FC2ブログ


 

荒川区散策 #4

「養福寺」の先にも幾つかの寺院があるのですが(本当に寺院の多い町です)、時間の都合で立ち寄らずに路地を進むと大きな交差点に出ます。
左手が日暮里駅方面で、右手側が谷中商店街方面です。ここからもまた「日暮里惣図」にある寺院を引き続き訪ねます。

経王寺

交差点を日暮里駅方向にわずかに進むと左手に「経王寺」があります。
経王寺 門前には日蓮大聖人真作 大黒天と記載された看板があります。

大黒天 経王寺
経王寺は日蓮宗の寺院で山号を大黒山と称す。明暦元年(1655)、当地の豪農冠勝平(新堀村の名主冠権四郎家の祖)が要詮院日慶のために寺地を寄進し、堂宇を建立したことに始まるという。本堂の隣の大黒堂には日蓮上人の作と伝えられる大黒天が鎮守として祀られており、地域の人々の崇敬を広くあつめている。
慶応4年(1868)の上野戦争のとき敗走した彰義隊士をかくまったため、新政府軍の攻撃をうけることとなり、山門には今も銃弾の痕が残っている。荒川区教育委員会
(現地案内板説明文より)

日蓮上人が本当に作ったのだという大黒天とあっては非常に貴重な大黒天像でしょう。歴史がある寺院に、由緒ある大黒天がありながら谷中七福神にならなかったのは、余りにも畏れ多いということでしょうか・・・。

経王寺山門 それはさて置き、早速山門に近づいてみます。

上野戦争とは、江戸城無血開城に際し彰義隊と名乗り、上野山に立て籠もった旧幕府の不満分子と、新政府軍の所謂、戊辰戦争の一つの戦いで、まさに戦火の中を駆け抜けた歴史の生き証人のように、多少草臥れてはいながら、未だ矍鑠としてるといった面持です。
現在、荒川区の指定文化財となっています。

経王寺山門 彰義隊銃弾の跡 経王寺山門 彰義隊銃弾の跡 そしてこれらがその歴史の1ページである銃弾の痕です。
判る範囲で9発の弾痕が残っているようです。

経王寺 大黒堂 山門を抜けて参道を進むと右側にその「大黒堂」があります。かなりお参りしている方も多いようです。

経王寺 本堂 しかしながらまずは本堂を参拝です。
山高帽をかぶったような品のある本堂でした。

江戸名所図会経王寺 江戸名所図会の「日暮里惣図」では、かなり伽藍の堂宇は大きいようですが、現在は大分コンパクトになったようです。

見所の山門を再度見ながら「経王寺」をでて、日暮里駅方面に更に進むと「本行寺」があります。

本行寺

本行寺山門 「本行寺」山門には寺号のほかに月見寺の別称が掲げられています。

花見寺の青雲寺・修性院、雪見寺の浄光寺、そして次なるは月見寺とは、ひぐらしの里と共に実に風流です。

月見寺(本行寺)
本行寺は、大永6年(1526)、江戸城内平河口に建立され、江戸時代に神田・谷中を経て、宝永6年(1709)、現在地に移転した。景勝の地であったことから通称「月見寺」ともよばれていた。二十世の日桓上人(俳号一瓢)は多くの俳人たちと交遊があり、小林一茶はしばしば当寺を訪れ、「青い田の、露をさかなや、ひとり酒」などの句を詠んでいる。
儒学者市河寛斎・書家米庵父子や、幕末・維新期に活躍した永井尚志などの墓がある。戦国時代に太田道灌が斥候台を築いたと伝える道灌物見塚があったが、現在は寛延3年(1750)建碑の道灌丘碑のみ残る。
荒川区教育委員会
(現地案内板説明文より)

何故この寺が江戸城内という場所にあったのかと言うと、永正10年(1513年)に討死した太田道灌の嫡男・太田資康の子(太田道灌の孫)である太田資高が、資康の13回忌の菩提を弔うため建立したものなので、最初は江戸城内に建てられたようです。
まさに道灌縁の寺といっても過言では無いかもしれません。

本行寺 道灌丘碑 山門を抜けるとあまり広くない境内ですが、すぐ目の前に石碑があります。
これが「道灌丘碑」です。

荒川区指定文化財 道灌丘碑
太田道灌が長禄元年(1457)に江戸城を築いた際、ながめのよいこの辺りに「物見塚」と呼ばれる斥侯台(見張台)を造ったという。寛延3年(1750)に本行寺の住職日忠や道灌の後裔と称する掛川藩主太田氏などが、道灌の業績を記したこの碑を塚の脇に建てた。塚は鉄道敷設でなくなり、この碑だけが残った。この辺りの道灌の言い伝えは古くからよく知られていて、小林一茶も当地で「陽炎や道灌殿の物見塚」と詠んでいる。
(現地案内板説明文より)

ここでは少し江戸城について調べてみたいものです。

江戸城といわれれば家康、そして道灌という図式が思い浮かばれるのですが、歴史(時代)的に、江戸城=家康=道灌ではないのですね。
江戸に最初の根拠地を置いた武将は江戸重継です。この江戸重継の家系を遡ると桓武平氏を称する秩父氏になるのです。【招福大観音・勝福寺】で訪れた埼玉県深谷市の畠山重忠と祖を同じにしています。
ちょうど11世紀の平安時代から鎌倉時代のころで、当時隆盛を誇っていた秩父氏一族には、惣領家である武蔵国入間郡の河越氏、 先の武蔵国畠山郷の畠山氏、武蔵国豊嶋郡の豊島氏、などとともに江戸重継は武蔵国江戸郷を治めており、ちょうど入間川流域に沿って秩父一族が現在の東京・埼玉周辺を支配していたのです。
この江戸郷は、江戸氏によって治められたから江戸と・・・、言うのではなく、もともとこの辺りが江戸とよばれていたことから、支配した秩父氏の一族が江戸と名乗ったのです。
そもそもこの江戸重継の父は平重綱で、重継は重綱の四男にあたることからもともとは平重継となるのです。因みに重綱の長男は重弘で、その重弘の孫が畠山重忠にあたります。
それではこの江戸の地名の由来はというと平安時代以前から存在しており諸説あるようです。
例えば、当時は現在の日比谷辺りまで海が迫り、入り江が入り込んでいたので入り江の入口すなわち入り江の戸から江戸となった説や、アイヌ語の「エトゥ」から来たという説などがあるそうです。いずれにしても江戸と言う名称はかなり古くからあったということなのです。

話を元に戻して、この江戸の地を治めた江戸重継の居館が、後の江戸城の本丸・二の丸あたりの台地に築かれたようです。これが江戸城の始まり、否、前身といってほうが良いのでしょう。
鎌倉時代では繁栄していた江戸氏ですが、南北朝時代では新田義貞に付いたことから次第に衰退し、室町時代では一時足利方についたものの、この江戸の地も人家もまばらな荒涼たる地帯になっていったようです
その様な時代の中で永享4年(1432)に関東管領扇谷上杉家の家臣 太田資清の子として相模国で太田道灌が誕生しました。そして道灌は康正元年(1455)24歳で、父資清の後を継ぐのですが、相模国以外の地に城を気築けとの父の命もあり、新しい城の地に江戸を選んだのでした。
この時の江戸には、江戸氏の子孫である重広がいたのですが、殆ど力もなく道灌に追われるように江戸の地を去り、現在の世田谷区喜多見に退くことを余儀なくされたようです。
因みに、この江戸氏の一族はその後、家康に仕え名前も喜多見氏と改称し細々と存続していたようですが、5代将軍綱吉の時代に、喜多見重政が身内の刃傷沙汰の責めを負って失脚したため江戸氏の系統はここで途切れたのでした。

江戸の地を選んだ道灌は、説明にもあるとおり長禄元年(1457)に江戸城を築城し、この城を拠点として南関東一帯を治めるようになったのです。
この時の江戸城は子城(本丸の漢語表現)、中城、外城の三重構造で、周囲を切岸や水堀が巡らされて門や橋で結ばれていたようです。 更に現在の富士見櫓のある辺りに「精勝軒」と呼ばれた居宅を設けて、富士山や海の眺望を楽しんだといわれています。
この後、道灌は勢力を伸ばしていくのですが、道灌の勢力に脅威を感じたものに文明18年(1486)道灌が暗殺されると、江戸城は扇谷上杉氏の上杉朝良の隠居城として使用されましたが、大永4年(1524)にその扇谷上杉氏も後北条氏の北条氏綱に破られ、江戸城は北条家の支配下になったのです。
そして天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めの際に江戸城は開城し、秀吉に後北条氏旧領の関八州を与えられて、駿府から転居した権大納言である徳川家康が、同年8月1日(1590年8月30日)に公式に入城し江戸城を居城としたのです。

家康が入城した当初は、江戸も道灌の頃と変わらない様子だったそうで、江戸城も道灌時代の姿を残したままの比較的小規模な質素な城でした。そのため家康は開幕までに埋め立てや江戸城の改築、そして町造りを行ったのです。但しこの頃の改築はあくまで豊臣政権の中での大名としての脅威に感じられない程度の改築に留めていたようです。
そして江戸開府以降は1603年から、江戸幕府が全国の諸大名に命令し、行わせた土木工事である天下普請により江戸城の拡張に着手し、神田山を崩して日比谷入江を完全に埋め立てたことから始まり、最後に1660年より神田川御茶ノ水の拡幅工事が行なわれ、一連の天下普請が終了するのでした。
こうして約60年に渡って江戸と江戸城が造られたのでした。
江戸と江戸城にも壮大な歴史があったのですが、これ以降も江戸の歴史は、イコール日本の歴史といっても良いほどの重要な場所となっていくのです。

参道を先に進みますと、更に石碑の数々です。
本行寺 小林一茶句碑 こちらの石碑が、先の案内板にあった「陽炎や 道灌どのの 物見塚」と詠んだ一茶の句碑です。

江戸名所図会本行寺 この物見塚は先の江戸名所図会でも記されていて、本行寺からは橋のようなもので繋がれているように見えます。

本行寺 種田山頭火句碑 その先の碑は、種田山頭火という歌人の「ほっと東京に来ている月がある」と詠まれた句碑です。

種田山頭火とは、大正・昭和の俳人で、季語や五・七・五という俳句の約束事を無視し、自身のリズム感を重んじる「自由律俳句」を詠み、酒好きで漂泊の生涯を送った人だそうです。全国に500以上も句碑のある人気のある俳人で、山頭火の命日には、朝からこの本行寺の句碑に酒を注ぎながらひっそり飲んでいるファンもいるようです。
因みにラーメン山頭火は、オープンする際に、兄から創業者である弟に、弟は酒好き女好きで放浪癖があるので山頭火はどうかといわれて命名したそうです。当初4月オープン予定だったものを、山頭火(サントウカ)に因んで、無理矢理1ヶ月前の3月10日にオープンしたそうです。
色々なところで愛されている俳人なのですね。

本行寺 本堂 これ以外にも多くの碑や墓があるようですが、やはり時間の関係から後先になりましたが、本堂で参拝して「本行寺」を後にします。

谷中銀座商店街

七福神を3ヶ所お参りし日暮里惣図にある社寺を幾つか散策しまだまだ見所は沢山あるようなのですが、時間も昼過ぎ位だったので、ここは一旦昼食にすることにしました。
ここまでくれば折角なので、「谷中銀座」で昼食をということで、「経王寺」方面に一旦戻る格好で先に進みます。
この道路は区境になっていて、先ほどの「経王寺」や「本行寺」など、日暮里駅から見て右側が荒川区で、左側が台東区なのです。

夕やけだんだん 夕やけだんだん 暫く進むと道が階段状に下りる格好になります。ここが有名な「夕やけだんだん」です。

この名称は、夕焼けが美しいことと、下町情緒が感じられる名前として、ノンフィクション作家、エッセイスト、編集者である森まゆみが命名したそうです。猫が多いことから「夕やけにゃんにゃん」とも呼ばれることもあるそうです。

谷中銀座アーケード だんだんを下りるとその先には「ひぐらしの里 谷中ぎんざ」と書かれたアーケードが見えます。
ここからが谷中銀座商店街の始まりです。

先ほどの区境の通り、この谷中商店街も「夕やけだんだん」から見て右側が荒川区で左側が台東区になりますが、ここも込み入っていて、右側にある荒川区は商店街の中ほどから先は右側でも台東区になるようです。意外と面倒な地番です。

谷中「かみや」 先ずは昼食をと言うことで、食事どころを探していたところ、レタスうどんという奇妙なメニューとメディアにも紹介されたという胡散臭いPRで、正体見てやろう的なノリで入った店舗が
手打ちうどん かみや】です。

下町らしい佇まいで入った店舗は見事なくらい胡散臭さを払いのけました。
まあ、確かに個人的な好みはあるでしょうが、一度は食べても損はしないオススメの店でした。

昼食も終えて谷中銀座をぶらりと散策します。
1月4日なのでまだ若干休んでいる店舗もあるようですが、7割方は営業しているようです。

谷中銀座七福神幟 通り沿いには谷中七福神のペナントなどが掲出されていて、ここ谷中銀座では集客イベントとして活用しているようです。

この谷中銀座商店街は一見何処にでもある商店街のようですが、幾つかの工夫があるようです。
谷中銀座猫 谷中銀座猫 1つは猫です。谷中は猫が多い町的なイメージを発展させた「屋根の上の猫」です。勿論作り物だからこそ面白いのです。

谷中銀座版画 2つ目は店舗に掲げてある版画です。全ての店舗ではないのですが、これも江戸情緒といったところでしょうか。

谷中銀座共通看板 3つ目はやはり各店舗前にある看板です。

木製の共通看板と、どのような店舗なのかがわかるように、これは全店舗(だと思うのですが)に付けられている軒先案内板です。【2010年、初春風情】で訪れた浅草の伝法院通りを思い受かべられる光景です。

谷中銀座の突き当りまで行き戻ってくると途中に「ちょんまげいも」なるコピーを見つけたのが運のつき、うかつにもそのキャッチコピーに乗せられて文字通りキャッチされてしまいました。
ちょんまげいも 黒ゴマちょんまげいも たまる】というお店で、所謂甘味処ですが、ホクホクのサツマイモと気さくな女将さんの店で、おいしい食後のデザートをいただきました。

後藤の飴 後藤の飴 最初にあった谷中銀座のアーケードのところが十字路になっていてその角に「後藤の飴」なる飴屋があったので再び寄り道をすることとなりました。
大正11年創業の老舗で、自家製飴をメインに製造・販売しているようです。自家製なので種類の多いこと・・・。

折角なので「はちみつ飴」と「ばなな飴」を購入しました。

後藤の飴「ばなな飴」 「はちみつ飴」はシンプルな味で、ブッカケがなんとも懐かしい面持です。「ばなな飴」は初めて食べる飴ですが、確かにバナナの味がします。しかもフレーバーだけでなくちょっぴり果実も入っているのにはビックリでした。

聞くところによると、この場所で製造しているとの事ですが、なぜか9月から3月までだそうで、それ以外は卸の飴や、連休にしてしまうそうです。なかなかユニークな店舗です。

竹工芸翠屋 「後藤の飴」の道路を隔てた前に「竹工芸翠屋」という竹細工のお店があります。

このような七福神の竹細工や実用品など実にかわいらしく、また温かみのある商品が販売されていました。下町ならではの風情でしょう。

夕やけだんだん これで谷中銀座散策を終え、この「後藤の飴」の前の道を右手に進めば次なる目的地なのですが、下りてきたものは上りたいという訳のわからない考えから、真っ直ぐ進んで「夕やけだんだん」を上ります。ただ、それだけがしたかったのです。

といって、また戻るのも不粋でしょうから、もう少し進んでから右手に路地がありそうなので途中右折・右折を繰り返して迂回することにしました。
気力、体力共に充電して午後の散策に出発です。

関連記事
スポンサーサイト





コメント

    コメントの投稿

    (コメントの編集・削除時に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)


    トラックバック

    Trackback URL
    Trackbacks