金春通り

銀座煉瓦街

通りを進んだすぐ左手にレンガで造られた記念碑があります。
煉瓦街記念碑 煉瓦街記念碑


『銀座は日本に2箇所しか建設されなかったきわめて貴重な煉瓦街の一つです。もう一つは丸の内の煉瓦街でした。しかし今日では残されたこうした遺構から明治時代の煉瓦街を窺い知るほかはありません。
設計者はトーマス・ジェイムス・ウォートルスというイギリス人です。フランス積みで、明治5年から10年にかけて当時の国家予算の4%弱を費やし、延べ10000メートル余もあったといわれています。
この煉瓦は銀座8丁目8番地(旧金春屋敷地内)で発掘されたものでゆかりの金春通りに記念碑として保存される事になりました。
下の絵は、明治初期のガス灯や張り板、提灯など当時の金春通り煉瓦街を偲ばせる古い写真を元に銅板に彫金したもので、見る角度により昼夜の陰影が出るよう微妙な細工が施されております。
銅板画制作 第11代 銅昭』(記念碑碑文より)

この銀座の煉瓦街は明治5(1872)年、和田倉門付近から出火した銀座・築地一体を焼いた大火が発端でした。焼け野原となった銀座は当時鉄道開通後の東京の表玄関であった新橋(汐留)に近いこともあって、政府は銀座を再建するにあたり西洋流の不燃都市の建設を目指すことを示唆し、東京府により煉瓦建設の布告が出され、建設方法は官営(大蔵省建設局が建設し払い下げる)と自営(民間で建設)の2通りがとられたそうです。
明治5年8月から着工し、明治6年には拡張された大通り沿いが完成し洋風2階建ての町並みが出来上がりました。これはロンドンのリージェント・ストリートがモデルだといわれています。その後、明治10年までに煉瓦街計画は完了しました。
ただし、煉瓦街といっても表面は漆喰や石で仕上げられたものが大部分のため、いわゆる我々が想像する赤レンガの町並みというわけではないようです。
その後、改修されたり建て直されたりしながらも、大正時代までは煉瓦街はかろうじて残っていたようですが、関東大震災で殆どの建物が倒壊・焼失したため、銀座煉瓦街が完全に消滅したのです。

この後、長い間煉瓦街の遺構は全く残っていないとされていたのですが、ここでこの遺構が見つかったことは非常に重要、かつ貴重なもので、ここ以外に江戸東京博物館にも展示されているそうです。江戸から明治への過渡期の歴史として興味深い史実です。
因みに丸の内の煉瓦街は当時一丁倫敦と呼ばれ、こちらは赤レンガの街並だったようです。
当然現在残ってはいませんが、先ごろ三菱一号美術館として復元されたのも記憶に新しいところです。

金春座

この記念碑を見ていたところ「ノーブルパール」という店舗の方が出ていらして能のイベントについてお教えいただきました。
毎年、この金春通りでは「能楽金春祭り」と題されたイベントが開催されているそうです。
金春能楽まつり


今年は26回目で8月7日(土)に開催されます。いただいたパンフレットの説明です。

能楽金春祭り
銀座8丁目の中央通より一筋西側の通りを金春通りといいます。江戸時代、ここに能楽金春流の屋敷があり、明治以降も金春通り・金春芸者などの名を残し、現在も金春湯にその名を留めています。
「能楽金春祭り」は、江戸文化を継承すべく、「金春通り会」と「社団法人・金春円満井会」がタイアップして、昭和60年に始まりました。
8月7日に金春通りの路上で演じられる番組は、いずれも、千年の古儀を誇る「奈良金春」独特の能楽であり、平和を祈願し、泰平を喜ぶおめでたい曲です。
銀座金春通り会・(社)金春円満井会』(パンフレットより)

「金春通り」で奈良金春能とは、まさに江戸時代の香りです。是非見たいものですが7日は予定が入っているので来年ですね。

更に意外なところに江戸の香りがありました。このパンフレットです。
プログラム


このパンフレットの表紙の題字は79世金春信高氏の揮亳によるものだそうです。そして表紙の絵は、金春流の決まり模様の「五星」の扇をあしらってデザインされ、更にこの印刷の刷色は、金春色と呼ばれる色なのです。
この金春色は明治の終わり頃から新橋芸者の間で流行した色で、正式には「新橋色」というそうです。RGB16進数では#6aacc8なので実際に日本の伝統色として残されているのです。
ここまで凝ったパンフレットはそうお目にかかれませんでしょうね。

そういわれてみれば、金春通りの街灯に書かれていた通り名の銘板にもこの新橋色が使われていました。
金春通り 銘板やはり粋な風情が溢れていますね。


最後に金春稲荷についても教えていただきました。現在、金春通りの更に一筋西側に新橋芸者の見番がある新橋会館の屋上に金春稲荷神社があり、その稲荷社はかつて金春屋敷の中にあった神社だということです。
金春稲荷もそうですが、新橋芸者の見番があるというのも実に風情のあるところです。
たった1本の通りにも実に深い歴史とともに、興味深い事柄がたくさんあるものだと改めて感じさせられました。

更に更にこのお店の入口のところには遺構が残されています。
水道管


江戸時代の上水道管(上水木樋)
18世紀初頭、ロンドンやパリの人口が50万人前後であったと言いますから、人口約100万人の江戸は、当時最大規模の都市でありました。
17世紀中頃の江戸には、すでに飲用を主とした上水道が埋設されておりました。その水道網は江戸中に張り巡らされ、配管総延長は150Kmに及んだそうです。
神田上水・玉川上水・青山上水・三田上水・亀有上水・千川上水の六上水があり、この木管は昭和42年(1967)、東京都中央区八丁堀2-30-15のビル建築現場の地下約3mから出土したものの一部です。この辺りは玉川上水の末端にあたり、(承応2年(1653年)から同3年以降に建設されたもの)武家屋敷の後、河岸になった地域です。』(現地説明プレート文より)

八丁堀で出土されたものが何故ここに展示されているのかはわかりませんが、350年以上前のものがここに展示されていることが驚きです。金春通りは実に奥深い通りです。

金春通りの江戸

金春通りを進むと右側の日除け暖簾に「江戸四季 食風情・銀座 三河屋」と書かれたお店があります。
三河屋


江戸の香りのしそうな「銀座三河屋」は、日本の伝統食の原点としての江戸食を現代におけるスローフードとして展開しているお店です。そして、その江戸の食生活を伝えるセレクトショップを目指しているようです。
なるほど、それだけでも江戸の香りが漂ってきそうですが、コンセプトだけでなく店舗自体も江戸の由緒を持っているようです。しかも銀座の歴史をそのまま背負ってきたような沿革を持っているのです。その沿革を掻い摘んでみます。

創業は1688-1703年頃までの元禄年間で、三河の国から汐留(現在の新橋駅付近)に移り、酒商を営むが後に油屋に転向。江戸時代後期には手芸品などを徳川家や諸大名に納める御用商人として繁盛する。
慶応3年に出雲町(現・銀座8丁目)に移るも、明治5年の大火で店舗を焼失します。
明治6年に銀座煉瓦街に移り、銀座8-8-3(現・資生堂パーラー)にて営業を継続。明治の初めから糸屋として糸・組紐などを扱い、大正元年海軍の御用商人としてロープやハンモックなどを納入する。
関東大震災、大戦を乗り切り昭和22年、三河屋として和装製品及び婦人服地を取扱う。
昭和36年資生堂と共同建築により新ビルを落成し、後の平成2年に現在地である金春通りに移転し、和装小物の店「銀座 三河屋」を営業し、平成15年江戸の食「銀座・三河屋」を新規開店させた、とあります。

まさに銀座の歴史といえるような由緒です。恐らく商売替えも、その時代、時代に合わせた商売を営んでいたのでしょう。
それほど大きな店舗ではありませんが、江戸の息使いを未だに残す店の一つです。

参考:【銀座・三河屋】http://www.ginza-mikawaya.jp/

通りを先に進んだ左側に金春屋敷の説明にあった「金春湯」があります。
金春湯


開業は文久3(1863)年に開業して昭和31年まで木造建築で、昭和32年現在の建物に改築されたそうです。現在銀座ではこの金春湯と銀座1丁目の区営「銀座湯」が残るのみだそうです。
開業して凡そ150年近くになろうという歴史を持ち、現在の建物ですら50年以上経過するというトンでもな銭湯です。最近では住民の入浴は少なく、近辺の飲食店の人たちが利用しているので、飲食店の開店前の日中が一番混むようで、夜6時頃からは比較的空いているそうです。銀座ならではの光景なのでしょうが、この先何十年、何百年も続いて欲しいものです。

参考:【金春湯】http://www002.upp.so-net.ne.jp/konparu/

この先の交差点で金春通りは終了で、先ほどの一筋西側の通りに向かうと角にあるビルが先ほど聞いた「新橋会館」です。
新橋会館


こちらが入口のようですが残念というか、当然というか屋上の金春稲荷へは行けないようです。
新橋会館


それでも、館内の郵便受けには「新橋組合第二部 東をどり」と記載されていて、そこに掛けられた掲示板に8月11日の稽古なのでしょうか、予定が書かれているのが、なんとも見番らしいところです。
P1210706.jpg


この金春稲荷神社は400年前に京都深草の藤森神社より遷座したものといわれ、金春太夫が秀吉から拝領した能面が御神体といわれる由緒を持っているらしく、芸事の上達に効くといわれています。
もともと金春屋敷内にあったそうですが、金春屋敷が麹町に移転してからは金春湯の隣にあったそうです。しかし、震災で焼失したためはっきりしたことは不明のようですが、一応氏子間では新橋会館の屋上の金春稲荷をその沿革としているようです。
それもこれも江戸の歴史を残すであろう財産です。

この新橋会館の前の道を進んで、もとの首都高脇の御門通りに戻りますが、この新橋会館前の道にもなんと「見番通り」というそのものズバリのネーミングが施されています。
見番通り


なかなか風情のある町並みでした。

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