新橋

江戸名所図会にある中央の川は「汐留川」といい、かつては溜池を源流とし外堀の一端を担っていたのですが、首都高速道路建設のためその大部分が埋め立てられ、現在では河口付近を約900m残すのみとなっています。江戸名所図会「新橋・汐留橋」挿絵


そもそも江戸時代前まで現在の日比谷周辺は日比谷入江と呼ばれる海でした。家康は江戸城を築くため1604年より日比谷入江の埋め立てという大規模工事を行い、この工事の際に出来た溜池、虎ノ門、新橋、浜離宮を流れる人工の川が汐留川なのです。
副産物のような川ですので、それほど庶民の生活に需要な川でなかったことから、溜池から新橋(現在の土橋交差点付近)までは明治時代にはすでに埋め立てられ、新橋から先は昭和29(1951)年から埋め立て始められ、昭和38(1963)年にほぼ現在の状況となったのです。人工の川ですから、後年それを活かして現在の構図が出来上がったのですから、ある意味では再利用ということになるわけで、そう考えると江戸の文化とか、名残とか、そのようなノスタルジーも薄れる感じがしてくるには私だけでしょうか。

新橋

その第1歩は文字通り「新橋」です。

首都高の下が汐留川で、大通り筋(現・中央通り)の交差するところの橋となればここです。国道15号線の新橋交差点から見た首都高方面です。
新橋交差点


国道15号線沿いを銀座方面に向かうと徐々にその交差点がはっきり見て取れます。
首都高下


ちなみにこの国道15号線は日本橋から横浜市へ至る一般国道で、明治時代の1号国道だったそうです。そして現在の新橋を境に日本橋方面が通称、中央通りで、神奈川方面が第1京浜となるのですが、そのややこしさが道路標識に現れています。

新橋交差点標識 これは新橋交差点を銀座方面にわたる手前の標識で、ここから先が中央通りで、この手前が第一京浜であることがわかります。
そして右側が昭和通り方面となるのです。


新橋交差点標識 更に新橋の交差点を渡ると右側が外堀通りの標識に変わっています。


そして、その国道15号線をまたいでいる首都高の下に「新橋」の親柱が残っています。
新橋親柱


親柱とは欄干の両端などにある橋の名を刻み意匠をこらした柱のことで、確かに「新橋」と刻まれています。かなり立派な橋だったのが想像できます。
新橋親柱 新橋親柱


これは江戸時代の木橋であった「新橋」が明治32年に単アーチ鉄橋となった後、大正14(1925)年に同型のコンクリート橋に架け替えられたときの親柱だそうです。そして昭和39年、汐留川の埋立てに伴い橋は撤去されたのですが、この親柱だけがモニュメントとして残されたものなのです。まさに、ここが図会にある「新橋」そのままの位置であるということです。

この「新橋」の親柱があるところはポケットパークになっていて、横には「銀座柳の碑」があります。
銀座の柳の歌碑


このあたりの境界線は首都高の南端までが中央区なので、このポケットパークはぎりぎり中央区に位置しているということから、この碑が建てられたのでしょう。
これは西条八十作詞、中山晋平作曲「銀座の柳」の歌碑で、明治20年頃街路樹として銀座の街に植えられた柳は街の発展と共に銀座の名物となりました。
その柳を歌ったこの歌は大ヒットしたそうです。これを記念して昭和29年に銀座通連合会が建立したものだそうです。

銀座の柳は有名ですが、いまひとつ「モボ・モガ」の時代なのでピンと来るものはありませんが、横に植えられている銀座の柳2世とやらも立派に銀座の景観をなしているのでしょう。
銀座の柳2世


首都高をくぐって進んだ交差点が銀座8丁目の交差点です。
銀座8丁目交差点


左角に玩具の博品館があり、右角に天麩羅の天国がある交差点といえば何となく判りやすいかもしれません。
ここが「新橋」を渡った先ということです。

そしてこの中央通と交差する道が「御門通り」と呼ばれる通りで、前述の「芝口御門」があったところなのです。
御門通り


ここから「汐留橋」へ向かうまえに、折角なのでここは一つ汐留川を遡ってみることにします。
御門通り、汐留方面 御門通り、新橋駅方面左が御門通りの汐留方面へで、右が新橋駅方面です。


金春屋敷

首都高沿いの「御門通り」を北西の方角、溜池方面に向かうと1本目の角に「金春屋敷」なる案内板があります。

金春屋敷跡

所在地 中央区銀座8丁目-6-8地域
江戸時代、幕府直属の能役者として知行・配当米・扶持を与えられていた家柄に、金春・観世・宝生・金剛の四家がありました。能楽は室町時代に足利幕府の保護奨励を受けて発達し、安土桃山時代には熱心な愛好者であった豊臣秀吉の保護を受け大いに興隆しました。
特に、金春家は秀吉の強力な保護を受け、能楽の筆頭として召し抱えられました。江戸幕府も秀吉の方針を踏襲して能楽を保護し、金春・観世・宝生・金剛の四座を幕府の儀礼に深く関わる式楽と定めました。
元禄6年(1693)頃の江戸市中の状況を記した「国花万葉記」によると、金春大夫は山王町(現在の銀座8丁目)・観世大夫は弓町(現在の銀座2丁目)・宝生大夫は中橋大鋸町(現在の京橋1丁目)・金剛大夫は滝山町(現在の銀座6丁目)に屋敷を拝領していたとあります。
金春家は、寛永4年(1627)に屋敷を拝領したといわれ、寛永江戸図『武州豊嶋郡江戸庄図』には「金春七郎」の名が確認でき、現在の銀座8丁目6・7・8番辺りに図示されています。
後に屋敷は麹町(現在の千代田区)に移りましたが、跡地には芸者が集り花街として発展しました。
金春の名は、「金春湯」・「金春通り」などと、今もこの地に残っています。 平成21年3月 中央区教育委員会』(現地案内板説明文より)

なるほど、それでこの通りには金春通りと名付けられているのですね。
金春通り


現在の能の流派は上記に記載のある大和四座といわれる系統と、それ以外の日本各地の土着の能に分けられます。
実際には金春・観世・宝生・金剛の四座と江戸期に金剛座から分かれた喜多流の5つを合わせて四座一流が現在の能の主流です。新興の喜多流ですが明治期には四座と同格とされたのですが、座付制度を取らなかったため喜多座とは呼ばずに喜多流と呼ぶのだそうです。
現在四座一流の系統の能楽師たちは社団法人能楽協会を組織していて、この能楽協会に加盟しているものが玄人の能楽師と位置づけられているそうです。要するに能楽協会に加盟指定しているものはプロで、それ以外はセミプロ、或いはアマチュアとでもいった格付けなのでしょう。
こういった組織は能に限らず華道、茶道、書道、盆庭、邦楽、日本舞踊、更に武術・武道など多く存在し、これは家元制度というシステムの上で運営されている組織であり、その組織の内部事情は一般の我々には計り知れないものが存在しているようです。
さすがに殺人事件は起こらないようですが…。
そこでここは寄り道をして「金春通り」を散策してみます。

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