荒川区散策 #1

「与楽寺」から南下すると北区から荒川区にはいります。
南下していたつもりがいつの間にか東方向に進み、JR線沿いの田端台公園に出たことから方向転換し、今度はくねくねした住宅街を通り抜けると赤い幟のたくさん立っている神社に到着です。

道灌山遺跡

向陵稲荷坂 向陵稲荷坂 その坂には「向陵稲荷坂」の看板があり、その坂に沿った小さな境内が「向陵稲荷神社」です。

向陵稲荷神社縁起
当社は向陵稲荷大明神(宇迦之御魂神)を主神とし祭祀を行い、祭神の神徳をひろめ本神社を信奉する人々を教化育成し、家内安全・商売繁盛及び学業成就の神であります。
当社は江戸時代初期より佐竹右京太夫の屋敷内に祀られておりましたが、大正の初期渡辺町(現西日暮里4丁目の一部)の開設されたときにひぐらし公園(現開成学園中学校の校庭)に祀られ、町の鎮守と崇められていました。
後当初に移転しましたが、昭和20年の大戦災で全町焼土と化しましたが当社は不思議にも戦火をまぬかれ神威赫々として現存し、昭和46年社殿を改築社務所を新設し、宗教法人向陵稲荷神社となりました。
(現地案内板説明文より)

向陵稲荷神社 この地にあった佐竹右京太夫の屋敷が本邸から鬼門の位置にあったことから屋敷内に祀られたのが創建のようです。

開成中学校 その隣にある学校が開成中学校で、有名なペンは剣よりも強しの校章が校門に付けられています。

古の40数年前、今で云うところのお受験と云うやつで小学生で受験しましたが、結果は言わずもがなでしょう。
当時はまだ西日暮里駅が開業していなかった頃なので、田端駅から随分遠いという印象が残っているだけですが、ちょっと懐かしい思い出です。

開成中学校 校門前 西日暮里駅前から続く道灌山通りにたどり着き、先ほどの開成学園(中学・高校)の正門の前に2つ案内板が立てられています。

道灌山遺跡
昭和29年、弥生時代の住居跡が発掘された開成グラウンドほか、西日暮里4丁目の台地上は、縄文時代から江戸時代までの遺跡が残されている地域である。
荒川区教育委員会
(現地案内板説明文より)

この道灌山遺跡は、縄文時代から江戸時代にかけての複合遺跡で、昭和29(1954)年を皮切りに、過去6回に渡り発掘調査が行われたそうです。
縄文時代の竪穴式住居跡、弥生時代中期の竪穴式住居跡・溝、平安時代の住居跡、江戸時代の溝などが発掘され、これらの発掘された縄文土器、弥生土器などの遺物は荒川区立図書館と開成学園に保存されているそうです。
高台と言うこともあり昔から住み易かったのでしょう。

佐竹屋敷と渡辺町
この付近一帯は、秋田藩主佐竹右京太夫の広大な抱屋敷であった。約2万坪(約66000平方メートル)に及ぶ敷地内には、「衆楽園」と名づけられた山荘があり、当時、城北屈指の名園として知られていた。
明治以降も佐竹侯爵家が所有していたが、笹や竹が生い茂り、「佐竹っ原」とよばれるようになっていた。大正5年に渡辺銀行頭取渡辺冶右衛門が入手して、近代的田園都市を目指した団地を造成し、渡辺町とよばれるようになった。
昭和7年の区制施行時に、日暮里渡辺町になり、同9年には日暮里9丁目に統合された。
荒川区教育委員会
(現地案内板説明文より)

この近代的田園都市とは、600坪のひぐらし公園を開設し、上下水道・ガス・電話を完備した理想都市だったようです。
日本で始めてガスが使用されたのが1872(明治5)年の横浜のガス灯が最初で、事業用ではなく個人用に使用された最初は明治35年の日本初のガス炊飯器の登場で、これをすぐ利用したのが大隈重信と言われています。
一方の電話も日本でサービスが開始されたのが1890(明治23)年の東京・横浜地区だけで、日本電信電話公社が設立されるのが1952(昭和27)年と言うことですので、大正時代にガスや電話のある生活は非常にハイソサエティだったと推測されます。大正13年には関東大震災による校舎焼失をきっかけとして、神田淡路町より開成学園が移転してきており、文化都市としての様相も呈し始めたのでした。
その後、正式名、東京渡辺銀行は昭和2年の昭和金融恐慌のなか、当時の大蔵大臣の「東京渡辺銀行が破綻」(実際には破綻していなかった)との失言により取り付け騒ぎに巻き込まれ、これを口実に休業、そして破綻しのでした。
これにより渡辺町は渡辺氏の手から離れたという歴史があるそうです。その後、戦災と共にその近代的田園都市は一変してしなったようです。

ひぐらし坂 案内板 ひぐらし坂 そして現在その面影を残しているのが、開成学園前の「ひぐらし坂」なのかも知れません。

遺跡と言い、渡辺町と言い、住宅地としては実に住み易い場所だったことが窺われます。

道灌山

その「ひぐらし坂」を上って歩道橋で道灌山通りを横断します。

道灌山と西日暮里駅 歩道橋から見ると正面に西日暮里駅があり、その下を道灌山通りが走っており、その両側は崖になっています。

恐らくこの崖は嘗ては道灌山として繋がっていたものを開削して道路を作り、駅を開業したと言う歴史だと勝手に推測してしまいます。

道灌山遺跡方面 こちらは歩道橋から見た道灌山遺跡方面で、中央が開成学園でその前の坂道が「ひぐらし坂」ですね。

西日暮里公園 西日暮里公園 歩道橋を渡りきって階段で上にあがるとそこは「西日暮里公園」です。
公園と言うよりは静かな散策路といった風情です。

ここには幾つかの案内板が設置されています。
まずは公園入口付近の案内板です。

道灌山
西日暮里4丁目の台地は道灌山とよばれ、江戸時代には眺めがよく、筑波や日光の連山、そして下総国府台(現市川市)などをのぞむことができた。
当時は薬草が豊富で、一年中採取者が訪れていたという。また、虫聴きの名所として知られ、涼を求めて人々が集まったところでもある。
安藤広重の錦絵や正岡子規の歌などによっても当時がしのばれる。
荒川区教育委員会
(現地案内板説明文より)

やはり先ほどの遺跡方面とは繋がっていて道灌山だったのでしょう。眺めがよく虫の音も聞こえる名所とあっては、まさに風光明媚な場所であると言っても良いのでしょう。

西日暮里公園 案内板 公園の奥には更に詳しい説明があります。

道灌山は、上野から飛鳥山へと続く台地上に位置します。安政3年(1856)の「根岸谷中日暮里豊島辺図」では、現在の西日暮里四丁目付近にその名が記されています。この公園を含む台地上にひろがる寺町あたりは、ひぐらしの里と呼ばれていました。
道灌山の地名の由来として、中世、新堀(日暮里)の土豪、関道閑が屋敷を構えたとか、江戸城を築いた太田道灌が出城を造ったなどの伝承があります。ひぐらしの里は、江戸時代、人々が日の暮れるのも忘れて四季おりおりの景色を楽しんだところから、「新堀」に「日暮里」の文字をあてたといわれています。
道灌山・ひぐらしの里は、荒川区内で最も古い歴史をもつ所です。このあたりから出土した土器や、貝塚・住居址などは、縄文時代から数千年にわたって人々の営みが続けられたことを物語っています。
道灌山・ひぐらしの里は、江戸時代の中頃になると、人々の憩いの場として親しまれるようになりました。
道灌山の大半は、秋田藩主佐竹氏の抱屋敷になりますが、東の崖ぎわは人々の行楽地で、筑波・日光の山々などを展望できたといいます。また薬草が豊富で、多くの採集者が訪れました。ひぐらしの里では、寺社が競って庭園を造り、さながら台地全体が一大庭園のようでした。

桃さくら鯛より酒のさかなには みどころ多き日ぐらしの里 十返舎一九

雪見寺(浄光寺)・月見寺(本行寺)・花見寺(妙隆寺〈現在は廃寺〉・修性院・青雲寺)、諏訪台の花見、道灌山の虫聴きなど、長谷川雪旦や安藤広重ら著名な絵師の画題となり、今日にその作品が伝えられています。
明治時代、正岡子規も道灌山・ひぐらしの里あたりをめぐり、「道灌山」という紀行文を著しました。

山も無き武蔵野の原をながめけり 車立てたる道灌山の上 子規

昭和48年、ここ西日暮里公園が開園し、区民の憩いの場となっています。
(現地案内板説明文より)

安藤広重の「道灌山」 その安藤広重の「道灌山」の絵が掲出されています。

中央付近が水色なので河川を感じさせますが、実は下界といった風情で、のんびり花見を楽しんでいるのでしょうか。十返舎一九の句にあるように、花より団子ならぬ団子より花なんですね。江戸時代の粋な「あすび」です。

ここでは「道灌山」と題された紀行本の中の子規の句が掲載されているので、少し話がそれますが「道灌山事件」なるものを聞きつけたので紐解いて見ます。
事件と言うほどの大げさなものではないようですが、子規が虚子に自分の俳句の後継者になるように頼み、虚子がそれを拒否したと言う出来事です。
ちょうどスペシャル大河でも子規は亡くなっていますが、そもそも須磨保養院で自分の短命を知った子規は虚子に後事を託したいと考えていたようです。そして帰郷後、子規は虚子を道灌山の「婆の茶店」に誘い、正式に後継者になるよう頼んだのでしたが、虚子はこれを拒否したことから、虚子を破門したという事件です。
この事件にも様々な憶測があり、俳句の学術的相違からであるとか、野心家子規への憤りであるとか、はたまた後継者=跡継ぎとして正岡家の婿と頼んだため、等などあるようですが、いずれにせよこの事件は子規の死後、子規書簡が公表されてから一般に知られることとなったそうです。

閑話休題
更に粋な道灌山での「あすび」が虫聴きのようです。

江戸時代から明治時代にかけて、道灌山は虫聴きの名所でした。
「江戸名所花暦」(文政10年(1827)刊行、文は岡山鳥で、絵は長谷川雪旦)には、次のように書かれています。


「道灌山 日暮より王子への道筋、飛鳥山の続なり。
むかし太田道灌出城の跡なりといふ。くさくさの虫ありて、人まつ虫のなきいつれはふりいてゝなく鈴虫に、馬追ひ虫、轡虫のかしましきあり。おのおのその音いろを聞んとて、袂すゝしき秋風の夕暮より、人人ここにあつまれり。また麻布広尾の原、牛嶋もよし。」

虫聴きの名所は、道灌山が最も有名で、とくに松虫が多く、澄んだ音色が聞けたといいます。このほか、真崎(南千住白鬚橋のたもと)、隅田川東岸(牛島神社あたり)、三河島辺(荒木田の原あたり)、王子・飛鳥山辺、麻布広尾の原が虫聴きの名所でした。
「東都歳時記」によれば、旧暦7月の末、夏の終わりから秋の初めにかけて、「虫聴」が盛んだったと記されています。
道灌山虫聴の絵は、雪旦、安藤広重、尾形月耕が描いた三種類があります。広重の絵は公園入口脇に模写したものがあります。
尾形月耕は、明治期に活躍した画家で、岡倉天心らとともに、美術界発展に尽くした人です。新聞の口絵・挿絵が有名でした。
この絵は、道灌山に月が昇る頃、中腹にむしろを敷き、虫かごに虫を入れて鳴かせ、たくさんの虫に音色を催促しています。坂を上がってくる女性が足音を忍ばせている姿ほほえましく感じます。
この絵は、明治末頃の作と思われますが、秋の夜長に涼を求めて、老若男女がここに集まり、自然の美しさ、素晴らしさを楽しんでいたのです。
(現地案内板説明文より)

江戸名所図会道潅山聴虫 東都名所図会道灌山虫聞之図 雪旦の絵は「江戸名所図会」に道潅山聴虫として書かれたものがこちらで、広重のはそれを「東都名所」で道灌山虫聞之図として模写したものです。

一般的な評価として写しが本家を越えた例と言われながらも、広重にここまで忠実に描かせたことは、雪旦の挿絵があらゆる点できわめて優れていることをも意味していると考察されているそうです。どちらも凄いもので、素人が口を挟む余地は全くありません。

大日本名所図会道潅山虫聴 そして尾形月耕の絵が「大日本名所図会」での道潅山虫聴です。

これはこれで何となくコンセプトは雪旦と同じ方向性といったイメージに思えますが・・・。こちらの方がより写実的ではあるようです。
面白い比較ではありますね。

西日暮里公園 まだまだこの道灌山には見所が沢山あったようです。

道灌船繋松
道灌船繋松のことは、「江戸名所図会」(天保7年刊(1836)、斉藤幸雄、幸孝、幸成(月岑)の三代三人が文章を書き、長谷川雪旦が絵を描く)にくわしく書かれています。
「青雲寺の境内、崖に臨みうっそうとしてそびえたり。往古は二株ありしが、一株は往んじ安永元年の秋大風に吹き折れて、今は一木のみ残れり。(中略)
或人云く、往昔このふもとは豊島川に続きし入江にて、道灌の砦城ありし頃は、米穀その外すべて運送の船より、この松を目当てにせしものにて、つなぐといふもあながち繋ぎとどむるの義にはあらず、これは舟人の詞にして、つなぐといふは目的にするなどいえるに同じ心とぞ。よってその後道灌山の船繋ぎの松と称して、はるかにこの所の松を目当にせしを誤りて、道灌船繋の松と唱ふるとぞ。」
長谷川雪旦は、『日暮里惣図』と題し、この地域を七枚の絵に描いています。道灌山から諏方神社、浄光寺、養福寺、本行寺まで、当時の様子がわかります。
道灌船繋ぎの松は、この絵の中で台地上に高くそびえています。安永元年(1772)の秋台風のため1本が折れ、残り1本になってしまったようです。
この松をなつかしんで、「日暮里繋舟松之碑」が道灌山に建てられましたが、現在は、青雲寺本堂脇に移されています。建碑の年月はわかっていません。
天明5年(1785)に鳥居清長の描いた墨版「画本物見岡」の日暮里青雲寺境内の絵に、この石碑を眺めている人たちの姿がみられることから、石碑は、安永元年から天明5年までの13年間に建てられたことがわかります。
道灌山の船繋松は、ここのシンボルであり、近在の人たちに親しまれ、大切にされていました。
(現地案内板説明文より)

と言うことで『日暮里惣図』7枚連作です。
江戸名所図会日暮里惣図全景

江戸名所図会日暮里惣図其の一 其の1の奥の上部に「本行寺」が描かれています。

江戸名所図会日暮里惣図其のニ 其の2は見開きで、右ページ上から「経王寺」「七面宮」「長相寺」「宗林寺」が描かれ、左ページ上から「百観音」「養福寺」「人丸社」「南泉寺」が描かれています。

江戸名所図会日暮里惣図其の三 其の3も見開きで、右ページ上に「浄光寺」、左ページに「妙隆寺」が描かれています。

江戸名所図会日暮里惣図其の四 其の4の右ページの上に「舟つなぎ松」が描かれていて、その下に「こんぴら」があり、そして中央から下に「青雲寺」「修性院」、そして左ページの上半分が「道灌山」です。

江戸名所図会日暮里惣図「舟つなぎ松」 「舟つなぎ松」のクローズアップです。この時代には1株しか残っていないのがわかります。

位置関係から云うとその4の左ページの「道灌山」が最北端で、その2の「宗林寺」が最南端と云ったところでしょうか。
現在でもそうですが、嘗てこのあたりは道灌山を初めとして神社・寺院のあるワンダーランドだったのでしょう。図会の中には茶やと書かれた場所がいくつもありますので。

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