海岸通り

汐留橋

三十間堀から御門通りを更に進むと昭和通りとの交差点である「蓬莱橋」交差点に出ます。
蓬莱橋交差点蓬莱橋交差点


先の「新橋」交差点が第一京浜(中央通り)と外堀通りの交差点でしたが、その外堀通りがそのまま昭和通りとなるところが「蓬莱橋」交差点で、ここは基本的には三叉交差点で銀座から南下し、右斜めが外堀通りで新橋交差点へ進み、左斜めが海岸通りで品川方面に向かいます。

昭和通りは文字通り昭和に建設された道路なのですが、そもそもは関東大震災の復興事業として計画・建設されたものです。
昭和通り


当初の案では道幅108メートルという広大なものだったそうですが、重要性が認められず現在の44メートルとなったそうです。まあ、現在の道幅でも結構広い道路ですが、もし実現していたら2倍以上の大きさですからとてつもない道路ですが、それでも結局混雑するのでしょう、きっと。
この昭和通りも私自身何十年も走りましたが、今回この昭和通りが国道でないことを初めて知りました。
正式には「東京都道316号日本橋芝浦大森線」というそうで、中央区日本橋から大田区大森までの主要地方道になるのです。通称は「昭和通り」「海岸通り」「旧海岸通り」となるのですが、日本橋から先の蓬莱橋交差点までが昭和通りで、蓬莱橋交差点から大田区平和島までが海岸通りです。
更に面倒なのが海岸通りを港区港区芝四丁目交差点から内陸側に分岐し東品川一丁目交差点で海岸通りに合流する道が旧海岸通りと呼ばれ、東品川四丁目から大井埠頭を経由し、平和島JCTで海岸通りと環七通りに接続する道路も名称こそ無いが、この道路もこの路線にふくまれているそうです。いずれにしてもこれだけの道路が都道だったとは全く知りませんでした。

「蓬莱橋」交差点の対角線上にはうっすらと「旧新橋停車場」がみえます。まさに明治の貴重な新橋たる遺構です。
旧新橋停車場


「蓬莱橋」の交差点はさすがに大きいだけあって横断歩道がないので陸橋を渡りますが、上から見下ろすと今来た御門通りの位置がが良く分かります。
蓬莱橋交差点の御門通り


そしてこの「蓬莱橋」がかつての「汐留橋」だと思ったのですが、若干位置が違うようです。

御門通りの交差点角から90度進むとちょうど御門通りと対角線状になります。
この辺りがシオサイトで、ちょうどこの辺りが江戸名所図会では汐留橋のたもとの右下の川に面した処に出てくる船宿で、鬼平犯科帳に描かれている設定の場所で、まさにその船宿が現在のこのシオサイトなのです。
汐留シオサイト江戸名所図会の頃のシオサイト


さすがに池波正太郎もこうなってしまうとは夢にも思わなかったでしょうね。

ここから海岸通りを進むと「蓬莱橋南」という交差点があり、このあたりにかつての「汐留橋」があったようです。
蓬莱橋南交差点 蓬莱橋南交差点


その「蓬莱橋南」の交差点から右手に目をやると中銀マンシオン・カプセルタワーが残っています。
中銀マンシオン


故・黒川紀章の設計で、メタボリズムとか言うコンセプトから1972年に建設されたマンションです。
「メタボリズム」とは、新陳代謝からアイディアを得て、一つ一つのカプセルは滋賀県の工場で作られ、東京までトラックで運ばれた後にビルの中心の柱にはめ込まれ、古くなったら取り外してカプセルだけ再生して又取り付けるという、確かに現代に合ったコンセプトなのでしょうが、結局のところ柱などのコアとなる部分の耐震性能などのメンテナンス問題や、地域住民のコンセンサスなど様々な問題により結局立替となったようです。
反対側へ移って中銀マンシオン・カプセルタワーを間近で見ることにします。

入口の銘板も「中銀カフセルタワーヒル」となっていて、妙に恐ろしい生き物のようになっています。
中銀マンシオン


一階の脇にカプセルのモデルが展示されています。
中銀マンシオン
そこにはこのマンションのコンセプトらしきものが書かれています。

『カプセルとは「ホモ・モーベンス」のための住まいである。黒川紀章
EXPO’70において建築学会に大きな波紋を投げかけたカプセル住宅。中銀では、21世紀の住宅形体はこれだ。
その結論に達し経済工期、経済工費を追求して、当カプセル住宅を商品化。世界でも始めてのカプセルマンシオンをここに実現しました。(昭和47年3月完成)
プレハブ住宅の進歩に従い現場生産中心の住宅形体も、昨今、工場生産部分が非常に多くなってきつつあります。
中銀の当カプセル住宅は100%工場生産され、現場では取り付け(プラグイン)作業だけをするという画期的なものでした。
これは、まさにカプセル住宅時代の幕開きといっても過言ではないでしょう。
中銀マンシオン株式会社 代表取締役 渡辺酉蔵』

かつて20年位前に一度だけ一晩泊まったことがありましたが、当時は珍しかったので狭いながらも自分の城的な気分が味わえたのですが、現在ではどうなんでしょうかね。
その後カプセルマンションを見たことはないので、何かが間違っていたのでしょう。しいて言えばカプセルホテルの原形となったのかもしれませんが…。
いずれにしても昭和の遺産ももう僅かで見られなくなるということです。
この先、海岸通りを進み振り返ると、昭和の遺産も平成のモンスターのなかに埋没しているようです。
中銀マンシオン


汐留川

首都高沿いの海岸通りを進むと左手に樹木に覆われた「浜離宮恩賜庭園」が見えてきます。
汐先橋
そしてその「浜離宮恩賜庭園」が角にある交差点が「汐先橋」でここにも当時汐留川にかかる橋がかけられていたのです。
汐先橋


旧浜離宮庭園入口と刻まれた石柱の後ろ側が川になっています。
浜離宮


「浜離宮恩賜庭園」とは文字通りかつては皇室の離宮でした。
浜離宮 P1210760.jpg


昭和20年東京都に下賜され整備された公園ですが、更に元を質せば寛永年間(1624から1644)までは徳川将軍家の鷹狩場で、4代将軍家綱の弟である松平綱重が承応3年(1654年)別邸を建てたのが始まりです。その後、綱重の子供の綱豊(家宣) が6代将軍になったのを契機に、この屋敷は将軍家の別邸となったのです。以降、歴代将軍によって幾度かの造園、改修工事が行なわれ、11代将軍家斉のときにほぼ現在の姿の庭園が完成したそうです。ここも江戸の香りがあふれているのです。
まずは「浜離宮恩賜庭園」の入口に向かってみます。門の石垣は江戸時代等のものでしょうか、歴史的にもずしりと重そうな気配です。
今回は入場料が惜しいわけではなく(300円です)、余りの暑さに庭園を散策するのもかなりしんどそうなので、季節の良いときに改めて訪れたいと思い、主たる目的である汐留川を見てみます。

先ほどの石柱のあった場所に戻り、「浜離宮恩賜庭園」の角に沿って90度川が分かれて流れており、その交わったところに暗渠の出口がみえます。
庭園角


暗渠から左手に流れていて、川幅の広いボートの係留されている川が「築地川」です。
築地川


現在の隅田川の明石町付近から分流し入船橋を通り、中央区役所付近から現在の首都高速環状線に沿い、浜離宮恩賜庭園の東側を通って隅田川に合流する河川なのですが、こちらも殆ど埋立てれられ残っているのは、この「浜離宮恩賜庭園」のところだけだそうです。

そして汐留川は、こちらの細い堀の方です。
汐留川


もともとは首都高下にあったようですが、そこは埋立てられ「浜離宮庭園」の堀割りとして作られたこの場所に、かつての汐留川が流れているようです。
決して綺麗とはいいがたい溝のような川ですが、かつての汐留川を思い馳せる唯一の場所といえば、それはそれで貴重な川といえるでしょう。

築地川と汐留川の位置関係は庭園にある案内地図でおおよそ理解できます。
地図


先の方に小さな橋が掛けられている様なので行ってみます。
汐留川


この橋は「中の御門橋」です。
中の御門橋 中の御門橋


浜離宮恩賜庭園へ渡る人道橋なのですが、実はこの橋だけがかつての汐留川にかけられていた橋で唯一埋立てられることなく残っている橋なのだそうです。
勿論、現在は鉄とコンクリートの橋ですが、恐らくこの橋は庶民というよりは、浜離宮に関係する人々の通る橋だったのではないでしょうかね。

汐留川には、上流から新シ橋、幸橋、土橋、難波橋、新橋、蓬莱橋(汐留橋)、汐先橋があり、最後の橋がこの「中の御門橋」なのですから、これもまた貴重な橋というべきでしょう…、ね。

汐留川上流 汐留川下流 「中の御門橋」までの左側の上流はかなり水が濁っていますが、右側の下流方向は結構綺麗です。


そして更に先に進むと川と道路は緩やかにカーブします。
汐留川下流


「浜離宮恩賜庭園」の角に行き着き、角に沿って曲がった汐留川は急に幅広くなり、ここだけが急に川らしくなっています。
汐留川下流 汐留川下流


そして汐川は樹木の陰を水面に落としながら隅田川にそそいでいるのです。
汐留川下流


恐らく汐留川の水面と、浜離宮の木々だけがかつての江戸の名残を留めているのかも知れません。

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