荒川区散策 #3

「富士見坂」を上がって本来は右手に進むのですが、左手に神社の鳥居と神社の山門が見ました。
この道を更に先に進むと、最初の西日暮里公園に行き着くのですが、時間の関係もあるのでこの先へは進まず、ちょっと見えた神社と寺院だけ立ち寄ってみることにしました。

諏方神社

諏方神社の鳥居と浄光寺の山門 鳥居と山門が90度の角度で綺麗に並んでいます。

江戸名所図会諏方神社 江戸名所図会での「諏方神社」はこちらになります。

諏方神社 一の鳥居 まずは神社に参ります。

諏方神社
信濃国(長野県)上諏訪社と同じ建御名方命を祀る。
当社の演技によると、元久2年(1205)、豊島左衛門尉経泰の造営と伝える。江戸時代、三代将軍徳川家光に社領5石を安堵され、日暮里・谷中の総鎮守として広く信仰をあつめた。
旧暦7月27日の祭礼では、囃屋台・山車を引きまわし神輿渡御が行なわれた。神田芋洗橋までかつぎ、そこから船で浅草・隅田川を経て、荒木田の郷で御神酒を供えて帰座したと伝えている。
拝殿の脇には元禄12年(1699)銘・元禄14年(1701)銘の灯籠型の庚申塔が並んで建てられている。
荒川区教育委員会
(現地案内板説明文より)

当時の祭礼は規模も大きかったようで、神田芋洗橋は現在の御茶ノ水聖橋周辺から中央線沿いに昌平橋へ下る芋洗坂あたりから浅草を経由し、荒木田、現在の町屋8丁目辺りで御神酒を供えて戻ってきたのですから、そうとう広範囲に氏子が存在していたということでしょう。
そして当時、神主は日暮(現在はどうなのでしょうか)という姓だそうで、このような小さな神社でありながらも、神主は後に明治神宮、日枝神社、東京大神宮、神田明神の神主と同じ高い格についていたそうですから、かなり格式の高い神社だったことが窺えます。

諏方神社 神楽殿 鳥居をくぐって参道を進むと、境内の左側に神楽殿があります。

源為朝の山車
この人形は山車にしつらえ御輿と共に巡行したもので、平安時代末期武勇にたけた「源為朝」鎮西八郎為朝公を擬してある。製作年は安政(1854から1860)とあるが作者は現在不詳。
当時の日暮里諏方様の山車は、江戸の中でも有名であり旦格式の高いものであった。特に日清戦勝の祝賀会が皇居前広場で行なわれたとき、東京中の山車が勢揃いした。その勢揃いの順位が三番目、道中蔦頭連中が木遣りと芸者の手古舞を、二頭の牛車が引いて参列し絢を競ったといわれる。
明治の終わり頃迄は本祭りのたびに牛と子供連中に曳かせたが、その後土地の発展に従い電線等により不可能となり、氏子有志が組織した「祖崇会」が維持管理し人形だけ飾った。戦後からそれが自然と消滅して、人形は倉庫の中に保管したがその痛みが激しくこのままでは朽ち惜しいということで、金子正男・工藤三郎両氏相計らい昔日の姿に復元したものである。
平成元年10月27日 平塚春造記
(現地案内板説明文より)

古い写真などで見る限り、戦勝祝賀会では凱旋門などが作られ、提灯行列など賑やかなお祭り状態のなかで、東京中の山車が勢揃いした姿は壮観、華麗なことでしたでしょう。
そしてその後、明治になってインフラ整備により都内から山車がなくなり、代わりに神輿が主流となっていったのです。その山車の多くは首都圏各地に売られ、埼玉県などでは現在のお祭りでも、山車が曳かれる祭りを多く見ることができます。
この神社の場合は人形だけが残っていることから、山車が売られることはなかったようですね。山車は人形が命ですから。
さてその肝心の人形は、と眺めても何処にも見当たらないと言うことは保管されているのでしょうか。

仕方なくサイトを検索したら、この人形を写したサイトがありました。
諏方神社 源為朝の山車人形 源為朝人形はこれです。
《写真:(C)「谷根千ウロウロ」サイト》

このサイトによると、虫干しを兼ねて毎月1日に見ることができるそうです。

ここから社殿に向かいます。
諏方神社 社殿 少し土盛で高くなった社殿に参拝です。

諏方神社 拝殿 いつ頃建立されたものなのかは分りませんが、やはり歴史の重みを感じさせるような拝殿です。

境内社 三峰神社 境内社 三宝荒神社 参拝を済ませて境内を眺めれば「三峰神社」「三宝荒神社」などの境内社が多くあるようですが、ここは時間の都合もあり、次に進むことにしました。

その為、灯籠型の庚申塔を見てくるのをすっかり忘れました。
できれば祭礼の時期にもう一度訪れたいものです。

浄光寺

「諏方神社」を出て次に向かうのは当然ながら隣の「浄光寺」です。

浄光寺山門 山門の脇に石碑と案内板が置かれています。

江戸六地蔵と雪見寺(浄光寺)
山門をくぐって左手に、高さ一丈(約3メートル)の銅造地蔵菩薩がある。元禄4年(1691)、空無上人の勧化により江戸東部六ヶ所に六地蔵として開眼された。もと門のかたわらの地蔵堂に安置されていたもので門前は「地蔵前」ともよばれる。
浄光寺は、真言宗豊山派の寺院。法輪山法幢院と称し、江戸時代までは諏方神社の別当寺であった。元文2年(1737)、八代将軍吉宗が鷹狩の際にお成りになり、同5年以降徳川将軍御膳所となった。境内に「将軍腰かけの石」がある。
眺望にすぐれた諏訪台上にあり、特に雪景色がすばらしいというので「雪見寺」ともよばれた。
荒川区教育委員会
(現地案内板説明文より)

浄光寺 江戸六地蔵石碑 傍らにある石碑には「六地蔵三番目」と刻まれています。
田端の与楽寺では六阿弥陀でしたが、こちらは六地蔵なのですね。

ということで、まずはこの江戸六地蔵について調べてみました。

現在の江戸六地蔵は以下の通りです。

第1番 海照山 品川寺(品川区)
第2番 洞雲山 東禅寺(台東区)
第3番 医王山 真性寺(豊島区)
第4番 霞関山 太宗寺(新宿区)
第5番 道本山 霊巌寺(江東区)
第6番 大栄山 永代寺(江東区・地蔵尊像現存せず) 新6番 東叡山 浄名院(台東区)
ということで浄光寺は・・・、入っていませんね。一体どうゆうことなのでしょうか、もう少し詳しく調べてみることにします。

実はこの江戸六地蔵は2種類存在していたそうなのです。
江戸時代に刊行された『江戸砂子』の記載によると、元禄4年(1691年)に、慈済菴空無上人が開眼供養したものと、宝永5年(1708年)に、地蔵坊正元が江戸庶民から寄進を募って造立したものと、二つ存在したと書かれていて、元禄年中の方を「始めの六地蔵」、宝永年中のを「後の六地蔵」として紹介しているそうです。
現在、一般的に江戸六地蔵と呼ばれているのは、宝永年中の「後の六地蔵」の方で、江戸に出入りする六つの街道の入口にそれぞれ一体ずつ安置されたものです。これが先に挙げた江戸六地蔵なのです。
そしてもう一つの元禄年中の「始めの六地蔵」を便宜上東都六地蔵と区別しているそうで、こちらの六地蔵は以下の寺院だそうです。

第1番 瑞泰寺(文京区)
第2番 専念寺(文京区)
第3番 浄光寺(荒川区)
第4番 心行寺(府中市:元台東区)
第5番 福聚院(台東区・地蔵尊像現存せず)
第6番 正智院(台東区・地蔵尊像現存せず)
そこで不思議なのが、何故後から建立された江戸六地蔵の方が一般的になってしまったのかと言う謎が残ります。
これはどうやら後の六地蔵の方が建立された時点の地蔵尊が5体現存していおり、都の文化財に指定されているためのようです。
残念ながら東都六地蔵で建立時の地蔵尊が残存しているのは浄光寺お専念寺だけのため、話題性、希少性、貴重性から「後の六地蔵」が一般的になったのでしょう。

とにかく境内に入ってみます。
浄光寺 銅造地蔵菩薩立像・坐像 山門をくぐった直ぐ左側に地蔵尊がありますが、立像と坐像の二体ありますね。

どうやら東都六地蔵と呼ばれたのは立像のようです。

荒川区指定文化財 銅造地蔵菩薩立像
この地蔵菩薩立像は、元禄4年(1691)に造られた江戸六地蔵の一つである。銅像・泥塑像の名手として知られる心行寺三世の空無上人が、夢のお告げで六地蔵の造立を発願したという。銅製の鋳造仏であるが、頭光と錫杖の部分は鉄製である。空無作の六地蔵のうち現存するのは浄光寺と千駄木の専念寺の二体だけで、江戸時代の彫刻史や地蔵信仰を知る上で貴重なものである。当初、門前に置かれていたが、昭和初期ここに移された。
(現地案内板説明文より)

もともと門前に置かれていたものが移動された際、台座の下から釈迦や弥勒などの小像が出土し、そのなかに「空無」の刻銘がみられたそうです。更に先に見た門前の六地蔵三番目と刻まれた石碑の右側には宝永ニ乙酉年六月十五日の銘文があり、この地蔵菩薩の衣の裾には、文化3から6年(1806から1809)にかけての5人の法名が追刻されていることからも、この地蔵菩薩が江戸時代から多くの人の信仰を集めていたことが伺えるのです。
因みに現在の東都六地蔵では、4番の心行寺は府中市移転に伴い、当時の一部を元に復元され、1番の瑞泰寺も昭和61(1986)年に再建され、現在4体は揃っているそうです。追いつけ追い越せ江戸六地蔵といったところでしょうか・・・。

坐像についても説明があります。

荒川区指定有形文化財・彫刻 銅像地蔵菩薩坐像
銅像地蔵菩薩坐像は、江戸の鋳物師として有名な西村和泉守の作で、像本体は文化6年(1809)に建立された。
願主は神田の町人足利屋勘七の母「浄仙」で、台座には願主を含め277名の戒名や俗名が刻まれている。台座には文化10年の銘があり、鋳造年代が像本体と異なることがわかる。浄光寺は地蔵信仰の寺院として知られ、本像の隣に、元禄4年(1691)造立の江戸六地蔵の一つ、銅像地蔵菩薩立像(区指定有形文化財・彫刻)も安置されている。
(現地案内板説明文より)

鋳物師の西村和泉守とは、延宝年間(1673から1681)頃から大正時代に至るまで11代にわたり鋳物師をつとめた家で、代々神田鍛冶町に住み、和泉守・政時を名乗っており、特に9代将軍家重の霊廟の灯籠を製作した4代目の和泉守政時が特に知られているようです。
この4代目は宝暦8年(1758)に4代目を継承し、安永4年(1775)に没していることから、この坐像は5代目、或いは6代目あたりが製作したものではないかと推測します。

すっかり地蔵菩薩に目がいってしまい、参拝もしていないのを忘れていました。
浄光寺 社殿 本堂は比較的新しい時に再建されたものでしょうか、実に近代的・機能的な本堂です。

浄光寺 六地蔵 参詣を済ませて境内に戻ると、山門の右手には六道のそれぞれを6種の地蔵が救うとする「六地蔵」も建立されていました。

江戸名所図会浄光寺 江戸名所図会では、山門の前に六地蔵と記載があり、右後ろにに御腰掛所とかかれているところが「将軍腰かけの石」だったのでしょう。

浄光寺 先ほどの銅造地蔵菩薩立像の前にはこのような物も置かれていましたが、最後まで「将軍腰かけの石」は分りませんでした。

更にここからは「日暮里惣図」の寺院を巡ります。

養福寺

「浄光寺」から西日暮里公園方向とは反対に路地を南下します。ちょうど「日暮里惣図」を辿る道筋となります。
日暮小学校跡 途中の変哲も無いゴミ集積所に案内板が立っています。

日暮小学校跡
明治13年(1880)5月、谷中天王寺門前の瑞輪寺境内にあった寺子屋が、日暮里6番地(現諏訪台ひろば館あたり)に分離移転したという。
その後、公立小学校設置の必要性に迫られていた日暮里村・谷中本村・谷中村の三村が、東京府知事に設置を嘆願。明治18年に認可され、公立日暮小学校が誕生した。開校当時、児童数36名、教員2名・1学級で、校舎は茅葺15坪(約50平方メートル)1棟の規模であったという。
大正2年、校名を第一日暮里尋常高等学校と改称。昭和11年11月、日暮里9丁目1080番地、旧星雲寺内(現在の区立第一日暮里小学校)に新築移転した。
荒川区教育委員会
(現地案内板説明文より)

日暮里界隈では第1・・・第3日暮里、第6日暮里、そしてひぐらしの5つの小学校があるようですが、第4、第5は無いようなので、統廃合、改称されたのでしょうか。
凡そ戦前に創立された学校は番号がつけられているのが多いようです。私の母校も嘗ては第6小学校でしたから。

養福寺山門 先に進んだ左側に「養福寺」の山門です。

養福寺と文人たち
養福寺は真言宗豊山派の寺院で、補陀落山観音院と号し、湯島円満寺の木食義高(享保3年没)によって中興されたという。
江戸時代、多くの文人たちが江戸の名所である「日暮里」を訪れ、その足跡を残した。なかでも養福寺は「梅翁花樽碑」「雪の碑」「月の碑」などからなる「談林派歴代の句碑(区指定文化財)」や、江戸時代の四大詩人の一人、柏木如亭を偲んで建てられた「柏木如亭の碑」、畸人で知られた自堕落先生こと山崎北華が自ら建てた「自堕落先生の墓」などさまざまな文人の碑が残る寺として知られている。荒川区教育委員会
(現地案内板説明文より)

養福寺 仁王門 山門を抜けると境内の規模の割には大きすぎるくらいの「仁王門」がそびえています。

朱の仁王門は境内の趣とは違った、ちょっとした違和感を覚えます。

荒川区指定文化財 養福寺仁王門
宝永年間(1705から11)の建築と伝える。表側に安置されている仁王像の胎内から、宝永4年(1707)の銘札が発見されており、門柱の上部等の木鼻・蟇股などに施されて渦巻き状の模様の特徴から、銘札とほぼ同年代のものと推定される。裏がわには四天王のうち広目天・多聞天の像が安置されている。
旧本堂など江戸期の建造物は戦火で失ったが、この仁王門は戦火を逃れ、近世建造物をしる貴重なものとして残っています。
(現地案内板説明文より)

最初に感じた違和感は、この仁王門だけが当時の彩を残しているということから来ているのかもしれません。
当然ながら、仁王門の仁王像は阿吽の一対で仏法を守護する謂れの通りです。また、門の裏側には四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)のうちの二天(広目天・多聞天)の像が置かれているようで、こちらは歴史そのものを堪能することができます。

養福寺 本堂 仁王門は通り抜けできないようで、仁王門を迂回して本堂に向かい参拝を済ませます。

かつて「養福寺」の境内には当時本堂の他に、仁王門、鐘楼堂、観音堂、地蔵堂などがあったそうです。戦火により仁王門以外は焼失してしまったことは前述の通りですが、そのなかでも当時の観音堂には、坂東33ヶ所、西国33ヶ所、秩父34ヶ所の観音霊場の写しを祀った100体の観音像が祀られていて、「養福寺の100観音」として多くの参詣者が訪れていたようです。

江戸名所図会?養福寺? 江戸名所図会での「日暮里惣図」では、かなり広い境内を持ち、本堂の右横に百観音の記載があります。

そして本堂は昭和40年、客殿は昭和45年、鐘楼堂は昭和48年に再建されたものです。
境内には先の案内板にあった石碑などが多く残っているようですが、先を急ぐので今回はスルーです。

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