荒川区散策 #2

「道灌山」を後にして、次に進むは先の「日暮里惣図」の地を巡ります。
西日暮里公園から一旦道灌山通りに戻って西に進み、西日暮里4丁目交差点を左折します。細い路地を2、3分も進むと左手に2番目の七福神のある「青雲寺」に到着します。

青雲寺 恵比寿 

青雲寺 谷中七福神の紫の幟のある交差点を左折した正面が「青雲寺」です。

滝沢馬琴の筆塚と花見寺(青雲寺)
青雲寺は臨済宗の寺院で浄居山と号する。宝暦年間(1751から64)、堀田相模守正亮の中興と伝える。
江戸時代の中頃より「日ぐらしの里」と呼ばれ、庶民に親しまれてきたこの地は、四季折々の花を楽しむ人々で賑わった。そのため青雲寺は修性院・妙隆寺(修性院と合併)などとともに、花見寺ともいわれていた。
現在、谷中七福神のひとつ「恵比寿」が祀られている。境内には、滝沢馬琴の筆塚の碑(文化6年)をはじめ、硯塚の碑(寛政10年)、日暮里船繋松の碑、狂歌師安井甘露庵の碑など、江戸を代表する文人の碑が多く残っている。
荒川区教育委員会
(現地案内板説明文より)

青雲寺山門 山門には左側に青雲寺の寺号標が、右に花見寺の石標が置かれています。

季節は冬ですが、何となく華やかなイメージです。

青雲寺 本堂 境内の正面にあるのが本堂で、二重の屋根が印象的です。

日暮里惣図にあった「こんぴら」は金毘羅社のことで、新編武蔵風土記稿によればかつてこの金毘羅社には観音堂・秋葉・熊野・稲荷・浅間・弁天・大黒・恵比寿・布袋堂等があったようですが、文化4年に焼失し、その後は再建されなかったようです。
江戸名所図会青雲寺 そして船繁松があった場所が、この境内の東北の崖なのです。

青雲寺 日暮里船繋松の碑 本堂の右手前にその「日暮里船繋松の碑」が立てられています。

青雲寺 安井金毘羅宮 その隣にある小さな三角形の石碑が安井金毘羅宮と刻まれた碑で、更にその隣の石碑には安井金毘羅大権現鎮座と刻まれており、狂歌師安井甘露庵を祀った金毘羅社があったことを示しているようです。

青雲寺 恵比寿神 青雲寺 恵比寿神 本堂に入って本尊前に「恵比寿」が鎮座しています。
屏風と松に彩られて正月らしい雰囲気です。

「恵比須」神に参拝し、本堂内で朱印をいただき参拝を終えました。

恵比寿神の由来
恵比須・恵比寿・夷人とも書く。
「古事記」では、イザナギ・イザナミの神がオノコロ島で最初に産んだ蛭子神であり、海に流されたと記されてあります。
神形は風折烏帽子をかぶり、狩衣・指貫を着て右手に釣竿、左手に大鯛を抱えて海岸の岩礁にどっしりと座っているお姿です。右手の釣竿は「釣りして網せず」すなわち暴利を貪らない清い心を象徴し、左手の鯛はめでたいことを人々に授けることを表しています。ご朱印をご覧いなればわかりますが、青雲寺の鯛は海面から飛び上がり躍動感(いきのよさ)があり、大量を意味して云います。
エビスとは夷=異郷を指し、漂着神。異民神という意味でも使われたとあります。故に鮫や鯨・海豚のような巨大な海の幸を海の向こう、異郷からの幸としてエビスと呼び、漁民の間では豊漁を祈願し広く信仰された神霊です。また、異郷との接点にエビス神を祭ったとあり、物と物との交換、物と貨幣の交換を司るという性格がら商売繁盛の神となったとも言われています。
恵比寿神は清廉という徳をそなえた日本古来の神様であり、七福神の一つとして祀られています。
私たちがもし身も心も本当に幸せになるためには早く「知足」の大切さを知ることだと考えます。
欲望には限りがありません。物に心に感謝して「ありがとう」と合掌されましたら七福神巡りが皆様にとりまして、より確かなものになるかと思います。
よき年になりますよう心よりお祈り申し上げます。
(現地掲示板説明文より)

ご朱印は若干かすれていますが、ハトヤのCMのように(古い!)、鯛がビクビクはねている感じが窺えます。ウサギ年にはねる鯛と、今年こそ不景気からの飛躍の年なのでしょうかね。

青雲寺 滝沢馬琴筆塚の碑 本堂前の左手前には、案内板にあった「滝沢馬琴の筆塚の碑」があります。

滝沢馬琴筆塚の碑(青雲寺)
戯作者滝沢馬琴(1767から1848)は精力的な著作活動のうちに多量の禿筆(使い古しの筆)を残した。
これを供養するため、文化7年(1810)に築いたのが筆塚である。文化6年銘のこの碑には、建立の由来、馬琴の生い立ちと業績が記されている。額字の「痣聿●名」は、国学・漢学・考証学者で著名な狩谷エキ斎筆。由来は儒学者亀田鵬斎が撰文し、自ら筆をとった。日暮里と文化人とのかかわりを知る上で貴重な碑である
(現地案内板説明文より)

滝沢馬琴といえば南総里見八犬伝で有名な作家で、当時は使い古した筆などを土中に埋めたことから筆塚が出来上がったようです。

最後に社務所で朱印をいただきました。ここで初めて知ったのですが、この谷中七福神には朱印のほかに、無料の記念スタンプというものもあったのでした。最初の東覚寺では気付かなかったので押印していませんが、せっかくなので青雲寺から無料スタンプも七福神めぐりの案内地図に押してみました。
不景気な世の中で、分相応のところで満足すること=知足でいることが、今の世の中には必要なのかもしれません。
徐々に七福神の由来が現在の暗い時代に合っているような気がしてきましたね。

修性院 布袋

 

「青雲寺」を出て路地を進むとまもなく3番目の七福神が祀られた「修性院」です。

修性院 「修性院」の塀には親しみ易くの配慮からなのでしょうか、布袋尊のイラストが掲出されています。
なかなかユーモラスな布袋尊です。

修性院山門 イラストを眺めながら進むと山門に到着です。

日ぐらしの布袋(修性院)
修性院の布袋は、谷中七福神の一つで、「日ぐらしの布袋」ともよばれる。谷中七福神めぐりは、江戸市中で最も古い歴史をもち、年初めにあたって江戸市民が行う年中行事の一つであった。
江戸時代の中期ごろから、このあたり一帯は俗に「ひぐらしの里」とよばれ、江戸近郊の行楽地として賑わった。ことに修性院・妙隆寺(修性院に合併)・青雲寺は、境内に多数の花樹を植えて、「花見寺」の名にふさわしい庭園をつくり、四季折々の草花を楽しむことができたという。
境内には、江戸時代の儒者・日尾荊山衣サク碑がある。
荒川区教育委員会
(現地案内板説明文より)

個人的に日暮里というイメージは、駄菓子屋・繊維問屋の町という下町のイメージが強く、日ぐらしの里という響きは実に粋でしっとりとした情緒を感じさせられます。更に青雲寺・修性寺と続く花見寺は現代で言えば、さしずめ日ぐらしの里フラワーセンターといったところでしょうか。
江戸名所図会 修性院 江戸名所図会でも、何となく静かでいながら華やいだ雰囲気が伝わる感じです。

修性院 本堂 境内はそれほど広くはなく奥に本堂があります。それほど大きくはない本堂ですが、綺麗な本堂です。

修性院 本堂内の絵 お参りは本堂内なので、本堂にあがってみると壁には近在の小学生あたりの描いた布袋尊の絵が展示されています。

このプランも塀のイラストと同じように子供たちに親しんで貰うという啓蒙活動の一環なのでしょう。

修性院 布袋尊 そしてその先に愛嬌がありながらも、意外に眼光の鋭い、所謂目が笑っていない比較的大きな布袋尊が鎮座しています。

布袋尊は七福神の中で9世紀から10世紀にかけて唯一実在したとされる伝説的な中国の僧です。916年に亡くなったと伝えられていますが、小柄で太鼓腹、予知能力があって彼の占いは必ず当たったことから、弥勒菩薩の化身として伝説の人になったのです。
これは、そもそも弥勒菩薩は釈迦入滅後56億7千万年後の未来に姿を現われて多くの人々を救済するとされる未来仏なので、未来仏=予言者といったところから弥勒菩薩と布袋尊が同一視されたと考えられているようです。
さてその布袋尊の本名は釈契此というのですが、常に袋を背負っていたことから布袋という俗称がつけられました。一般的に私たちが良く見ている図像のように太鼓腹の姿で、寺に住む訳でもなく処々を泊まりあるいていたといわれています。さしずめフーテンの寅さん!? そしてトレードマークの大きな袋を常に背負い生臭いものでも構わず施しを受け、その幾らかを袋に入れていたとされています。
日本では鎌倉時代あたりから禅画の題材として布袋尊が好まれたようで、室町時代、その福々しい姿から庶民には福の神の一種として信仰を集めたことから、室町時代後期に成立した七福神に組み入れられたそうです。
実在の人物のイメージが広がり、最後には福の神にまでなった布袋尊は、現代の七福神の一人として、肥満体の布袋は広い度量や円満な人格、また富貴繁栄をつかさどるものと考えられ、所持品である袋は「堪忍袋」とも見なされるようになったのです。

布袋尊を参拝し、やはり本堂の中で朱印と記念スタンプをいただいて本堂を後にしました。

修性院境内のLOTUS COFE 境内にはこの期間だけなのでしょうか、LOTUS cafeなるスタンドカフェが置かれていました。

ちょうど田端駅に着いてから殆ど休憩なしだったので、ちょうど喉も渇いたことからちょっとコーヒーブレイクしました。1杯200円のコーヒーは実に美味しくいただきました。
ちょっとうれしい休憩所です。

富士見坂

富士見坂 「修性院」を出て路地を更に進むと左側に「富士見坂」と書かれた坂道があります。

富士見坂
坂下の北側の墓地は日連宗妙隆寺(修性院に合併)の跡。妙隆寺が花見寺と呼ばれたことから、この坂も通称「花見坂」、または「妙隆寺坂」と称された。
都内各地に残る「富士見」を冠する地名のなかで、現在でも富士山を望むことができる坂である。
荒川区教育委員会
(現地案内板説明文より)

坂の左側に見える墓地がその妙隆寺跡です。
そしてこの「富士見坂」は人が3、4人横に並べば一杯になるほどの狭い坂道です。

東京都内は坂の多い町として最近は有名になりましたが、そのなかで富士見の冠がつく(旧名・通称・別名の場合も含む)都内の坂道は18ヶ所あります。
●港区:西麻布・富士見坂、南麻布・新富士見坂、南麻布・青木坂、●大田区:田園調布・富士見坂、鵜の木・富士見坂、●目黒区 :上目黒・目切坂、●荒川区:日暮里・富士見坂、●文京区:大塚・富士見坂、白山・御殿坂、本郷・富士見坂、小日向・藤坂、湯島・横見坂、●豊島区:高田・富士見坂、●千代田区:永田町・富士見坂、駿河台・富士見坂、九段・富士見坂、●渋谷区:渋谷・宮益坂、恵比寿・富士見坂
現在東京都心部から見て富士山は約100Kmの距離があり、ビルの建て並ぶ街中で高層ビルならいざ知れず、地上から富士山を見通せる場所は坂の上であってもほぼ奇跡的な空間といわざるを得ません。
そのなかで先の18ヶ所のうち、この日暮里の富士見坂以外に富士山が見えるのは、文京区大塚三丁目護国寺脇の富士見坂と目黒区大岡山地区の目切坂の計3ヶ所だけだそうです。

富士見坂 富士見坂 その今や都内では貴重な「富士見坂」を坂の上まで登りましたが、見えたと思った富士は街灯の富士山で、それ以外に見えるのは一面の空と都会の建物だけで、残念ながら本物の富士山は見ることができませんでした。
よく見えるときにはダイヤモンド富士が見えるそうなので、地元の方は嬉しいでしょうね。

ちなみにこの「富士見坂」の光景等をまとめたサイトを見つけましたので参考に掲載しておきます。
このサイトで様々な富士山を見ることができます。

参考:【富士見坂通信】http://fujimizaka.yanesen.org/index.html

私の自宅からは晴れていれば、毎日富士山を見ることができます。
それだけ田舎ということでしょうが、一富士、二鷹、三茄子の例えのごとく、日本人にとって景観や信仰など、様々な面で富士山は切っても切れない日本人の心なのかもしれません。

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