北区散策

ほぼAM10:00に田端駅に到着すると、駅前には七福神めぐりを目的とした個人や団体が結構待ち合わせをしているようです。ちょうど10時ということもあって待ち合わせの時間には良いタイミングで、集まり次第七福神めぐりに出発していくようです。
田端文士村記念館 早速田端駅を出ると駅前には「田端文士村記念館」があります。

明治の中期まで長閑な農村だった田端の地は、明治22年上野に東京美術学校(現・東京芸大)が開校されると、この地に若い芸術家達が集まりだし、明治末期には芸術家達による芸術村の様相を呈していたそうです。そのような芸術村に大正3年に芥川龍之介、大正5年に室生犀星が田端に住み始め、彼らの名声が上がるにつれ萩原朔太郎、堀辰雄、菊池寛らが田端に移り住むようになり、大正から昭和の始めにかけて田端は芸術村から「文士村」に変貌したのでした。
この「文士村」時代を記念して「田端文士村記念館」が設立され、縁の品々などが展示されているそうなのです。
是非寄ってみたいのですが、時間的な余裕が判らないので今回はパスし、次回のお楽しみということになりました。

田端八幡神社

田端駅前の都道458号線沿いを5、6分進み、右折するとそこには第1の七福神「福禄寿」が祀られている「東覚寺」があります。
しかし、その手前に「田端八幡神社」があり、新年の初詣に今年は成田山には参詣しましたが、まだ神社にお参りしていないので、参詣しておこうかと先に寄ってみることにしました。

田端八幡神社 参道入口の大きな社号標の後ろに由緒があります。

田端八幡神社
この八幡神社は、田端村の鎮守として崇拝された神社で品陀和気命(応神天皇)を祭神としています。神社の伝承によれば、文治5年(1189)源頼朝が奥州征伐を終えて凱旋するときに鶴岡八幡宮を勧請して創建されたものとされています。別当寺は東覚寺でした。
現在東覚寺の不動堂の前にたっている一対の仁王像(赤紙仁王)は、明治元年の神仏分離令の発令によって現在地へ移されるまでは、この神社の参道入口に立っていました。江戸時代には門が閉ざされていて、参詣者が本殿まで進んで参拝することはできなかったらしく、仁王像のところから参拝するのが通例だったようです。
参道の中程、一の鳥居の手前には石橋が埋められています。これは昭和初期の改修工事によって暗渠となった谷田川に架かっていたもので、記念保存のためここへ移されました。
社殿は何度も火災等に遭い、焼失と再建を繰り返しましたが、平成4年(1992)に氏子たちの協力のもとで再建され、翌年5月に遷座祭が行われて現在の形になりました。
境内には、稲荷社のほかに田端富士三峯講が奉祀する富士浅間社と三峰社があり、富士浅間社では毎年2月20日に「富士講の初拝み」として祭事が行われています。
平成9年3月 東京都北区教育委員会
(現地案内板説明文より)

江戸名所図会、田端八幡宮 与楽寺 この案内板にも江戸名所図会が掲載されていますが、これがその江戸名所図会で描かれている田端八幡宮 与楽寺です。

江戸名所図会田端八幡宮 そのうちのこの場所が現在の「田端八幡神社」で当時は「田端八幡宮」と呼ばれていたようです。

小さくて見えづらいですが、確かに「田端八幡宮」の参道入口の前には1対の仁王像らしきものが立っているのが見て取れます。このように参道入口は多少変ったものの、神社の配置等は殆ど変っていないのかもしれませんね。
そして現在は門がないので誰でも参拝に上がれるのです。

参道を進むと参道に右側には神輿庫が並んでいます。
田端八幡神社 参道沿いの御輿庫 さすがに田端の鎮守だけあって神輿の数だけでも壮観です。

田端八幡神社 一の鳥居と旧谷田川橋欄干 その前にあるのが一の鳥居で、確かに鳥居の前には橋の欄干のようなものが埋められています。

谷田川の暗渠については以前【ミステリーウォーク2009】で訪れた霜降銀座商店街がまさに谷田川の暗渠にできた商店街で、現在の交差点名称に残る「霜降橋」はもともと谷田川にかかっていた橋でした。

田端八幡神社 二の鳥居 一の鳥居を抜けると江戸当時には無かった二の鳥居となり、その先の石段は当時の様子のままのようです。

田端八幡神社 神楽殿 境内に上がると右側にはちょっと変わった神楽殿があります。狭い境内での苦肉の策でしょうか。

田端八幡神社 拝殿 田端八幡神社 本殿 社殿は新しく比較的コンパクトながら重厚感に溢れているのは、その造作から受ける印象でしょうか。
本殿もまたコンパクトながら大社造りの荘厳さが良く現れています。流石に田端の鎮守だけのことはありますね。

神社での初詣(そんな言い方があるのか・・・!?)を済ませて、いよいよ最初の七福神に向かいます。

赤紙仁王

東覚寺と赤紙仁王尊護摩堂 「田端八幡神社」の隣には「真言宗東覚寺」と「赤紙仁王尊」と刻まれた標柱があり、その先にお堂が見えます。

赤紙仁王尊
石仏仁王の背銘に「施主道如宗海上人東岳寺賢盛代、寛永18辛巳天8月21日」と刻まれている。西暦1641年より露仏で立っていることになる。仁王は、本来清浄な寺院の境内を悪から守る金剛力士として山門の両側に立ち仏法僧の三宝を守護するものであるが、この赤紙仁王は当時江戸市中に流行していた疫病を鎮めるため宗海上人が願主となって建立されたもので、いつのころからか赤紙(魔悪を焼除する火の色)を自分の患部と同じ箇所に貼って病気身代わりと身心安穏を願うようになった。
右の阿像は口を大きく開け息を吸い込んでいる状態即ち「動」を表し、左の吽像は口をしっかりと結んで息を止めている状態即ち「静」を表している。
阿吽の姿は密教で説く胎臓界、金剛界の二界を表わし、又宇宙一切のものの始めと終わりを表している。阿像から吽像へと祈願し、満願のあかつきにはお礼として草鞋を奉納する。祈願者、病人を見舞うため日夜歩かれるのでさぞかし草鞋が必要であろうという思いやりからである。
白龍山 寿命院 東覚寺山主
(現地案内板説明文より)

東覚寺護摩堂 近づいてみるとお堂の前に真っ赤な物体が1対立っています。

赤紙仁王尊 赤紙仁王尊 阿像写真 赤紙仁王尊 吽像写真 実際の仁王像は赤紙に埋め尽くされ全く見ることができませんが、この案内板に「阿像」と「吽像」の写真が掲載されています。
これが本来の姿で、決してポンキッキのムックではないようです。

江戸時代の阿吽像 もともと「田端八幡神社」の前にあったのは先の説明のとおりですが、その当時の図が案内板に掲示されていました。

その後東覚寺にあった九品仏堂の前に移されたそうです。
そして平成20年には道路拡張工事のためそれまでの位置から約7メートル後方に移動し、平成21年には新しく護摩堂も竣工したのです。確かに非常に新しい綺麗な護摩堂です。
赤紙は買い求めませんでしたが、護摩堂に参拝して「東覚寺」に移ります。

東覚寺 福禄寿

 

東覚寺山門 赤紙仁王尊の隣が「東覚寺」の山門です。新しい山門の前には「谷中七福神」の藤色の幟がはためいています。

江戸名所図会東覚寺 江戸名所図会では、この場所になります。

境内に入ると正面に本堂が鎮座しています。
東覚寺 本堂 やはり七福神のスタート(この時間帯ではスタートでしょう)地点だけあって七福神めぐりの方たちが大勢詰掛けています。

東覚寺は、延徳3年(1491)源雅和尚が不動明王を勧請して神田筋違に創建し、後に根岸に移転し、更に慶長の初め頃田端に移転したと伝えられているそうです。
そして新編武蔵風土記稿によれば、江戸時代この寺は寺領7石の朱印を受けていた御朱印寺だったそうです。まずは本尊を参拝してから、今回の主目的である谷中七福神のスタートである福禄寿を参拝に庫裏に向います。
庫裏を入ったすぐ右側に福禄寿が祀られています。

東覚寺 福禄寿 東覚寺 福禄寿 一番奥の一番高いところに祀られていて、小さな福禄寿ですが何となく現代的なイメージです。
その廻りにもたくさんの福禄寿が祀られています。

ここで福禄寿について調べてみます。

福禄寿は、“幸福”“封禄”“長寿”の三つの徳を兼ね備えた神様として、古代中国の道教より来る“福の神”だそうで、人間の幸福はこの「福」「禄」「寿」に集約されているということを表したものだそうです。
福禄寿の「福」とは、善い人間関係のことで、親子・夫婦・仕事など人間が関係する全てのものが良好な関係であることです。相手に好かれることではなく、相手を好きになることにより「福」が付き、善い人間関係に繋がっていくという教えなのです。

福禄寿の「禄」は、金に関する全てで、所謂、金目のものや財産をいいます。金を持ち始めると貫禄が出始め、金持ちになると貫禄が出る事から、逆に貫禄が出始めると、金が入り始めるという実に美味しい考え方です。
しかし、それができないのが人の世の常、金が無いのに貫禄など出せない、と思ってしまうのが一般的なのです。しかし、こう考えている人は金も入らず、貫禄も出ない・・・、そう「禄」がない人、巡って禄が無いので「禄で無し」、つまりろくでなしとなるのです。
そしてその「ろくでなし」の行為は貪ってばかりいて、与えることをしなくなります。これを貪ってばかりいると乏しくなる=「貧乏」となるのです。
貫禄を出すことは「禄」を出すことで、「禄を出す」ことは貪らずに与える事なのです。つまり世の中「与えたものは返ってくる」という考え方なのです。

最後の「寿」とは、健康のことを指し、所謂、心・気・体のことで、命長く、心と体が元気であることが「寿」なのです。
元々福禄寿は古代中国の道教からの教えで、この教えは古代中国においては皇帝になる権利を持つ子に授けられた帝王学で、この帝王学で最初に学ぶのが、この「寿」なのだそうです。
つまり、命を与えられたものが次にするこては健康で、命があり心・気・体の健康があってこそ、先の「福」や「禄」が手に入れられるということだからです。「命あっての物種」とはまさしく命あっての「福」「禄」なのです。したがって大切な命には健康が必要であるという教えになるのです。

これらをまとめるとこうゆう事になるそうです。
先ず健康でいて、善い人間関係を築くこと。そうすれば自然に金や必要なものは手に入ると言うことのようです。 福禄寿とは、幸せになりたければ先ずは与える事からはじめなさい、という教えなのです。
勿論、スピチュアル的な内容なのですが、実に理にかなった考え方に思えます。単に何かを信じる、とか縋る、といったことではなく、そこに込められた教えがあくまでも帝王学という現実の理論をバックボーンに持っていることが、一層の現実感を与えられているようです。
なかなか深いい・・・、話です。

ここで谷中七福神の台紙と東覚寺の朱印をいただき、最初の福禄寿を終えました。
東覚寺 七福神 庫裏の玄関にはこのような七福神の置物があり、華やいだ雰囲気が伝わってきました。

赤紙仁王尊お守り その間、家内は赤紙仁王尊のお守りと、護摩をいただいていました。

あまりお守りとかは持たない性格の家内にしては珍しいなと思っていたら、通常お守りなどは1年以上経過したものは返納するのが一般的ですが、この赤紙仁王尊のお守りは一生持っていて良いお守りなのだそうです。なるほど打算的一家の為せる業とでも言っておきましょうか。
ご利益があると良いのですが・・・。

与楽寺

 

東覚寺を出てから田端駅方面とは直角に西日暮里方面に向います。田端駅前から走る都道458号線を横切る格好となります。
与楽寺坂案内板 暫く進むとT字路に突き当たります。
突き当たった左右の坂道が「与楽寺坂」というそうです。

与楽寺坂
坂の名は、坂下にある与楽寺に由来しています。『東京府村誌』に「与楽寺の北西にあり、南に下る、長さ25間広さ1間3尺」と記されています。この坂の近くに、画家の岩田専太郎、漆芸家の堆朱楊成、鋳金家の香取秀真、文学者の芥川龍之介などが住んでいました。
芥川龍之介は書簡のなかに「田端はどこへ行っても黄白い木の葉ばかりだ。夜とほると秋の匂がする」と書いています。
平成5年3月 東京都北区教育委員会
(現地案内板説明文より)

田端文士村記念館があるくらいですから、芸術家などが多かったのは承知のとおりで、やはり一度文士巡りをしたいものです。

与楽寺坂 先ほどの江戸名所図会にも与楽寺坂は描かれていますが、それ程急な坂でも無いようです、現在でもあまり坂とは思えないほどの坂道です。

与楽寺 山門 その「与楽寺坂」を下っていくとすぐ左手に「与楽寺」があります。

江戸名所図会与楽寺 江戸名所図会では、右下辺りにありますが、その前が「与楽寺坂」だったのでしょう。

境内の前に案内板が置かれています。

賊除地蔵尊の伝承地 与楽寺(田端1-25-1)
与楽寺は真言宗の寺院で、江戸時代には20石の朱印地を領有していました。この境内には、四面に仏を浮彫にした南北朝時代の石の仏塔があります。また、阿弥陀堂には行基作と伝わる阿弥陀如来が安置されています。当時、これは女人成仏の本尊として広く信仰を集めていたことから、ここは江戸の六阿弥陀詣の第4番札所として、多くの参詣者を得ていました。
さて、本尊は弘法大師作と伝わる地蔵菩薩で、これは秘仏とされています。この地蔵菩薩は、次のように伝承されています。
ある夜、盗賊が与楽寺に押し入ろうとしました。すると、どこからともなく多数の僧侶が出て来て盗賊の侵入を防ぎ、遂にこれを追い返しました。翌朝見ると、本尊の地蔵菩薩の足に泥がついています。きっと地蔵菩薩が僧侶となって盗賊を追い出したのだと信じられるようになり、これより賊除地蔵と称されるようになりました。
仏教では、釈迦が入滅してから56億7000万年後に弥勒が現れるまでの間は、人々を救済する仏が存在しない時代とされています。
この時代に、地蔵菩薩は、自らの悟りを求め、同時に地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天という六道の迷界に苦しむ人々を救うと信じられてきました。
そして江戸時代になると、人々の全ての願望をかなえる仏として信仰されるようになり、泥足地蔵・子育地蔵・田植地蔵・延命地蔵・棘抜地蔵というように各種の地蔵伝説が生み出されました。与楽寺の賊除地蔵も、これらの地蔵伝説の一つとして人々の救済願望に支えられて生み出されたものといえます。
平成元年3月 東京都北区教育委員会
(現地案内板説明文より)

日本全国数多ある地蔵は、このような地蔵伝説からはじまった手軽な信仰と言うことから、全国津々浦々にあるのですね。

与楽寺 「六阿弥陀第四番與楽寺」 石碑 この案内板の右手には「六阿弥陀第四番與楽寺」と刻まれた石碑があります。

この「江戸六阿弥陀」には幾つかの説があるようですが、比較的一般的なのは現在の足立区の長者の一人娘が、現在の北区に住む豊島左衛門清光という領主に半ば強制的に嫁にされ、辛い日々のなかついに娘は身投げをしてしまいました。
これを嘆いた長者は夢のお告げで、行基が来訪した際に一部始終を話し、行基は一夜のうちに1本の木から6体の阿弥陀仏を刻み上げ、長者は6ヶ所に寺を建立し、6体の阿弥陀仏を1体ずつ安置したことが由来だそうです。

第1番 西福寺:西方浄土に生まれ出る福徳利益を授ける寺院(北区豊島2-14-1)
第2番 恵明寺(旧延命院):家内安全・息災延命の御利益を授ける寺院(足立区江北2-4-3)
第3番 無量寺:福寿無量に諸願を成就させる寺院(北区西ケ原1-34-8)
第4番 与楽寺:我ら一切の者に安楽を与える寺院(北区田端1-25-1)
第5番 常楽院:常に一家和楽の福徳を授ける寺院(調布市西つつじヶ丘4-9-1)
第6番 常光寺:未来は常に光明を放つ身を得させる寺院(江東区亀戸4-48-3)

足立区と北区は理解できますが、何故調布市と江東区にあるのでしょうか。
因みに行基が刻んだ六阿弥陀の余った木で作られた阿弥陀像を祀っているのが、足立区の性翁寺で、手付かずの残った木で作られた阿弥陀像を祀ったのが北区の昌林寺だといわれている寺院があるそうなのですが、きっと六阿弥陀像を長者に渡し、長者が帰ってから刻んだ2体だったのでしょう。
最初から8体あれば、八阿弥陀になってしまいますから。
それにしても性翁寺、昌林寺なら六阿弥陀が全て北区と足立区となるのですが・・・、これ以上の詮索はよしましょう。

江戸名所図会「六阿弥陀廻」 更に江戸名所図会でもこの六阿弥陀は「六阿弥陀廻」として残されていますが、キャプションがなかなか興味深いです。

「どんなに良い姑のつもりでも、嫁にとっては煙ったい存在なのは古今東西同じ事で、春と秋、若夫婦を2人きりにしてあげるのも家庭円満の秘訣の一つ。余裕もあり気の利いた老夫婦は、六阿弥陀めぐりを1日ですまさないで、1泊2日の行程で行くものだ」と江戸時代ならではの粋、とでも云うのでしょうが、現在では嫁がさっさと外出してしまうのでしょうね。
それはそれで愉快な話です。

与楽寺 霊堂と鐘楼 境内を進むと左側に先ずあるのが霊堂と鐘楼です。

与楽寺 本堂 正面にある綺麗な本堂で参拝を済ませます。
本堂の横にはまさに石仏が鎮座していますが、かなり新しいものではないかと思われます。

与楽寺 阿弥陀堂 与楽寺 阿弥陀堂掲額 本堂の左手にあるのが、その行基作の阿弥陀如来像が安置されている阿弥陀堂です。
しっとりとした佇まいの風情です。

境内に南北朝時代の石の仏塔があるとの事でしたが、ついに見つかりませんでした。何処にあったのでしょうかね。
七福神ではありませんが、江戸の香りがプンプン残っている寺院でした。

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