巻之一・天枢之部「新橋」

当時の江戸観光案内書である江戸名所図会では、「新橋・汐留橋」について以下のように書かれています。

『大通り筋、出雲町と芝口1丁目との間に係る。
正徳元年(1711) 朝鮮人来聘の前、宝永7年(1710)、この頃に、新たに御門を御造営ありて、芝口御門と唱え橋の名も芝口橋と更められしが、享保9年(1724)正月29日の火災に焼失する後は、また旧への町屋となされたり。
この川筋の東、木挽町7丁目と芝口新町の間に架せしを、汐留ばしといふ。』(江戸名所図会より)

「新橋」は当時の大通り筋の出雲町と芝口1丁目の間に架かっていた実際の橋で、この大通りとは、神田須田町から南に下り、今川橋・日本橋・中橋・京橋・新橋を経て金杉橋辺りまでの総称で町幅10間余りある通りと説明されています。すなわち現在の中央通りということになります。 そしてこの「新橋」に宝永7(1710)年、芝口御門を造営したことから、このあたりを「芝口御門」と呼ぶようになり、橋の名も「芝口橋」と改められた旨の記載がされているのですが、その前にあえて「正徳元(1711)朝鮮人来聘の前の…」と記述されていることから、当時朝鮮人の来日のためにこの御門が造営されたと考えられるのです。

この朝鮮人の来日というのは日韓交流の一環として、豊臣秀吉による文禄・慶長の役(朝鮮出兵)後、断絶していた当時の李氏朝鮮との国交を回復するために行われ、慶長12(1607)年の第1回から数えて、この時が8回目にあたる朝鮮使節の来日だったようなので、あくまで朝鮮人使節来日にあたっての警護のための御門ではないかと思われます。実際、この後の享保9(1724)年に火災で焼失しても再建されずに、昔の町並みに戻ったとあるので、やはり一時のための御門だったとうことで間違いないでしょう。そして、この川の東には汐留橋が架かっていたと記述されています。
先の出雲町は良く分かりませんが、芝口1丁目は現在の新橋、及び東新橋あたりで、木挽町7丁目は中央区銀座です。

そこで江戸名所図会の挿絵を見ると、中央付近にある橋が「新橋」で、その右側の橋が「汐留橋」と書かれています。江戸名所図会「新橋」
今回はこの新橋、汐留橋を中心として散策を始めます。

一体、江戸当時の新橋界隈がどのような街であったのか期待が膨らみます。

関連記事
スポンサーサイト


コメント

    コメントの投稿

    (コメントの編集・削除時に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)


    トラックバック

    Trackback URL
    Trackbacks