烏森神社

SLとニュー新橋ビル SL広場から先ほどのニュー新橋ビル沿いを真直ぐ進みます。

烏森神社 途中、右側の路地の先に「烏森神社」の社号標が見えます。

ここから「烏森神社」へ抜けられるのでしょうが、ここは正式な参道入口から入ってみます。

烏森神社

ニュー新橋ビル沿いを進むとビルの角の交差点で烏森通りと交差します。
ここを右折して烏森通りをホンの少し進むと、右側に「烏森神社」の社号標と参道を見ることができますが、参道の両側は実に狭い路地になっています。
烏森神社烏森神社

参道の左側には「烏森神社」の幟が立っているのが参道らしさを醸し出しています。
烏森神社

おそらくこの幟がなければ飲み屋横丁に見える恐れもありますね。
参道を進むと実に近代的な鳥居と拝殿です。総コンクリート製でしょうか、一見するとそれほど由緒ある神社には思えませんが、現実には「江戸名所図会」に掲載されているのですから古くからある神社でしょう。
烏森神社

烏森神社 「江戸名所図会」には挿絵と共にこのような説明がされています。

烏森稲荷社
幸橋より二丁ばかり南の方、坂井下野侯邸の北の横通りにあり。往古よりの鎮座といへども、年歴、由来ともに詳らかならず。(元禄開坂の「江戸鹿子」(藤田理兵衛、1687)といへる草紙に「天慶年間(938-47)藤原秀郷(俵藤太10世紀中頃)、将門(平将門、940)退治のときの勧請なり」といへども、信じがたし)。
また、いかなるゆえありてや、当社の神宝に古き鰐口一口を納む(表に「元暦元甲辰年(1184)正月下河辺庄司行平建立」と彫り付けてあり。「江戸名所ばなし」(1694)に日比谷稲荷条下に曰く、「この宮地は借地にてありしに、すでに断絶におよぶべき頃、稲荷の神、宮守に告げて、古来よりの証拠なりとて、鰐口ひとつを与へたまふ。宮守公へ訴へ、この証によって、宮居つつがなし」とあるは、当社のことを誤りていふならんか。ある人いわく、明暦の回禄(明暦大火1657)に、奇瑞ありしかば、その後、社の辺除地となるとぞ。)
社司山田氏は、柳営御連歌の御連衆たり。別当は快長院と号して、本山方の修験なり。
祭礼毎年2月初午に執行す(幸橋御門に仮屋を補理ひて、神輿を移す。参詣群集して賑ヘり。)
古河御所、足利成氏願書一通(当社に蔵す)
稲荷大明神願書のこと。
今度の発向、願ふところことごとく成就するにおいては、当社修造を遂ぐべし。願書の状件のごとし。
享徳4年(1455)正月5日 左兵衛督源朝臣 成氏判』(江戸名所図会より)

ちょうど境内の横に神社縁起の石碑があります。

烏森神社縁起
御祭神  倉稲魂命 天鈿女命 瓊々杵尊
平安時代天慶3年(約1000年前)に平将門が東国で叛乱を起こしたとき、征討将軍藤原秀郷が当社に戦勝を祈願したとも、このとき勧請したとも伝えられている。室町時代の享徳4年(約500年前)には室町幕府の関東管領で古河公方と云われた足利成氏は、当社に戦勝を祈願した。その祈願状は今日も当社に宝物として伝えられている。
江戸時代には稲荷信仰により祭礼も2月初午の日に執行せられ、稲荷祭としてその賑わいは江戸で一二を争うものであった。
明治以後は5月4.5.6日を祭日とし、夏祭のはしりとしてその名をうたわれている。
当社殿は、伸びゆく新橋の地にふさわしい近代建築美の中に、神社本来の伝統を加味し昭和46年12月、氏子の熱意により竣工をみたものである
昭和46年12月 宮司 山田将夫』(現地石碑碑文より)

現在の縁起では秀郷が将門討伐のための戦勝祈願をしたと伝えられている・・・、となっていますが、図会ではきっぱり信じがたしと率直に記載されているところが興味深いです。
現代の縁起碑には鰐口の件は記載されていませんが、秀郷の8代目の子孫にあたる下川辺行平は、「烏森神社」に祈願して弓道の奥義を窮めたことから、お礼として社殿を修理し鰐口を奉納したとあるようです。
おそらくこの鰐口が江戸時代のひとつの証拠ともなったと書かれているのではないかと(全くの推測)思うのですが・・・。
更に明暦の大火では、周辺がことごとく焼けてしまったのですが、烏森神社だけは燃えなかったということで、霊験あらたかなる社として一層信仰が篤くなったといっています。
当然ながら明治以降については記載されているわけはないのですが、明治以降、日比谷稲荷との混同を避けるために烏森稲荷社の社名を烏森神社に改めたとあるので、当時から烏森神社と日比谷稲荷はこの地での大きな信仰を受けていたのでしょう。
現在、例祭日は5月に変更されているとありますが、大祭は日比谷神社と交互に隔年で行われているのだそうです。更に、2月初午の日を稲荷祭とすることは今も変わらずに、杉の葉守」を参詣の人々に授与する習わしは今でも続いているそうです。
かなり興味深い縁起ですね。

縁起碑の隣に授与品のサンプルが展示されているのですが、そのうちの葉っぱのついたものがその杉の葉守なのでしょうかね。
烏森神社

社殿の左側には「心願色みくじ」という聞きなれない名前のおみくじが置いてあります。
烏森神社
このおみくじは文字通り色によって願いを決めるようです。
赤:恋愛・良縁の願いごと、黄:金運・幸福・商売繁盛の願い事、青:厄年・厄祓・仕事・学業の願いごと、緑:健康・家庭・交通と旅行安全の願いごと、の4種類に分かれており、その色毎のくじを引き、その番号から「おみくじ」「願い玉」「願い札」をいただきます。
そして「願い札書き処」で同じ色のペンで願い事を書き、「結び処」の同じ色の紐に結びつけるのだそうです。
烏森神社 烏森神社 左が「願い札書き処」で、右が「結び処」です。

勿論、「おみくじ」「願い玉」は持ち帰ってよいそうで、後に社殿で祈祷していただけるといったシステムのようです。
私は初めてみましたが、他の神社にもあるのでしょうかね。いずれにしても女性に受けそうなおみくじですが・・・。

小さな神社ではありながら、意外と存在感のある神社で、さすがに由緒ある神社だけのことはあるようです。

新橋3.4丁目界隈

「烏森神社」をでて裏手から進むと赤レンガ通りにでます。
赤レンガ通り 赤レンガ通り
この赤レンガ通りは新橋2丁目交差点から、3.4.5.6丁目までを串刺ししている道路で、この通り沿いの商店は「新橋赤レンガ通り発展会」という商店街になっています。
この赤レンガ通りの名称は、前回【」新橋・汐留」彷徨】で訪れた、金春通りにあった銀座煉瓦街と同じで、明治5年から10年にかけて造られた煉瓦街が由来です。
当時、京橋から新橋に至るまでの銀座通りを一等煉瓦地、その他の大通りは二等煉瓦地、新道および横町は三等煉瓦地となっていたようです。恐らくここは三等煉瓦地であったのではないかと思われます。
赤レンガ通り ところどころに案内板が設置されていたり、新橋らしい車輪をモチーフとした地番表など、なかなか凝った商店街です。

赤レンガ通りを進むと左側に「塩釜神社」があるのですが、ここはちょっと寄り道をします。赤レンガ通りを右折して一旦日比谷通りへ、そして日比谷通り沿いを南下して新橋4丁目方面に向かいます。
新橋4丁目交差点の少し手前では東京都市計画道路幹線街路環状第2号線なる仰々しい名前の道路工事が行なわれています。
マッカーサー通り工事
この道路は別名マッカーサー道路という今更の亡霊みたいな別名が付けられています。
何故かを調べてみました。

この道路は特許庁前辺りの外堀通りと交差してから、虎ノ門2丁目で国道1号線と交差し、愛宕通りを地下トンネルで交差。その後、この 西新橋の日比谷通りを地下トンネルで交差し、国道15号線、汐留交差点を地下トンネルで交差して、海岸通りまで出る約1.4km程度の所謂、外堀通りのバイパスなのです。
その道路が何故、マッカーサーなのかは、この道路の計画が1946年の戦後間もない頃に作成されたことに由来するようです。
当時、アメリカは虎ノ門のアメリカ大使館から竹芝桟橋まで、幅100メートルの軍用道路の整備を要請したことから、当時のGHQの最高司令官マッカーサーの名に因んで、マッカーサー道路といわれるようになったのだそうです。
実に尤もらしい話しなのですが、実際は違うようです。
これは当時の東京都戦災復興都市計画街路の一つとして、1946年に当時の都市における盛り場研究の第一人者で新宿歌舞伎町の生みの親および命名者でもある日本の都市計画家・石川栄耀という人が計画した幅100mの道路です。しかし同じく100m通りとして計画された昭和通りと同じように、敗戦国という立場と緊縮財政により40m道路として計画しなおされたのですが、その後、計画区域の急速な市街化やバブル期の地価高騰などにより50年以上も凍結されてきたものが、2003年、汐留地区再開発によってようやく事業化された道路なのです。
したがってGHQは全くこの計画には絡んでいないのですが、100m道路などという無茶な計画はGHQが考えたものであろうという憶測からマッカーサー道路と呼ばれるようになったと言われているのです。
21世紀の時代に、そのような亡霊もまた歴史のあやとして面白い伝説です。

切腹跡地の立て札 マッカーサー道路工事場所からさらに進んだ新橋4丁目の交差点のすぐ手前に1つの立て札が立っています。

史蹟
舊・田村右京太夫屋敷跡にして元禄14年(辛巳3月14日)に浅野内匠頭の自夂せし所なり
「浅野内匠頭終焉之地」の石碑は、環状第2号線の工事に伴い一時撤去しており、東京都第一建設事務所に保管されています。
東京都 田村新交町会』(現地案内板説明文より)

当時の江戸切絵図を見ると、田村右京太夫屋敷は愛宕下大名小路に面しているようですが、この小路が現在の赤レンガ通りだそうです。とすると田村右京太夫の屋敷は赤レンガ通りから日比谷通りの間にあったことになり、やはりかなり広い屋敷だったことが窺えます。
とすると、この田村右京太夫とは一体…、となるのですが、一関藩(岩手県内)の藩主の上屋敷だそうなので、確かに広いのは最もなことです。そして浅野内匠頭が松の廊下で刃傷に及び、有名な「風さそう花よりもなほ・・・」と詠んで切腹した場所なのです。
残念ながら本来は石碑が立っているようですが、マッカーサーの為に一時避難となったようです。さすがに米国にはいつになっても敵わないようです。

その本来の立て札と石碑の写真が置かれているのは、実に配慮が行き届いています。これなら多少は見た気になるというもので、一応写真に収めてみましたが、そのときふと気がついたのが、その写真に写った後ろの店舗です。
切腹跡地の立て札

ZZ 「ZZ」という看板が出ているではありませんか。この店にはつい2週間ほど前に訪れたばかりですが、そのときは夜だったので、すっかりこの立て札には気がつきませんでした。

何を隠そうここは、かの有名な(!?)ダディ竹千代氏がプロデュースしたライブハウスで、マスターは当時「ダディ竹千代と東京おとぼけCats」のホーン奏者であったボーン助谷氏なのです。
そしてこのボーン助谷氏は私が学生時代に加入していた軽音楽部のジャズオーケストラの3年上の先輩でした。そしてつい2週間前にバンドのOB会ということでここに集まり、ボーン助谷氏とは、ほほ卒業以来くらいのご無沙汰でしたが、実に懐かしいひと時を過ごしました。まさか、その前にこのような記念碑があったとは、つゆほども知りませんでしたが、妙な因縁にちょっと驚きを隠せませんね。

切腹碑の後は、このままマッカーサー道路を南下します。
2ブロック進んだところに小さな稲荷社があります。「田村銀杏稲荷大明神」と幟に染められています。
田村銀杏稲荷大明神 田村銀杏稲荷大明神
このあたりも先ほど浅野内匠頭が切腹した一関藩主、田村右京太夫の上屋敷があったところで、当時、その庭先に大きな銀杏の樹があったそうですが、関東大震災で焼失したそうです。その後、その銀杏の樹の跡地にこの稲荷社が建立されたので、田村家の銀杏から「田村銀杏稲荷大明神」となったようです。
しかしこの稲荷社も第二次世界大戦で焼失してしまい、マッカーサー道路の建設により田村邸跡もなくなってしまうため、2003年に地元有志によって稲荷社のみ再建されたものだそうです。

その中心となったのが和菓子の店「新正堂」の三代目だそうで、このマッカーサー道路沿いにお店があるということなので行ってみます。
赤レンガ通りとマッカーサー通りの交差する地点から少し南寄りにお店があります。
幟にはなんと「切腹最中」と書かれています。
新正堂 切腹最中
店頭には「切腹最中」のサンプルと、ご丁寧なことに内匠頭の例の唄が書かれています。当然内匠頭の切腹に因んだお菓子で、随分と物騒な最中です。
しかし、これが意外と受けていて、サラリーマンの街新橋にはうってつけで、得意先などにお詫びに行く際、手土産としてこれを持参すると本気で怒れなくなるという、本当のような、嘘のような・・・、信じるか信じないかはあなた次第の最中のようです。

参考:【新正堂】http://www.shinshodoh.co.jp/

それでもウケだけを狙っているお店ではなく、実は大正元年から続いている由緒あるお店なのです。結構、この日は混んでいたので実際に食べてはいませんが、いずれ一度試食したいと思います。
小さな歴史が一杯詰まっている新橋です。

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