千駄ヶ谷周辺

鳩森八幡神社を後にして、神社前の通りを次なる江戸の香りの残る「仙寿院」をめざします。
オフィス街となった千駄ヶ谷ですが、土曜でもありまた裏通りでもあるので比較的静かで閑静な住宅街の風情です。都会のオアシスとまではいえませんが、渋谷区としては比較的長閑な地域のようです。

榎稲荷

江戸名所 お萬榎 榎稲荷 裏通りを歩いていると左側に小さな鳥居と、「江戸名所 お萬榎 榎稲荷」と刻まれた石柱が置かれています。
江戸名所というくらいなのですから、それなりには有名な稲荷なのでしょう。

奥に洞窟のような中に小さな祠があります。
江戸名所 お萬榎 榎稲荷 これが榎稲荷なのでしょうか、かなり変わった稲荷社ですが、確か以前【桶川べに花まつり】で訪れた神社の境内にある木の幹の中に社を祀った稲荷社がありましたね。

ちょっと珍しい稲荷社をお参りしていると、何処からか鋭い視線を・・・、感じるような感じないような。
江戸名所 お萬榎 榎稲荷 と、祠の上にビームを投げかける狐の姿を見つけました。
不敵な笑いを浮かべている、どうにも怪しげな狐です。

江戸名所 お萬榎 榎稲荷 祠の左側には「榎稲荷大明神」と刻まれた石碑があります。

割と新しい石碑のようですが、よくよく眺めてみていると石碑の左側に後ろ向きの狐が・・・。
江戸名所 お萬榎 榎稲荷 何となく保護色のようになっているところに、狐の妖力を感じ・・・、たら怖いですね。いずれにしても妙なところにいるものです。

そしてその狐の手前には、これも気が付かなかった不老門と刻まれた石柱があります。
江戸名所 お萬榎 榎稲荷 四角くくりぬかれているので門なのでしょうか。判らないことばかりの不思議な空間です。

ここから更に上に登る階段があるので進んでみますが、ここで実際に訪れたときには全く気が付かなかったのですが、後に撮影した写真を見ていて実に面白いものを発見しました。

江戸名所 お萬榎 榎稲荷 「江戸名所 お萬榎 榎稲荷」と刻まれた石柱の上に小さい人物のようなものが写っているではないですか。
しかも首が無い・・・。

江戸名所 お萬榎 榎稲荷 スワッ、心霊写真か!? と思いネットで調べて見ると何と二宮金次郎のミニミニ銅像でした。
《写真:(C)Walkerひで物見遊山記》

単に写真が見切れていたのでしたね。いあやそれにしても、その時には全く気が付きませんでしたね。
始めからついていたものなのか、それとも後から乗せたのか判りませんが、とにかく榎ワールドでした。

上にあがると小ぶりながら立派な社があります。
江戸名所 お萬榎 榎稲荷 こちらが現在の「榎稲荷」なのでしょう。隣には由緒書の石碑が立っています。

由縁
此地仙寿院と瑞圓寺裏坂の崖畔に榎大樹あり樹齢800余年と云う根幹風霜に曝され畸形を呈し俗称女榎と呼ぶ樹幹の下洞窟に小祠を設け榎稲荷等の鄙名を通称し伝説は伝説を生み低俗の信仰を蒐め又民俗学の対象たる事久し。昭和20年5月25日空爆戦火に焼かれ影を没す偶土地の有志相諮り此所に遷し小祠を造て榎稲荷尊として祀る冀は附草寄木の憑霊速に上智を開発し郷土の安寧慶祥を祈ると●云
昭和25年5月5日遷座之●
應嘱 仙寿院・久保田正之 撰、瑞圓寺・越緒浩一 書
(現地石碑碑文より)

もう少し判り易い由来を調べてみました。
かつてここ仙寿院と瑞園寺の裏坂の崖に榎の大木があり、樹齢800年とも云われる老木のため長年の風雨により根幹は朽ちて洞穴を開けている程でしたが、不思議にも2本のヒコバエ(若葉)を生やして伸長し、やがてそれが人間が逆立ちしたような形になり、その部分が女性の陰部に似ていた事から女榎と呼ばれていたようです。
ある時、偶々通りかかった四谷の大工が更に根元を加工して自分の女房の陰部そっくりに加工しました。しかし大工が帰宅すると女房が陰部の病気で苦しんでいたため、大工は女榎の祟りと考え岩屋に祠を造り榎神社として祀ると女房の病気はすぐ治ったといいいます。
これ以来この女榎は女性の下の病にご利益があると評判となり性神として信仰され、新宿の遊女や、堀の内詣りの男女のお参りが多く、江戸の庶民は「古里大明神」という幟を立てたりして色街の信仰が厚かったそうです。
そしてお萬榎の名は、仙寿院を創建した紀州藩主「徳川頼宣」の生母「お萬の方」が歯痛で苦しんでいたとき、榎の枝で作った楊枝を使ったところ歯痛が治ったことから、以降、この木を信仰したことに由来するそうです。。

この江戸庶民にとって親しまれたお萬榎も昭和20年の大空襲で焼失したため、昭和25年に小さな社を建立し榎稲荷として祀ったようです。ということで、下の岩屋の祠が江戸当時の榎神社を模したもので、上の小社が昭和の榎稲荷ということでしょう。
いわゆる隠れた名所という意味で、江戸時代には賑わったのかもしれませんね。確かに民俗学的にも興味深い一面があることも頷けます。
まさに江戸、それも裏江戸そんな香りのする榎稲荷でした。

瑞円寺

榎稲荷の横からそのまま「瑞円寺」の境内に入れるようです。
瑞円寺 すぐ目の前が本堂になっています。
立派な本堂で比較的新しいようですが、松や梅で風情を醸し出しています。

由来・縁起などはわかりませんが、先の「榎稲荷」での由縁や、鳩森八幡神社の別当寺であったことなどから、少なくとも江戸時代には存在していた古刹といえるでしょう。

瑞円寺庚申塔 かなり広い境内の一画に「庚申塔」があります。

庚申塔
右側の享保5年(1720)のものには、天邪鬼を踏まえた青面金剛のほか、日月・三猿が彫られています。また、戒名が彫られているところを見ると、庚申塔を墓標に転用したものと考えられます。
左のものは、造立年代は不明ですが、天邪鬼を踏まえた青面金剛・日月・三猿が彫られています。
なお、この2基には、表面の上部に家紋が彫られているのも珍しいことです。また、いずれも塔の側面に稲穂をくわえた狐が彫られており、稲荷信仰が表現されているのも大変珍しいことといわれています。
渋谷区教育委員会
(現地案内板説明文)

文化財に指定されていないのですが、教育委員会の説明があるのはそれだけ貴重なものということでしょう。
踏みつけられている天邪鬼が、何となく嬉しそうな顔をしているところが天邪鬼たる由縁でしょうか。

瑞円寺庚申塔 更に側面の稲穂をくわえた狐です。やはり「榎稲荷」の関係もあってのことでしょうか・・・。

ちょっと立ち寄った寺院でちょっと貴重なものを見ることができました。

仙寿院

瑞円寺を出て住宅街の路地を進むと「仙寿院」です。
江戸名所図会 この「仙寿院」の庭もまた江戸時代当時新日暮里と呼ばれ「江戸名所図会」にも掲載されています。

新日暮里
同所2丁ばかり西南の小川を隔てて、法雲山仙寿院といふ日蓮宗の寺の庭をしかよべり。この辺の地勢および寺院の林泉の趣、谷中日暮里に似てすこぶる美観たり。ゆゑに日暮里に相対して、仮初に新日暮里と字せり。弥生の頃、爛漫たる花の盛りにはおほいに群集せり。当寺は紀州公御母堂養殊院日心大姉(お万の方、1577-1653。家康の側室)、正保紀元甲申(1644)草創あり。塔寺の鬼子母神は、同大姉甲の延嶺にして霊示を感じ、大野の辺の土中に得られて、後当寺開創落成の日、安置ありしとなり。同所1町ばかり東南、竜岩寺といへる斎家の禅宗の寺の庭中に、笠松と称するあり。枝のわたり3間あまりあり。
(江戸名所図会より)

というように大変美しい寺院であったようで、毎年花見シーズンでは多くの人手賑わっていたのが窺えます。

仙寿院 一旦参道の入口に回ると、寺号標の横にスロープになっている参道が見受けられます。

参道を進むと本堂の横手のあたりに突き当たります。

法雲山仙寿院沿革
当山は、正保元年(1644年)紀伊の太守徳川頼宣の生母お万の方(法名・養殊院妙紹日心大姉)の発願により里見日遥(安房の太守里見義康の次子)を開山として創立された。従って江戸期は、紀伊徳川家、伊予西条松平家の江戸表における菩提寺祈願所として、十万石の格式を持って遇せられ、壮大な堂宇と庭園は江戸名所の一つに数えられ、新日暮里(しんひぐらしのさと)とも呼ばれていた。
お万の方は、徳川家康の側室で紀伊徳川家の祖、頼宣、水戸徳川家の祖、頼房の生母でもあり、また法華経の信仰篤く日蓮宗門の大外護者として知られている。
開山里見日遥(一源院日遥上人)は、のちに飯高壇林へ招かれ多くの法弟を育成し、更に越後村田妙法寺へ瑞世した。日遥を祖とする千駄ヶ谷法類は、当山を縁頭寺とする。
江戸期において隆盛を誇った当山も明治維新の変革によって衰微し、明治18年には火災によって全山焼失、その後里見日(髄尊院日上人)により復興されるも、昭和20年戦災で再び全山焼失した。更に昭和39年東京オリンピックの道路工事などによって寺観は一変したが、昭和40年には本堂、書院を再建、昭和59年には書院、客殿を増改築し、昔日には遠く及ばずながら復興し現在に至っている。
昭和63年10月吉日 誌 当山
(現地案内板説明文)

徳川家の庇護を受けていた江戸時代と打って変わって、反徳川の明治時代では当然のごとく衰退していくのは極当然の成り行きでしょう。更に都心の寺院故の因果で空襲、都市開発の波に完全に飲み込まれた一つの典型ともいえるでしょう。
それでも嘗ての栄華を伝える寺院さえ残っていれば歴史的には語り継がれる貴重な寺院の一つと云えますから貴重な寺院といえるでしょう。

境内を入ったすぐ左側の狭いエリアに墓石が並んでいます。
仙寿院里見日遥上人の墓 このうちの一つが沿革にあった里見日遥上人の墓です。この墓に関連する文化財の説明があります。

区指定有形文化財 平成17年3月24日 銅板日遥墓誌
本墓誌は、銅板に塗金を施したもので、近世に作製されたものです。墓誌銘には、当院の開山である日遥上人(号一源院。安房の太守里見義康の次男。
延宝5年(1677)12月7日遷化)生涯と事績を表裏に32行、約800字にわたって刻んでいます。これによれば、開山日遥の遷化後まもない延宝6年(1678)2月7日に日遥の門弟で当院第3世となった日逢上人が記したものであることがわかります。
昭和38年(1963)に行われた道路拡幅工事のとき、墓地の改葬を行った際、開山墓石下より発見されました。仙寿院は正保元年(1644)に赤坂の紀伊徳川屋敷より現在地へ移転してきた寺院ですが、本墓誌は、その歴史と開山日遥上人に関する歴史資料として貴重です。
渋谷区教育委員会
(現地案内板説明文)

この墓誌によれば、もともと仙寿院はお万の方により赤坂の紀伊家屋敷に草庵が建てられたのが最初で、その時から仙寿院という称があったようです。
その後沿革にあったように正保元年(1644)、お万の方の生んだ頼宣(紀州家初代)によって千駄ヶ谷に移転され、その時は東漸寺と称す1寺の建立となったのですが通称は草庵時代からの仙寿院の称号を用いていたようです。
また、墓誌によると、当時草庵建立の元である鬼子母神の相殿三十番神、紀州家の紋が入った鐘銘があったと伝えられている鐘堂があったのだそうですが、全山焼失の際に失われたそうです。
いずれにしても紀伊徳川家の祖、頼宣、水戸徳川家の祖、頼房の生母の発願した寺院ですからそれなりの格式を想像するのは容易いことです。因みに当然ながら黄門様の水戸光圀はお万の方の孫にあたります。

仙寿院布袋尊 境内を更に進むと岩屋に中に布袋尊が祀られています。
ここは青山七福神の1つだそうです。

大正13年,青山の石材店「石勝」が震災復興を記念して、各所へ石像の七福神をおさめて七福神巡拝となったのですが、戦災などで行方不明となったものがあり現在は休止しているようで「石勝山の手七福神」と呼ばれていたようです。
七福神は、仙寿院の布袋尊を始めとして、玉窓寺・恵比須、長泉寺・大黒天、梅窓院・弁財天、高徳寺・毘沙門天、長谷寺・福禄寿 、善光寺・寿老人にあったそうですが、現在ご神体が残っているのはここ仙寿院と長泉寺の大黒天だけだそうです。
いづれ復活する日が来るかもしれませんね。

仙寿院 順序が逆になりましたが、最後に本堂を参拝します。流石に昭和の本堂ですから新しく綺麗な本堂です。

嘗ての栄華はありませんが、今現在新たな歴史を刻んでいる由緒ある寺院でした。

まだまだ、江戸の香り尽きない千駄ヶ谷ですが時間の都合も体力の都合もあり、次の明治時代の渋谷に移動することにします。

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