台東区散策 #1

「谷中銀座」を最後に荒川区を散策した後は、いよいよ台東区にはいります。台東区といえば勿論上野です。 様々な意味で上野及び台東区は政治・経済というよりはまさしく江戸から現代に至るまで文化の町と言えるでしょう。 台東区の区名の由来があります。

区名の由来
区の名称は「ダイトウ」と濁らず、「タイトウ」と発音します。
台(たい)は、台覧(たいらん)や台臨(たいりん)という言葉のように、もともと気品の高い文字です。
東は、「日出(ひい)ずるところ」であり、日の出の若さや力強さを象徴します。
これらのことから「台東」という文字は、「めでたい」「気品」「若さ」「活気」を意味し、また、台(たい)は、「臺」の字に通じ、上野の高台、東(とう)は、上野台の東に位置する浅草といった区の地勢を表しています。
このように、「台東区」という区名には、文字そのものの意味と地勢的な意味の二つが込められています。
(台東区オフィシャルサイトより)

昨年の正月は浅草を散策しましたが、今年は上野を散策です。どちらにしてもやはり正月がよく似合う街なのかもしれません。

七面坂

「夕やけだんだん」を上って暫く先に進んで右に曲がると小さな坂道に突き当たります。
そこに案内板が立っていました。

七面坂
宝暦年間の「再校江戸砂子」に「宗林寺前より七面へゆく坂」とある。宗林寺(台東区谷中3-10)は坂下にあるもと日蓮宗の寺、七面は坂上の北側にある日蓮宗延命院(荒川区西日暮里3ー10)の七面堂を指す。七面堂は甲斐国(山梨県)身延山久遠寺の西方、七面山から勧請した日蓮宗の守護神七面天女を祀る堂である。
坂は「御府内備考」の文政9年(1826)の書上によれば、幅2間(約3.6メートル)ほど、長さ50間(約90メートル)高さ2丈(約6メートル)ほどであった。
なお宗林寺は「再校江戸砂子」に、蛍の所在地とし、そのホタルは他より大きく、光もよいと記され、のちには、境内にハギが多かったので、萩寺と呼ばれた。
平成6年3月 台東区教育委員会
(現地案内板説明文より)

次なる目的地がここにある「宗林寺」なのですが、本来は延命院にも寄るべきなのでしょうが、流石にここから戻るのも億劫なので、今回はパスです。
七面坂 七面坂 そしてこの坂を下って「宗林寺」に進む矢先、坂の反対側にも案内板がありました。

七面坂
御殿坂上から台東区長命寺の墓地裏を経て、宗林寺(通称萩寺)の前へ下る坂道をいう。坂名の由来は、坂上北側の宝珠山延命院の七面堂にちなむ。
荒川区教育委員会
(現地案内板説明文より)

案内板の説明の内容の良し悪しについてはこの際置いといて、先ほど日暮里駅から谷中商店街に至る道路が区境と思っていたのですが、後々調べて見ると日暮里駅前から延命院(経王寺の先)まではその道路が区境ですが、延命院前から左に分岐した七面坂が区境となり、更に谷中銀座の入口からまた真ん中が区境となるのです。要するに「夕やけだんだん」の前後100m位は完全に両側は荒川区なのです。大局的にどうでも良いことなのですが、何か意味があってのことだと思うのですが、その理由が判らないことが歯がゆいばかりです。
まあ、それにしても同じ坂の説明に2区が絡んでいるのも面白いものです。

宗林寺

「七面坂」を下りきって左折すると目の前に「宗林寺」があります。

江戸名所図会螢澤 江戸名所図会のキャプションにはこうかかれています。

「谷中宗林寺の境内にあり、又妙林寺の池をも蛍沢と唱ふ、すべて此辺蛍の光り他に勝れたり」  「草の葉を落るより飛ほたる哉 芭蕉」
また、江戸志によると、当時、江戸を流れる川は広く、蛍もたくさん見ることができたようです。
特に谷中の妙林寺あたりは昔からの蛍の名所であり、江戸時代でも妙林寺「蛍澤之池」と言うところが僅かに残っています。また、日暮里の宗林寺のあたりも螢澤といい、蛍のたくさん飛んでいることから付けられた名前だと、記録されているように、嘗てこのあたりは蛍がたくさん飛び交っていた場所だったのです。

宗林寺 実際の「宗林寺」は、谷中銀座のすぐ近くにありながら、谷中銀座の喧騒は何処へやら、しっとりとした佇まいに包まれています。

この「宗林寺」は、徳川家康に仕えた茶道家、斎藤宗林が開基となり舟守祖師を本尊として駿府に創建したものです。家康の入府に伴って慶長年間に寺も移転し、神田昌平橋外、上野東寺町を転々として元禄14年にこの地に移転してきたものだそうです。
この聞きなれない舟守祖師とは、日蓮上人が伊豆へ配流となった際に船守弥三郎へ与えられた祖師像で、江戸十祖師像の一つに数えられているものです。
当時の「宗林寺」は本国寺末頭録所三ケ寺の一つに数えられ、多くの末寺・塔頭を擁していた名刹だったようです。

宗林寺 宗林寺 本堂 かつて有った川も今は無く、蛍の飛び交う風景も見ることはできませんが、変わりに毎年萩の花が美しい姿を見せてくれることから、現在では「はぎ寺」とも呼ばれているようです。

境内もひっそりしていて、当時も静かに流れる川の音を聞きながら蛍を追いかけていたのでしょう。実に情緒ある風情が思い起こされます。

岡倉天心記念公園

当初の予定では、ここから一旦日暮里方面に戻り、次なる七福神を目指す予定でしたが、ちょんまげいも たまるでいただいた谷中周辺マップによると、「宗林寺」の前の路地を先に進んでも行けるようなので、戻らずにこのまま先に進むことにしました。

岡倉天心記念公園 少し先に進んだ左手に小さな公園があります。

公園の入口に2つの案内板があります。
一つは旧町名由来案内と題された案内板です。

下町まちしるべ 旧谷中初音町4丁目
町名は、本町内に鶯谷と呼ばれるところがあったことから、鶯の初音にちなんで付けられた。初音とは、その年に初めて鳴く鶯などの声のことである。
谷中初音町は、はじめ1丁目から3丁目として誕生した。明治2年(1869)のことである。そして同 4年(1871)、江戸時代から六阿弥陀横町または切手町といわれた武家地が初音町4丁目となり加わった。さらに同24年(1891)、初音町4丁目は谷中村、下駒込村、日暮里村の一部を合併し、ここに初音町としての町域を確定した。
本町には、かつて日本近代美術の先覚者岡倉天心が住んでいた。明治30年(1897)東京大学卒業後、文部省に勤めたが同22年、東京美術学校を開設するなどして日本近代美術の振興につとめた。その天心の旧居跡が現在の岡倉天心記念公園である。公園正面の六角堂には本区名誉区民・芸術院会員であった平櫛田中作の「岡倉天心先生坐像」が安置されている。
台東区
(現地案内板説明文より)

鶯谷は現在でも駅名として残っているのですが、初音とはさらに輪をかけて風雅な地名です。
ひぐらしの里日暮里や、鶯の谷初音など、実に良い響きと趣を感じることができるのですが、駅の反対側に行くと日暮里では駄菓子店や繊維問屋街、そして鶯谷ではラブホ街と全く表情が違うところが実に興味深い街です。どうも駅の西側は江戸の情緒と駅の東側が昭和の残像のような対極的な町並が魅力ともいえるのかもしれません。
なお、この案内板の掲載文の年号に矛盾があるので調べてみると、東京大学卒業は明治30年(1897)ではなくて、明治13年(1880年)のことのようです。
久しぶりに重箱の隅をつついてしまいました。

もう一つの案内板は公園に関する案内です。

東京都指定旧跡 岡倉天心宅跡・旧前期日本美術院跡
所在地 台東区谷中5丁目7番
指定 昭和27年11月3日
日本美術院は明治31年(1898)岡倉天心が中心になって「本邦美術の特性に基づきその維持開発を図る」ことを目的として創設された民間団体で、当初院長は天心、主幹は橋本雅邦、評議員には横山大観、下村観山らがいた。
活動は絵画が主で、従来の日本画の流派に反対し、洋画の手法をとり入れ、近代日本画に清新の気を与えた。
この場所に建てられた美術院は明治31年9月に竣工した木造二階建で、南館(絵画研究室)と北館(事務室・工芸研究室・書斎・集会室)からなり、附属建物も二、三あったといわれている。明治39年(1906)12月に美術院が茨城県五浦に移るまで、ここが活動の拠点となっていた。
昭和41年(1966)岡倉天心史跡記念六角堂が建てられ、堂内には平櫛田中作の天心坐像が安置されている。
平成11年3月31日建設 
東京都教育委員会
(現地案内板説明文より)

茨城県五浦に記念館などがあるので、いずれ機会を見つけていわき散策の折に寄りたいとは思っていますので、天心についてはいずれ詳しく知るときが来るでしょうから、今回はこの案内板をそのまま理解しておくとして、日本美術院の沿革だけ調べてみました。
ここで明治31年日本美術院創設と書かれているのは、その前に東京美術学校を排斥されて辞職した際、自主的に連座して辞職した橋本雅邦、横山大観、下村観山ら美術家達が天心の計画する美術研究の構想に賛同し、天心がそれをまとめる形で生まれたのがこの日本美術院だったそうです。
明治33年頃が活動のピークでその後、資金欠乏、内紛などにより徐々に沈滞するようになっていったようです。
明治38年茨城県五浦海岸へ別荘を建設した天心は、日本美術院の第一部(絵画)を移転させるのでした。これが谷中での日本美術院が前期とある由縁です。因みに第二部は国宝の修理などを行う部門で、こちらは京都に移されたのち別個で運営され、現在でも財団法人美術院国宝修理所という名称で現存しているそうです。
そうした中で、天心自身もフェノロサの紹介で入ったボストン美術館中国・日本美術部での多忙により、次第に同院への興味を失っていったようです。
そして明治43年、天心がボストン美術館中国・日本美術部長として渡米したことにより、同院は事実上の解散状態となったのでした。
その後、大正2年に天心が没した翌年の大正3年、大観や観山は天心の意志を引き継ぐ形で日本美術院を再興し、谷中三崎坂南町の現在地に創設したそうで、現在、日本を代表する日本画の美術団体としてその活動を継続しているのです。
日本美術院のオフィシャルサイトでは、これらに関する写真やエピソードを知ることができますので一見価値ありです。

参考:【日本美術院】http://nihonbijutsuin.or.jp/index.html

「岡倉天心先生奮宅跡 日本美術院発祥之地」碑 さて公園に入ると、左手に「岡倉天心先生奮宅跡 日本美術院発祥之地」と刻まれた石碑が立っています。

まさに記念碑たる記念碑です。

岡倉天心記念公園 越前水仙 この碑の前もそうなのですが、碑の隣の一画に水仙が植えられているのです。

越前水仙について
ここには、岡倉天心にゆかりのある福井県より寄贈された越前水仙が植えてあります。なお、この水仙は地元谷中初四町会の皆様により植栽されました。
平成19年10月5日

水仙はヒガンバナ科の多年草で、原産地は地中海といわれており、日本にある水仙は中国から伝わったとされています。福井県の越前海岸に群生する水仙を特に越前水仙と呼んでいます。越前海岸は、房総半島、淡路島と並んで、日本三大群生地のひとつで、約60ヘクタールの水仙畑は日本一の規模を誇ります。日本海に面した急斜面で寒風に耐えて咲く姿が、別名「雪中花」と呼ばれ、多くの作家、歌人、画家の題材にもなってきました。凛とした表情で咲き誇る越前水仙は、芯の強い県民性に通じるとされ、昭和29年に福井県花に指定されました。

岡倉天心と越前水仙
天心は、亡くなる1ヶ月前にカルカッタの女性詩人に宛てた手紙の中で、「もしも私の記念碑を建てねばならぬというのであれば、水仙を少しばかりと香しい梅樹を植えよ。」と記しています。越前を心のふるさとと慕った天心が、水仙をこよなく愛していたことがうかがえます。(参考文献: 「祖父 岡倉天心」岡倉古四郎 著)
(現地案内板説明文より)

ちょうど開花しても良さそうな時期ですが、まだ若干早いのでしょうかね。谷中に雪中花と言うのも中々風情ある光景でしょう。

六角堂 そして公園の一番奥にあるのが六角堂です。
茨城県五浦にある六角堂を模したモノなのでしょう。

岡倉天心像 辛うじて中の天心像を見ることができます。まさに黄金の天心・・・、意味がわかりません。

やはり五浦は一度訪れてみたいものです。

蛍坂と築地塀

「岡倉天心記念公園」をでて次に向うのは4つ目の七福神である「長安寺」の寿老人です。
蛍坂 公園横の路地を左折して坂を上ったところに、坂名の由来柱があります。

蛍坂
江戸時代、坂下の宗林寺付近は蛍沢と呼ぶ、蛍の名所であった。坂名はそれにちなんだのであり、「御府内備考」では「宗林寺の辺も蛍坂といへり」と記し、七面坂南方の谷へ「下る処を中坂といふ」と記している。中坂・・・と七面坂の中間の坂なのでそう呼んだ。三年坂の別名もある。
(現地案内板説明文より)

蛍坂 ちょうどクランク型の細い坂道です。往時はこの坂を下って蛍を見に行ったのでしょうかね。

築地塀 逆にこの坂を上って2番目の角を曲がってから少し進むと、左側に谷中の名物といってもよいのでしょう、「築地塀」が続いています。

これで「ついじべい」と読むそうです。
築地塀 平成4年、台東区まちかど景観コンクールで「まちかど賞」に選ばれたものだそうで、道路上にそのネーミングが記載されています。

「築地塀」とは、木版や瓦、薄い板状の石などを土で塗り固めた表面に白漆喰を塗って、瓦屋根を乗せたものを云うそうで、ここにある「築地塀」はその一種で瓦と粘土を交互に積み重ねた練塀というもので、江戸時代の大名屋敷や寺院などに多く造られたものだそうです。
安土桃山時代以降の城郭に使用され始めたもので、鉄砲出現以来旧来の木板塀では衝撃に弱いために練り土で厚く作られたのがはじまりのようです。
確かに景観としては壮観です。

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