日比谷稲荷神社

新正堂からこのままマッカーサー道路沿いを進むと「日比谷稲荷神社」に着きますが、ここはまたまた寄り道をします。
赤レンガ通りに戻り、西の方向へ5.6分進んだ左側に「塩釜神社」があります。

塩釜神社

横の路地から進むとそこには港区立塩釜公園という入口があります。
塩釜公園
公園というよりは空き地といった方が正しいでしょうが、きちんと整備はされているようです。
塩釜公園 こちらを横切って進むと正式な公園の入口と「塩釜神社」の参道となり、ここには公園の沿革が書かれています。

塩釜公園の沿革
江戸時代、この公園の場所は、仙台藩主伊達家の中屋敷にあり、鹽竈神社の境内になっていました。
この神社は、はじめ元禄8年(1695年)に今の東新橋にあった伊達家上屋敷内に、領地の鹽竈神社本社から分霊を迎えて祀られていたものが、安政3年(1856年)に移転され、邸内社として私に祀っていました。その後一般の人々にも参拝を許し、本社に同じく安産の神様として信仰を受けました。
明治になり大名屋敷がなくなってからも神社は存続しましたが、大正12年の関東大震災の後、災害時の避難場所の確保と町民の安息や子供の遊び場もかねて、昭和5年に東京で唯一の町立鹽竈公園として開園しました。
その後昭和46年、港区が区立塩釜公園として整備しましたが、敷地拡張に伴い、この度、全面改造を行ないました。
昭和59年12月 東京都港区』(現地案内板説明文より)

若干補足すると、この公園計画の際当時の所有者であった伊達家の子孫、伊達興宗がこのことを聞きつけて約400坪の敷地を当時の愛宕下町会に寄付したのだそうです。
さて、ここで整理しておかなければならないのが武家屋敷についてです。
上記の説明では、この公園は伊達家の中屋敷にあり・・・、と記載されており、さらに今の東新橋にあった伊達家上屋敷内・・・、ともかかれています。 以前、【「新橋・汐留」彷徨】で訪れた際に、現在の日テレタワーにその上屋敷の案内板がありました。
ここで、この武家屋敷について調べてみます。

現在、上記のように仙台藩主伊達家の屋敷といわれると、一般的に伊達家(仙台藩主)江戸藩邸と呼ぶことが多いようです。
この江戸藩邸は幕府と藩をつなぐ政治的な窓口であり、幕府からの連絡は藩邸を通じて本国に伝えられ、一方、本国から幕府へ連絡する際にも藩邸を経由して伝えられるという機能がありました。
しかし、一番大きな理由は1年ごとにあり参勤交代制度にあるようです。この参勤交代による大名の江戸における居住地がこの藩邸なのです。ただし、この藩邸という概念は基本的には無く、江戸藩邸は各藩主家の江戸屋敷と呼ばれ「○○家屋敷」として、当時の地図には記載されているのです。つまり仙台藩藩邸は当主が伊達家ですから伊達家屋敷、正式に古地図では松平陸奥守と記載されているのです。
松平陸奥守とは伊達家を意味しているのですが、松平は称号、陸奥守は武家官位の特例です。他に松平加賀宰相は前田家、松平薩摩守は島津家、松平長門守は毛利家といった按配です。
したがって古地図では何処にも藩邸とは記されていないのです。

そしてこの江戸屋敷の種類として上・中・下といったように機能と距離によって分類されています。
■上屋敷
大名とその家族が居住し、江戸における藩の政治的機構が置かれた屋敷。大名は在府中江戸城に登城する必要から基本的には江戸城に近い屋敷が上屋敷となったそうです。そして大名在府中はここで政務をとり、帰国後は江戸留守居役が管理したのです。
構成は御殿空間といわれる大名の居室などの表御殿と正室の居室などの奥御殿や庭園などと、詰人空間といわれる家臣の住まいである長屋や藩の政務を行う施設にわけられるそうです。
■中屋敷
上屋敷の控えとして使用され、隠居した藩主や成人した跡継ぎの屋敷です。長屋も設けられ家臣が居住する区域もあったようです。
■下屋敷
庭園などの別邸としての役割が大きく、大半は江戸城から離れた郊外に造られたようです。そのような意味で上屋敷や中屋敷と比べると規模は大きいものが多いようです。
江戸では大火が多かったため、その際の非難場所、或いは復興までの仮屋敷としても使用されたそうです。
上記以外に、年貢米や領内の特産物を販売するために設置した倉庫兼邸第の蔵屋敷もあったようです。

これらの屋敷は明治維新後、多くは明治政府に明け渡され跡地は主要官庁や軍の関連施設などに利用されました。また、庭園を活用して公園として利用されているケースもあります。
比較的有名な例
■主要官庁や軍事施設など
防衛省庁舎(新宿区市谷):尾張藩徳川家上屋敷、外務省庁舎(千代田区霞が関):福岡藩黒田家上屋敷、アメリカ合衆国駐日大使館(港区赤坂):牛久藩山口家上屋敷、赤坂御用地(港区元赤坂):紀州藩徳川家赤坂中屋敷、外務省飯倉公館及び麻布郵便局(港区麻布台):米沢藩上杉家中屋敷及び米沢新田藩上屋敷、国立印刷局(港区虎ノ門):佐賀藩鍋島家中屋敷、オーストリア共和国駐日大使館(港区高輪):会津藩松平家下屋敷
■庭園・神社など
小石川後楽園(文京区後楽):水戸藩徳川家上屋敷、明治神宮(渋谷区代々木): 彦根藩井伊家下屋敷、新宿御苑(新宿区内藤町):高遠藩内藤家四谷内藤新宿下屋敷、六義園(文京区本駒込):郡山藩柳沢家下屋敷、有栖川宮記念公園(港区南麻布):盛岡藩南部家下屋敷
■学校・文化施設など
国立新美術館(港区六本木):宇和島藩伊達家上屋敷、東京大学本郷キャンパス(文京区本郷):加賀藩前田家上屋敷、青山学院大学(渋谷区渋谷):西条藩松平家上屋敷、慶應義塾大学(港区三田):島原藩松平家中屋敷、上智大学(千代田区紀尾井町):尾張藩徳川家拝領屋敷、築地市場(中央区築地):尾張藩徳川家蔵屋敷
■企業・その他
グランドプリンスホテル赤坂(千代田区紀尾井町):紀州藩徳川家上屋敷、六本木ヒルズ毛利家庭園(港区六本木):長州藩毛利家上屋敷、汐留シオサイト(港区東新橋):仙台藩伊達家上屋敷、東京国際フォーラム(千代田区丸の内):土佐藩山内家上屋敷、NEC本社ビル(港区芝):薩摩藩島津家上屋敷、ホテルニューオータニ(千代田区紀尾井町):彦根藩井伊家中屋敷、赤坂サカス(港区赤坂):広島藩浅野家中屋敷、八芳園(港区白金台):薩摩藩島津家下屋敷
当然ながら都心の一等地にあったのは言うまでも無いことですが、これもまた歴史を巡るには面白いテーマかもしれません。

公園を抜けると石造りの鳥居があります。
塩釜神社
ここからが境内で、塩釜公園とは打って変わって都心とは思えない、張り詰めた(様な気がする・・・)空気と、鬱蒼とした樹木が、何処と無くスピリチュアルな雰囲気を醸し出しています。

一の鳥居を抜けると二の鳥居がありますが、どう見ても既存の鳥居にはない形の鳥居です。
塩釜神社
とするとこれは鳥居ではないのでしょうか。
鳥居というよりはストーンヘンジをモチーフにしているような形ですが・・・。

その先に社殿があります。それほど大きくは無い社殿です。
塩釜神社
先ほどの公園の沿革でも少し触れられていましたが、神社の縁起は、元禄8(1695)年仙台藩第4代藩主・伊達綱村が陸奥国一宮・鹽竈神社の御分霊を、汐留にあった仙台藩上屋敷に勧請したことを創祀としています。安政3(1856)年13代藩主・慶邦が中屋敷に遷座し、一般にも開放したため安産の神として参詣者を集めるようになりました。
明治維新以降は更に信仰を集め、毎月10日の縁日には多くの女性が参拝したといわれています。
昭和5(1930)年敷地の一部を公園に開放するも、昭和20(1945)年空襲で焼失し、戦後社殿を再建し境内に欅などの樹木を植樹したそうです。

ちょうど女性が一人お参りしていましたので、やはり安産祈願なのでしょうかね。
塩釜神社 社殿の前で参拝すると、そこにみょうな紙切れが貼られていました。

『ちい散歩ロケにて 地井武男 他スタッフ一同 2007.11.7』と書かれています。

なるほどここでは「ちい散歩」のロケがあったのですね。
それにしても約3年前の紙切れ一枚が良く残っていたもので、それの方が驚きです。更に地井さん結構達筆でした。

社殿を後にして、横にある稲荷社にもお参りします。
こちらの狛犬にはなぜが金網がかけられていますが、何故なのでしょう。
塩釜神社
そしてその台座には鹽竈講と刻まれていますので、かつて講が盛んに行われ手いたのでしょう。
社の後ろには大黒神と恵比寿神が祀られているのは、ちょっと面白い構図です。
塩釜神社
何となく、こんなところもスピリチュアルな雰囲気を出している一旦かもしれません。

日比谷稲荷神社

塩釜神社をあとにして最後に向かうのが「日比谷稲荷神社」です。 一旦マッカーサー道路に戻り、道路沿いを汐留方面に進みます。

マッカーサー通りを進むと汐留の近代的なビルの中に小さな(比較すると)朱の鳥居を見ることができます。 マッカーサー道路と日比谷稲荷

そして国道15号線に出るとその鳥居がはっきり見えます。
日比谷稲荷 近代的な街の中の神社として、意外とその存在感は強く感じます。

この「日比谷稲荷神社」も江戸名所図会でも取り上げられているところですので、江戸時代でも賑わっていたことでしょうが、まさに現在のような街になるとは何人たりとも想像だにしえなかったことでしょう。
日比谷稲荷 ここで江戸名所図会での挿絵と解説を見てみます。

日比谷稲荷祠
芝口三丁目西の裏通りにあり(このところ町幅至って狭し。ゆえに土人日陰町と字なす)。本山方の修験寂静院別当たり。万治(1658から1661)の頃、藍屋五兵衛といへる者、託宣によって、花洛藤森の稲荷を勧請なせしといへり(日比谷、昔は比々谷に作る。小田原北条家の「所領役帳」にも、比々谷に作り、この地を、大胡宮内小輔(大胡助五郎勝行)所領のうちに如ふ)。
(以下、挿絵書き入れから)
毎年初午祭には二日以前より源助町と芝口三丁目の間の横小路へ仮屋を補理ひ、神輿御旅出ありてこの辺の蕃昌いふばかりなし。』(江戸名所図会より)

芝口三丁目の通りは当時、大通りと呼ばれた現在の国道15号線(第一京浜)で、その本通りと並行して西側に日カゲ丁通りという路地があり、芝口三丁目とその路地の間にあったようです。古地図によると近くには遠山金四郎の名前も見えます。また、芝口三丁目と源助町の間の路地は僅かな距離ですが、そのあたりが祭りでは大層賑わったことなのでしょう。
しかし、ここはもともと日比谷神社が鎮座していたところではなかったようです。

『当日比谷神社は、古くから旧麹町区日比谷公園の大塚山という所に鎮座し、日比谷稲荷明神旅(さ)泊(ば)稲荷明神と称しておりました。
慶長 11(1606)年、江戸城築城に際し日比谷御門を造営することとなり、氏子と共に芝口に移動となりますが、町名は従来のまま、日比谷となっておりました。
しかし、寛永7(1630)年、新橋に新しく芝口御門を造営することになり、町名も日比谷町から芝口町へと改称することになりましたが、神社の社号は変えることなく現在に到ります。
芝口の地に御鎮座して四百有余年となる古社であります。
御霊験著しいことから崇敬者も多く、江戸幕府の時代には毎年1月6日に神札を捧持して登城する慣例があったといわれ、それ以外にも伊達、脇坂、中川、肥後、本堂、毛利、井上、片岡家の諸公から篤い崇敬を集めていたといわれます。
明治5(1872)年に村社に列せられ、その後、関東大震災(大正12年)の影響で昭和三年の都市計画区割整理の対象となり、愛宕下町二丁目に換地されて、現在の新橋四丁目に日比谷神社の御社殿が造営されました。
以降、新橋の鎮守様として広く崇敬を集め幾多の災厄に遭うも、その都度氏子崇敬者の方々の御厚意をもって再建して参りました。
平成21年に、都市道路計画(環状2号線)の建設により、御社殿を東新橋二丁目に建造されました。現在では新橋四丁目町会・新橋五丁目町会・汐留町会・新橋二丁目町会・新橋駅前ビル自治会・東新橋一丁目町会及び汐留シオサイト地区の氏神様として変わらぬ崇敬を集めております。』(日比谷神社オフィシャルサイトより)

もともとは現在の日比谷公園にあったようで、江戸時代、関東大震災前まではこの地にあり、その後、新橋4丁目に転座し、昨年現在の東新橋2丁目に転座したということになります。
現在地はちょうど日カゲ丁通りにあった場所から、大通り(国道15号線)を隔てた反対側に移ったと考えて良さそうです。

実際に日比谷神社に行ってみると、圧倒される高層ビル群の中で、真新しい社殿や鳥居がさも誇らしげのようです。
日比谷稲荷日比谷稲荷

マッカーサー道路 勿論、境内は大きくありませんが、ちょっと小高くなっていることから正面のマッカーサー道路の工事を真直ぐ見ることができます。

日比谷稲荷 日比谷稲荷 社殿で参拝を済ませると左側に日鯖講と刻まれた手水がありましたので、 これが「旅(さ)泊(ば)稲荷」に関連するのかと調べてみました。

「鯖稲荷」と呼ばれた理由
当社が日比谷公園の中にあった頃、全国の苦しんでいる旅人たちに神社の社務所を開放し、無病息災の祈願を受けさせたところ、霊験が殊更に著しくあらわれ、旅人や周囲の人々は「旅泊(さば)稲荷」と唱えました。
新橋に遷った後に魚の鯖に変わるようになり、鯖稲荷と称してまいりました。
特に昔、虫歯虫封じに苦しむ人が御祈祷をうけると霊験があるとされ、鯖を食べることを断ち祈誓をかけると治ったそうです。それ以降、治った人々は鯖を奉納するといわれてきました。』(日比谷神社オフィシャルサイトより)

日比谷鯖稲荷だから日鯖講なのでしょうかね。いずれにしても比々谷入江と呼ばれるくらいもともと海だったところですから、鯖が現れてもそれなりに辻褄は合いそうです。
高層ビル群と鎮守の取り合わせの妙を感じながら、日比谷神社を後にしました。

日比谷神社から国道15号線を北上してJRのガードをくぐると、ゆりかもめの新橋駅が見え、これでスタート地点に戻ったことになります。
JRガードと国道15号線 JRガード下からのゆりかもめ新橋駅

サラリーマンの街に「烏森神社」「塩釜神社」「日比谷神社」と小さいながらも由緒ある神社がトライアングルで鎮座していました。
そのトライアングルを突き抜けるのがマッカーサーであったとは実に面白い取り合わせでした。
最後にふとした疑問で、「烏森神社」「塩釜神社」「日比谷神社」と3社とも由緒ある神社ながら、なぜ江戸名所図会には「塩釜神社」が掲載されていないのかを考えていました。
よくよく考えれば至極簡単なことで、この江戸名所図会が出来上がったのが1836年で、その当時「塩釜神社」はまだ、伊達家上屋敷内にあり一般公開されていなかったのです。中屋敷に遷座され、一般に公開されたのが1856年ですから、ちょうど20年後ということになります。
それゆえに「塩釜神社」は掲載されていなかったということです。これも歴史のあやでしょうかね。

2010.8.30記

関連記事
スポンサーサイト


コメント

    コメントの投稿

    (コメントの編集・削除時に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)


    トラックバック

    Trackback URL
    Trackbacks