後にして芝生広場に一旦戻り、そこから南に向った場所が「二子山古墳」です。

二子山古墳 水路に沿ったフェンスに「さきたま古墳群 めざせ世界遺産!」の垂れ幕が見えますが、2年半前にも確かあったのを憶えています。

そのときはこの垂れ幕を見て、二子山古墳は見なかったというトンでもな散策でしたから、今回はじっくり散策します。
今日はさきたま火祭りですから、火祭りの幟が沢山掲げられています。

「二子山古墳」に近づくと見事な古墳と堀とのマッチングが古代らしい景観を創りだしています。

二子山古墳 こちらが後円部で、古墳の北側にあたります。
決してサンダーバード2号ではありませんので、お間違いなきよう。

堀に沿って歩いていくとその大きさが実感できます。

二子山古墳 古墳の南側に到着です。

二子山古墳
全長138mの前方後円墳です。かつての「武蔵国」(埼玉県、東京都、神奈川県の一部にあたる)で最大の古墳です
周囲には、長方形の堀が中堤をはさんで二重に巡り、墳丘くびれ部と中堤には造出しと呼ばれる張り出しがあります。現在水堀になっていますが、古墳が築造された当時は水はなかったと考えられています。
本格的な発掘調査はされていないため、埋葬施設の形や大きさ、副葬品の内容など、詳しいことはまだわかっていません。出土した埴輪の形から、古墳の作られた時期は、6世紀初め頃と推定されています。
平成20年(2008年)3月 埼玉県教育委員会
(現地案内板説明文より)

外堀 中堤 内堀 ここはちょうど前方部の前に位置するところで、古墳と生垣との間が内堀で、生垣と植栽の間が中堤で、植栽と県道の間が外堀だったようです。

この古墳はかなりきちんとした形状が残っているようです。

記念碑 前方部には「鉄砲山古墳」にもあった史蹟 埼玉村古墳群の柱が立てられています。

造出し 更に堀沿いを巡って古墳の西側にを歩くと、くびれ部の造出しを見ることができます。

やはり本体が大きいので、造出しも大型です。現在は水が張られていますが、当時は水がなかったとのことですから船で渡る必要はなかったと言う事でしょう。

外堀の造出し 外堀の造出し その反対側の外堀にも造出しを見ることができます。

こちらの造出しは更に大きな区画をなしています。二重に造出しがあるというのは珍しいのでしょうか・・・。

輦台 その造出しの先に火祭りで使用する輦台が2台用意されています。

火祭りの主役である「ニニギノ命」と「コノハナサクヤ姫」が乗って入場する輦台行列用のものです。
松明 また、その近くには松明も置かれていてこちらも準備万端といったところでしょうか。

二子山古墳 こうして「二子山古墳」を一周してその大きさを改めて実感しました。

さきたま史跡の博物館

こうして行田市の古墳めぐりは終了しましたが、時間もあったことから最後にやはり「さきたま史跡の博物館」を訪れることにしました。
古墳公園のメインストリートから一本東側の道を南下します。

一源三流 その道の途中に「一源三流」という銅像が建てられています。

この「一源三流」とは、人の源は誠の心のことで、この一つの源から3つの流がほとばしっているという武道の教えのことのようです。3つの流れの1つは、国家(公共)のために血を流し、2つ目に、家のために汗を流し、3つ目に、友のために涙を流せることで、このような心を持つことが武士の魂だと教えているのだそうです。
そう、血と汗と涙といえば、「ブラッド、スエット&ティアーズ」、B.S&Tといえば「アル・クーパー」で、A・クーパーといえば「Nakid Songs」、となると赤心は「血と汗と涙」ということになる。成る程成る程!洋の東西を問わず教えは同じ・・・、という訳にはいかないです、か。
冗談はともかくとして、誰が何のためにここに建立したのでしょうか。

朝方訪れた「天祥寺」の山門の前を通って、元のメインストリートに戻り県道を越えて「さきたま史跡の博物館」に到着です。

さきたま史跡の博物館 ちょうど明日の5月5日はこどもの日ですから、館の前には鯉のぼりが泳いでいます。

「将軍山古墳展示室」で観覧券を求めていたので、こちらはそのまま入館できます。残念ながらこちらの本館は撮影禁止ですので、写真は掲載できません。

先ずは国宝展示室を見学します。
金錯銘鉄剣 相変わらずの古代オーラ出しまくりの金錯銘鉄剣ですが、今回はこれ以外の国宝をクローズアップしてみます。
《写真:パンフレットより》

一つは「画文帯環状乳神獣鏡」という鏡です。
画文帯環状乳神獣鏡 《写真:パンフレットより》

画文帯環状乳神獣鏡
礫榔から出土した副葬品の中に鏡一面があります。鏡の文様から「画文帯環状乳神獣鏡」と呼ばれています。鏡の外区(外側)には竜・亀・虎などが表された「画文帯」がめぐり、内区(内側)には8個の丸い突起(環状乳)と竜・虎と神仙が描かれています。獣と神仙を組み合わせた文様を内区に表す鏡を「神獣鏡」と呼びます。
稲荷山と同じ形の鏡が東は群馬県、西は宮崎県まで5か所の古墳から1面ずつ見つかっています。いずれも5世紀後半から6世紀初めころにつくられた古墳です。神獣鏡は弥生時代の終わり(3世紀)から古墳時代の初め(4世紀)、後漢天から晋の時代の中国でつくられたと思われます。
鏡を出土した古墳の分布は、古墳時代半ば過ぎの地方豪族と中央との関係を示すものです。関東、中部、九州の豪族がヤマト王権の本拠地に出向き、軍人である「杖刀人」や文官である「典曹人」として、大王家に仕えるようになりました。それらの任務に応じて、同じ形の鏡を大王家から分け与えられたと思われます。
(「さきたま史跡の博物館」パンフレットより)

同じパンフレットにはその解説図が掲載されています。
画文帯環状乳神獣鏡 《写真:パンフレットより》

二つ目は「竜文透彫帯金具」という所謂ベルトです。
竜文透彫帯金具 《写真:パンフレットより》

竜文透彫帯金具
礫榔に葬られた人物は、耳に細い銀のイヤリングをして、首にはヒスイの勾玉を下げ、腰には鈴つきの金銅製の帯金具で飾られた布ベルトをつけていました。
帯金具は留め金具の役目をする「具」、布ベルトの上に竜を透彫りした金属板をかぶせた「鍔板」、端につける「詑尾」からなります。具はベルトを留める刺金がなくなっています。鍔板は16枚あったと思われ、その数からベルトの長さは120cmくらいになります。竜の透かし彫りは頭を左に向け、左右の前足と後ろ足が描かれています。布ベルトをはさむ表裏2枚の銅板は、四隅など6か所を鋲でとめ、さらに鈴を下げています。
5世紀後半から6世紀初めころの地方豪族は、冠、帯金具、履など金色に輝く装身具を身につけて葬られました。稲荷山と同じころにつくられ、銀象嵌の大刀銘文で知られる熊本県江田船山古墳出土品には、冠、帽子、耳師り、首飾り、帯金具、履など一通りの装身具がそろっています。こうした装身具類はほとんど中国や朝鮮半島から輸入されたようです。
(「さきたま史跡の博物館」パンフレットより)

パンフレットにはこちらの解説図が掲載されています。
竜文透彫帯金具 《写真:パンフレットより》

このような国宝や文化財が他にも沢山展示されているますので、一度は見学しておいても良いと改めて思います。

国宝展示室を終えて次に見学したのは、企画展示室です。
企画展 企画展 訪れた時の企画展は「さきたまのハニワたち」という展示企画でした。

ちょうど今日様々な古墳で知った埴輪が展示されていて、それなりの復習のようなもので、非常にタイミングがよかったようです。

最後に館内で少し休憩し博物館を後にしました。

時間も夕方近くとなり、そろそろ「さきたま火祭り」の開始までの時間も迫ってくる時刻となりました。

埼玉県名発祥之碑 この古墳公園のシンボルである「埼玉県名発祥之碑」を見てから会場の芝生広場に戻りました。

最後に「さきたま史跡の博物館」のサイトに保存整備基本計画が掲載されていますので引用します。

史跡埼玉古墳群の保存と整備について 「新たな整備のはじまり」
埼玉古墳群は1938(昭13)年8月8日に、国の史跡に指定されました。また、風土記の丘建設に伴い、1969(昭44)年10月にさきたま資料館が開館しました。
埼玉古墳群に最初に科学的なメスが入ったのは、1967(昭42)年の二子山古墳の発掘調査であり、その他の古墳についても整備と発掘調査が継続的に行なわれてきました。その間、稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣が国宝に指定され、将軍山古墳展示館がオープンするなど、多くの成果を上げてきています。
また、1989(平元)年には各古墳の墳丘だけではなく、約22,3haという広大な範囲が追加指定により、史跡に加わりました。さらに、埼玉古墳群は史跡としてばかりでなく、都市公園としても約26,5haが整備されており、一年を通して県民をはじめ多くの方々に利用されています。
さきたま史跡の博物館(旧さきたま資料館)では、1997(平9)年度から10年間にわたって稲荷山古墳の前方部復原と内堀修景などの整備を行ってきました。2006年度に解説板などを設置し、調査・整備報告書を刊行して今回の整備事業は終了しました。
これまで埼玉古墳群の整備は、崩壊の危険がある古墳や失われた部分の復原などを中心に行ってきました。2005年度の2年計画で古墳群全体の保存・整備や活用を図るための基本計画を策定しました。
計画を推進するには指定地の拡大や公有地化、あるいは長期にわたる整備の組織・体制づくりなど多くの課題も山積しています。2007年度からはこれらの課題を整理・解決しながら、基本計画に基づいた整備を進めることになりました。
基本計画では「古墳群の恒久的な保存を図る」ことを前提にして、「安全で快適な歴史空間を創造する」といった目標を設定しています。これらの目標に基づき、古墳群整備の基本方針を定め、さらにこの方針に沿って園路計画や植栽計画、施設整備計画、情報施設計画などの個別の計画を策定しました。
活用計画では、埼玉古墳群ばかりでなく周辺の文化財や施設と共通の目的で積極的な活用を図るよう、行田市や鴻巣市などの文化財や町並みとのネットワークを構築する提案もしています。
また、調査計画では、古墳群にかかわる集落群の解明や、豪族居館発見へ向けての計画的な発掘調査の必要性を指摘しています。
老朽化した博物館や史跡指定地内にある各施設については、原則指定地外への移転や撤去を掲げています。今後必要となる中核施設のイメージとしては、展示・学習支援といった従来の機能に加え、史跡整備手法の研究開発や発掘調査の技術支援などの機能を備えた、史跡活用センターとしての役割も与えました。
「埼玉古墳群を世界文化遺産へ」という声もありますが、基本となるのは古墳群の恒久的な保存であり、歴史的事実に基づいた整備であります。
今回の基本計画は、世界遺産に例えればコアゾーンのさらにコアになる部分の整備計画であり、この部分の整備こそが根本になるものです。多くの方々の理解と協力を得て、計画を具現化していくことが、埼玉古墳群を保存し活用する基本ではないでしょうか。
(「さきたま史跡の博物館」オフィシャルサイトより)

二子山古墳の用水路沿いのフェンスに世界遺産へのスローガンが掲出されていました。
現在日本にある世界遺産は14件が登録されており、つい先日の5月7日にユネスコの諮問機関は、小笠原諸島(東京都)ならびに平泉の文化遺産(岩手県)をそれぞれ世界遺産に登録するよう勧告したことにより、6月19日から29日に開催される第35回世界遺産委員会で正式に登録される事となったようです。 大変名誉なことですし、観光資源としてもより価値のある認定となっているのも事実です。そしてその功罪を問うつもりもありませんし、善し悪しを論じるつもりもありません。
しかしながらただただ認定されブランド化するためだけの世界遺産対策ではなく、ここに記載されているような地に足の着いた活動を先ずは地道に行っていくという方針に好感が持てます。
これからも単なるブランドではなく、遠くからでも何度も訪れたいと思える楽しめる公園であって欲しいと願う限りです。その上で是非とも埼玉県初の世界遺産となっていただきたいと思います。ま、勝手な独り言ですが・・・。

この後の火祭りの模様は【さきたま火祭り】を参照していただき、今回の行田市古墳めぐりは終了です。

古墳公園の帳 すっかり日も暮れて全く古墳の姿も見えない古墳公園で、屋台と街灯の灯りだけが現代と古代とを繋いでいるようです。

これからは古墳を見るたびに違った角度から見られるような気がします。

2011.5.28記

関連記事
スポンサーサイト


コメント

    コメントの投稿

    (コメントの編集・削除時に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)


    トラックバック

    Trackback URL
    Trackbacks