はじめに

今回の散策は渋谷区の千駄ヶ谷・原宿エリアです。
江戸時代の渋谷というイメージはまさに谷底の町で、江戸時代までは殆ど見るべき、或いは知るべきものは少ないようです。
渋谷が花開き始めたのは明治になってからで、郊外のターミナル駅として閑静な住宅地を控えた土地柄だったのですが、その渋谷が変わり始めたのが戦後、東急の街として発展し始めてからです。東急会館(現:東急百貨店東横店西館)、東急文化会館、渋谷東急ビル(現:渋谷東急プラザ)、東急百貨店本店などが相次いで建てられたからです。
そして、更に郊外のターミナル駅・渋谷が現在の地位を手中に収めることになるのは昭和50(1975)年以降の東急と西武による開発競争がきっかけでした。
そしてその後、流行の発信地として若者文化の歴史を大きく変貌させ、原宿などの渋谷区全体が大きく変わってきたのです。

しかしながら昭和・平成の申し子のような渋谷にも当然歴史はあるわけで、現在の渋谷駅及び原宿駅周辺以外ではまだまだ古きよき香りが残っているところも少なくないようです。
今回の散策では、その渋谷区の一端ではあるのですが、歴史を辿り散策をしようと12月4日土曜日の冬の日・・・、とはいいながらもかなり暖冬で暖かな一日を過ごしてみることになりました。

千駄ヶ谷周辺 #1

JR線を乗り継いで降り立ったところは千駄ヶ谷駅です。この千駄ヶ谷という名前の由来は、もともとこの地にはたくさんの萱が生えていて、それを1日に「千駄の萱」(駄は馬に積む荷物の重さの単位)を積むことから千駄ヶ谷となったといわれていますが、現在ではオフィスビルが立ち並ぶ街に変貌しています。
このように個人的にもビジネスで訪れる機会の多い街ですが、ビジネスではほぼ目的地に一直線ですから中々左右を眺める余裕がありません。
東京体育館 そういった意味で、何となく見ていながら記憶に残っていない代表的な建造物が駅前の「東京体育館」で、駅を降りると交差点の先の左側にあります。

1954年に完成し、最初のビッグイベントは1958年のアジア競技大会(アジアオリンピック)の会場として使用されました。そして1964年の東京オリンピックで、メインアリーナが団体・個人共に日本が総合優勝した体操競技に使用され、プールが地味な水球競技に使用されたのです。そして、1986年に老朽化のためリニューアルし現在に至っている、50代以上ではそんな記憶が残っている建造物です。

国立能楽堂

国立能楽堂 千駄ヶ谷駅から総武線沿いを歩いて住宅街に入るとレトロと現代を融合させたような正門が出迎えます。

この能楽堂は国立で、独立行政法人日本芸術文化振興会の能楽専門の公演場で1983年に竣工しました。
この日本芸術文化振興会は他に、国立劇場・国立演芸場・国立文楽劇場・新国立劇場・国立劇場おきなわ、などを運営していますのでご存知の方も多いかもしれません。

能楽堂といわれると、どうも能の舞台をイメージしますが、厳密には能楽は三種類あるのだそうです。
能は鎌倉時代後期から室町時代初期に完成した舞台芸術の一種です。江戸時代以前には「猿楽の能」と呼ばれていたものだそうです。現在は「観世流」「宝生流」「金剛流」「金春流」などの流派があります。
2つ目は式三番と呼ばれるものです。もともとは能が成立する以前の翁猿楽の様式を留める芸能だったのですが、現在では歌舞伎舞踊や日本舞踊にも取入れられているほか、各地の郷土芸能・神事としても保存されているようです。
3つ目が狂言です。これは猿楽から発展した伝統芸能で、猿楽の滑稽味を洗練させた笑劇のことです。流派としては、大蔵流、和泉流があり、和泉元彌といえば多くの人が知っているでしょう。
これら3つの芸能を総称して「能楽」というのだそうです。初めて知ったというと恥ずかしいことでしょうか・・・。

国立能楽堂 正門を抜けると広い中庭になりますが、中央の松が情緒を醸し出しています。

国立能楽堂 そして重厚感ある近代的な建物の正面玄関です。

午前中ということもあり公演は午後からなので内部には入れませんが、張り出されていたスケジュールを眺めてみました。
定期公演とか企画公演などは当然行なわれているのですが、その中に普及講演なるものがありました。文字通り能楽の普及のためでしょうが、毎月第2土曜日に行なわれていて、能や狂言の上演に解説がついている公演のようです。
料金も正面が4,800円、脇正面が3,100円で、中正面が2,600円という意外にリーズナブルな価格です。
ちなみに来年の2011年1月8日の講演内容です。

公演内容:
○解説・能楽あんない 女物狂い「百万」の素性  小林健二(国文学研究資料館教授)
○狂言「呂蓮」大藏吉次郎(大蔵流)
○能「百万」高橋章(宝生流)
※字幕付です(日本語・英語)

といった内容です。
ここでちょっと気になったのが字幕付とは一体何処に・・・、ということでオフィシャルサイトを調べてみたら説明がありました。

字幕システムについて
国立能楽堂には平成18年11月より日本初となるパーソナルタイプの座席字幕システムが導入されています。前の座席の背面に小型液晶画面を設置し、ボタン一つで日本語表示・英語表示・表示オフを自由に選択できます。難しく思える能の詞章も、文字で見ると意外に理解しやすいもの。座席字幕では能の詞章を表示するほか、能・狂言の決まり事などを適宜解説し、能楽鑑賞をお手伝いいたします。英語表示では意訳と解説を表示し、初めて能楽をご覧になる海外のお客様にもお楽しみいただけます。字幕システムは一部を除く全ての自主公演でご利用いただけます。是非ご活用ください。
(国立能楽堂オフィシャルサイトより)

結構便利なものがあるのですね。
国立能楽堂 更に建物の左側に事務室・展示室入口があったので展示室に向かったのですが、今日は展示していないようなので入館できませんでした。

一度その普及公演には行って見たいものです、伝統芸能に触れる機会はそうありませんから。

鳩森八幡神社

国立能楽堂から一旦東京体育館方面に戻ってから、千駄ヶ谷駅とは反対方向に向かいます。
ここからはしばらく能楽にも引けをとらない位の歴史のある場所を訪れますが、その前にしばし休憩ということで、現代らしいオシャレなカフェで早一服です。

グッドモーニングカフェ オープンテラスのある「グッドモーニングカフェ」です。白ベースにグリーンをアクセントにしたありがちなファサードですが、それはそれで清潔感や爽快感を醸し出して朝の空気にはお似合いです。

このカフェのテーマは朝イチ生活の提案ということで、昨今の健康ブーム、ペットブームにより朝早くから自分の生活スタイルを確立しようとしている人が増えていて、そのライフスタイルを応援するといったコンセプトで、所謂朝早くから開いているカフェですよ、という店舗です。
オフィシャルサイトには「千駄ヶ谷から発信 東京の朝方ライフスタイル 朝一生活」というメインコピーが誇らしげに提示されています。
昔から夜型人間の私でしたが、オッサン以上になると否が応でも朝型人間になってしまうのですね。所謂、朝早く目が覚める、という老人特有のライフスタイル!?・・・なのです。そういった意味ではありがたい店舗なのですが・・・
グッドモーニングカフェ とにかく一服ということで、カフェラテとカプチーノをオーダーしました。

スタバなどより数段結構な価格ですから確かに美味しいのは当たり前で、たまにはプチ贅沢もある意味癒しでしょう。
グッドモーニングカフェ 店内もなかなかオシャレな雰囲気につつまれていました。

しばし休憩後、カフェの前の道を進むと交差点の角に目指す「鳩森八幡神社」の鳥居が見えます。
鳩森八幡神社 この鳥居は境内の裏側に当たるようなので、神社沿いを歩いて正面に向かいました。

鳩森八幡神社 重厚感ある(って、いつも言うのですが古いと紙一重ともいえます)社号標と石造りの鳥居がどっしりと構えています。
この時期師走を思い出させる大祓の文字がどこの神社でも見受けられるのは、一つの風物詩でしょう。

鳩森八幡神社 鳩森八幡神社拝殿 境内に入り参道を進むとなかなか形の良い松の木をくぐって社殿となります。
見た目が綺麗ですので、比較的最近再建、あるいは改修されたのでしょうか。まずは参拝を済ませます。

特に由緒書のようなものがないので調べてみました。

鳩森八幡神社縁起 御祭神:応神天皇・神功皇后
「江戸名所図会」によると大昔、此の地の林の中にはめでたいことが起こる前兆の瑞雲(ずいうん)がたびたび現れ、ある日青空より白雲が降りてきたので不思議に思った村人が林の中に入っていくと、突然白鳩が数多、西に向かって飛び去った。この霊瑞(れいずい)に依り 神様が宿る小さな祠(ほこら)を営み鳩森『はとのもり』と名付けた。貞観2年(860年)、慈覚大師(円仁)が関東巡錫の途中、鳩森のご神体を求める村民の強い願いにより、山城国石清水(男山ともいう)八幡宮に宇佐八幡宮を遷座し給うた故事にのっとり、神功皇后・応神天皇の御尊像を作り添えて、正八幡宮とし尊敬し奉ったと伝えられている。
(鳩森八幡神社オフィシャルサイトより)

「江戸名所図会」の江戸時代でも古刹として解説されているのは、さすがに創建が平安時代という由緒ある神社故でしょう。当時は「千駄ヶ谷 八幡宮」と呼ばれていたそうです。
江戸名所図会 その「江戸名所図会」での挿絵がこちらで、広さや位置関係は現在とあまり変わらないようです。

鳩森八幡神社拝殿 鳩森八幡神社本殿 社殿は弘化2年(1845)に上棟した欅造り50余坪の荘厳な社殿だったそうですが、昭和20年の戦災により焼失し、昭和23年から数度の復興事業が行なわれ、平成5年復元工事が完了し竣工したものだそうです。

「江戸名所図会」が出版されたのが天保5(1834)年から天保7(1836)年にかけてですから、ここに描かれている社殿は更にその前の社殿ということになります。
社殿の右上には富士塚を見ることができます。
当然、現在でも現存していますので後で見学するのが楽しみです。

神明社 社殿の隣にある末社が天照大神を祀る「神明社」です。

もともと現在明治記念館のある権田原にあったそうですが、明治41年にこの境内に遷座されたそうです。

その「神明社」の反対側に真新しい「神楽殿」があります。
神楽殿 ガラス戸で囲われた「神楽殿」は、まさに日向ぼっこにはうってつけなという、何とも罰当たりなことを考えてしまうほど長閑です。

千駄ヶ谷の富士塚 そしてその左側にあるのが、「江戸名所図会」にも記載されていた富士塚です。
鳥居と狛犬が鎮座している境内でも異空間の趣です。

東京都指定有形民俗文化財 千駄ヶ谷の富士塚
所在 渋谷区千駄ヶ谷1-1-24 鳩森八幡神社境内 指定 昭和56年3月12日
この富士塚は寛政元年(1789)の築造と言われ、円墳形に土を盛り上げ、黒ボク(富士山の溶岩)は頂上近くのみ配されている。山腹には要所要所に丸石を配置しており、土の露出している部分には熊笹が植えられている。頂上には奥宮を安置し、山裾の向かって左側に木造の里宮の建物がある。
頂上に至る登山道は正面に「く」の字形に設けられ、自然石を用いて階段としている。七合目には洞窟がつくられ、その中には身禄像が安置されている。
塚の前面には池があるが、この池は塚築造のため土を採掘した跡を利用したもので、円墳状の盛り土、前方の池という形は江戸築造の富士塚の基本様式を示している。
この富士塚は大正12年(1923)の関東大震災後に修復されているが、築造当時の旧態をよく留めており、東京都内に現存するものでは最も古く。江戸中期以降、江戸市中を中心に広く庶民の間で信仰されていた富士信仰の在り方を理解する上で貴重な資料である。
昭和57年3月31日 建設 東京都教育委員会
(現地案内板説明文より)

実際に登って見ます。
千駄ヶ谷の富士塚・採掘跡池 鳥居の先に採掘跡の池がありますが、当然水はありません。

その池にかかる石橋を渡った正面に二の鳥居と御影石の社があります。
富士浅間神社 里宮 これが里宮です。正式には「富士浅間神社」で昭和60年に木造から現在の御影石に建て替えられたのだそうです。

千駄ヶ谷の富士塚登山道 千駄ヶ谷の富士塚石碑 結構きつい斜面を登っていくと途中に石碑などが置かれています。

千駄ヶ谷の富士塚身禄像 そして7合目(というのですからこのあたりでしょう)あたりに小さな洞窟があり、中に安置されているのが身禄像だと思われます。

ここでちょっと不思議なのが通常「みろく」といえば、菩薩で名高い弥勒と書くところですが、何故か身禄なのです。
この身禄とは、本名は伊藤伊兵衛で伊勢国(現三重県)生まれ。元禄元年(1688年)に江戸で富士行者月行に弟子入りし、油売りを営みながら修行を積んだ後、享保18年(1733年)63歳の時、駒込の自宅を出立して富士山七合五勺目(現在8合目)にある烏帽子岩で断食行を行い35日後にはそのまま入定し、それが救世主、教祖的な存在として受け入れられ、富士講が誕生となったのです。いわゆる富士講を誕生・普及させたのが身禄ということです。
そしてこの身禄という名前は、釈迦が亡くなって56億7千万年後に出現して世直しをするという弥勒菩薩から取ったものだそうです。
やはり間接的に関係があったといえるのでしょう。

千駄ヶ谷の富士塚・「小御嶽石尊権現」の碑 更に上に登ると「小御嶽石尊権現」の碑があります。
この碑の背面に刻まれている「寛政元己酉年六月吉日 願主当所中」という銘文にによって、この富士塚が寛政元年築造とされた根拠とされているようです。

千駄ヶ谷の富士塚の溶岩 この先辺りから岩の色が変わり始め全体的に黒い溶岩にかわります。ここからが富士山の溶岩を配した場所となるようです。

富士浅間神社の奥宮 そして頂上の溶岩に囲まれた小祠が富士浅間神社の奥宮です。

千駄ヶ谷の富士塚からの眺望 山頂から眺めた境内がこれです。意外と高いことが判ります。
こうして山頂に上がって様々な祈願をしたのでしょうね。

麓の境内に戻って散策を続けます。
将棋堂 一画に六角形のお堂があります。「将棋堂」です。

将棋堂由来記
昭和61年1月、社団法人日本将棋連盟(当時の会長大山康晴15世名人)より、山形県の駒師香月氏の勢作による、高さ1m20cmの欅製の大駒が奉納された。
この縁により、同年11月将棋の技術向上を目指す人々の守護神とし、更に将棋界の繁栄を願って、日本将棋連盟と神社が協力し、この大駒を納める六角の御堂を建立した。御堂の六角は天地四方を表し、屋根の上の飾りの金物は将棋盤の足の形、つまりくちなし(梔子)の実の形をしている。くちなしは口無しに通じ、助言無用の戒めからきていると古くから言い伝えられている。
室内に安置された大駒は、御影石の将棋盤の上に立ち、その奥に氏神の八幡神が祀られている。
毎年年頭に、この御堂の前で祈願祭が行われる。将棋上達を祈願する人は、いつでもその夢を絵馬札に托して奉納することができる。参拝者は棋力向上の願いが叶えられ、よろず勝運に恵まれると言われている。
平成6年12月吉日 鳩森八幡神社・社団法人日本将棋連盟
(現地案内板説明文より)

将棋堂 将棋堂 残念ながら中の大駒はよく見ることはできませんでしたが、確かに六角堂の屋根の飾りは将棋盤の脚の形でした。
「くちなし」が「口無し」ですか、なるほどなるほどプチ感心してしまいました。

神輿庫 その先に各地区の神輿庫が並んでいます。

そしてその反対側に、ちょうど富士塚の裏手になるところですが、「甲賀稲荷社」の参道鳥居があります。

甲賀稲荷社   御祭神 宇迦之御魂神
昔は青山権田原の御鉄砲場付近に鎮座していて、甲賀組組屋敷の武士等が崇敬していた。明治18年に、青山練兵場設置のため、当社境内に遷座、合祀されたのである。昭和20年5月の戦災で社殿を焼失し、本殿の中に八幡神宮、諏訪大神とともに祀られていたが、復興を望む声が高まり、昭和45年欅造りの社殿が完成し、遷座された。
(鳩森八幡神社オフィシャルサイトより)

青山権田原は現在の明治記念館の辺りで、その周辺に甲賀組の組屋敷の武士が住んでいました。甲賀組とは近江国甲賀郡発祥の幕府直属の鉄砲隊で、甲賀組以外にも根来組、伊賀組、二十五騎組の4組あり、それぞれ同心が100人ずついたことから百人組とも呼ばれていたそうです。
伊賀とか甲賀といわれるとどうしても忍者を思い浮かべますが、鉄砲隊とは意外でしたね。また、鉄砲隊といわれると紀州・雑賀鉄砲隊が尻くらえ孫市がお馴染みですが、意外な事実にちょっと知識が増えました。

甲賀稲荷社 ちょうどその「甲賀稲荷社」参道の横が富士塚の登山口になっていて、こちらからも登れるようになっています。
ちょっとよく分からないのがその鳥居の隣にある地眼と刻まれた石碑です。
ちまなこなら血眼という字でしょうし、谷地眼なら底なし沼ですが、それとも違いますしどうも調べてもよく分かりません。

是非この地眼をご存知の方がいらっしゃれば・・・、って神社の方に聞けばよかったのですね。まあ、良しとしましょう。

甲賀稲荷社 最後にその「甲賀稲荷社」をお参りして鳩森八幡神社を後にしました。

江戸の香りの少ないエリアで、江戸の情景をしっかりと眼に焼き付けた貴重な神社です。

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