上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

 

台東区散策 #2

蛍坂を上り築地塀のある路地を抜けると4番目の七福神である「長安寺」もすぐ近くです。
ここまで来るのに随分と細い路地をくねくね歩いて、流石に下町風情が一杯で散策には実によい町だと楽しんでいますが、一方で関東大震災級の天災が起こったらどうなるのだろうかと心配になります。
様々な対策は立てられているのでしょうが、実際この地を歩くとその様な危惧を感じてしまいます。

長安寺 寿老人

いよいよ4つ目の七福神に到着しました。やっと後半の開始といったところでしょうか。
長安寺 都会の寺院らしく余り広い境内ではなさそうですが、やはり下町の親しまれる寺院として時を重ねてきたのでしょう。

長安寺 寿老人 狭い参道を進むと右手にすぐ本堂があり、本堂に入ると左手に寿老人が祀られています。
かなり古そうな寿老人像です。

この長安寺に伝わる寿老人の由来です。

谷中七福神 長安寺 寿老堂由来

その1
むかしの谷中附近は、西に富士、東に筑波を眺める静かを丘陵地帯であり、春は桜、秋にはすゝきに映える名月と、四季を通じて文人墨客の清遊の地であり、早春には、梅花にたわむれる鴬の名所でもあった。
いつの頃からか、この鴬の初音にさそわれて、行脚の老翁が、この地にとどまるようになり、長安軒と名付ける小さをお堂をたて、寿老人(徳川家康の納めたものという)の尊像を安置して給仕していた。たまたま老山和尚(長安寺開山・寛文九年)が、日暮れにこのあたりを通りかゝり、一夜の宿を長安軒にもとめた。その夜、老翁が和尚に語るには、『前々から、ご立派な方に、この小さなお堂ではあるがお譲りしたいと思っていたところ、幸いなことに今夜あなたがこゝにお泊りになった。どうぞこのお堂をお守りしていたゞきたい。この堂内に安置してあるのは、七福神の内の南極星寿老尊人で福徳自在の神である。即ち、いのち長くして諸願を果す福、父母に孝行の福、子なき人には子孫繁栄の福、病人には諸病平癒の福、又戦火もなく財録増進の福、農家には五穀成穣の福、商人には商売繁昌の福を授け与える神である。このことをよく衆生に教えさとして、祈念するようにすゝめていたゞきたい。
そもそも、この里は、不忍の岡に弁才天あり、護国院に大黒天あり、感応寺(現在の天王寺)に毘沙聞天あり、当長安軒に寿老人あって、将来は、これに基いて七福神を祀る地となるであろう』と(現在、日暮里青雲寺に恵美寿神、修性院に布袋尊、田端西行庵(東覚寺)に福録寿が祀られている)時に枕辺にひびく鐘の音に驚かされて、和尚が頭をあげてみれば、一睡の夢であって、起きて老翁を尋ねさがしたが、何処へ行ってしまったか、見あたらなかった。やむをえず和尚は、長安軒に止まることにをった。
その後、年去り日は移って明治元年の夏、徳川家恩顧の旧家臣等が東叡山へたてこもり、新政府軍に対して反乱を企てゝいた。この時、寿老人を祈念していた二・三の人達の夢中にお告げがあって、このあたりは、すべて戦場とをり、火災も発生するであろうから、婦人子供老人たちを早く避難させなさいと教えられた。果して同年五月十六日(旧暦)政府軍、浪士軍の戦端が開かれ、ここ谷中附近一帯は陰惨な戦場と化し、処々灰塵となったけれども、住民は辛くも難をのがれた。戦火鎮静ののち、人々はこの霊夢でのお告げを尊しとして、みな礼拝するようになった。
(明治初年発見した由来による)

その2
その普、道潅山の西裾を水のきれいな藍染川が流れていた。そのほとりに老母と一人息子が住んでいた。息子は近在でも評判な孝行者だが、それに反して老婆は大変強欲で世間のつまはじき者であった。それでも縁あって息子に嫁がきた。しかも息子同様心がけの良い嫁であつた。二人の馴れ染めは、信心のあつい寺詣りからであった。やがて二人の間に可愛い赤ちやんが生まれた。
『赤ん坊なんか、うるさくてしょうがない。私なんかも、あの息子が生まれたその日から背負って山仕事に出かけたもんだ・・・・・・』との老母のやかましいグチから逃れるように、嫁は生まれたばかりの赤子を背負って野良仕事へ出かけて行った。
『おゝ、よしよし』不思儀なことに、その日から白い髪のお爺さんが、どこからともなく現われて、嫁に代って赤ん坊の面倒を見てくれるようになった。そして、そのお爺さんは子守りをしをがら強欲な老婆の処に行っては、いろいろと世間話をするようになった。その話は老婆の気持ちを和らげて、やがて進んで孫の赤ん坊の子守りをし、嫁ともむつまじくなった頃、白髪の老人はバッタリ姿を見せなくなった。
そして正月のこと、近所の人達と連れだって七福神めぐりをして、長安寺の寿老人の前に立ったとき、老婆がまずビックリして大声をあげた。『アッ、この方だ。この人だよ』嫁も亦『アッ、このお爺さんだ』、すると柔和を寿老人の像がニッコリとして、『お婆さん、嫁さんや孫さんは貴女のかけがえのない宝ものじゃ、大事にしなさいを』 ハッキリ耳に聞こえた。
(長安寺「寿老人」パンフレットより)

長安寺 寿老人 寿老人とは中国元祐年間の道士で、白髭を蓄え、鹿を従えている老人で、福禄寿と並んで長寿の福を授ける南極星の化身であると伝えられており、この長安寺の寿老人像は、徳川家康が納められたものといわれていて、等身大の寄木彫刻で、左脇に鹿を従えた坐像なのです。

長安寺 板碑と十六羅漢 寿老人をお参りし、朱印をいただき本堂を出ると目の前に板碑の文化財があります。

板碑(台東区有形文化財)
台東区谷中5丁目2番22号 長安寺内
死者の菩提を弔うため、あるいは生前に自らの死後に備えて供養を行う(逆修という)ために建立した、塔婆の一種。板石塔婆・青石塔婆ともいう。関東地方では秩父地方産の緑泥片岩を用い、鎌倉時代から室町時代まで盛んに造られた。頂上を山形にし、その下に二段の切り込み(二条線)を造る。身部には供養の対象となる本尊を、仏像、または梵時の種字(阿弥陀如来の種字<キリーク>が多い)で表し、願文・年号等を刻んだ。
長安寺には、鎌倉時代の板碑三基・室町時代の板碑一基がある。
1.建治2年(1276)4月 円内にキリーク種字を刻む
2.弘安8年(1285)8月 上部にキリーク種字を刻む
3.正安2年(1300)2月 「比丘尼妙阿」と刻む
4.応永3年(1396)正月 上部に阿弥陀三尊の種字を刻む
長安寺の開基は、寛文9年(1696)とされ、同寺に残る板碑は、開基をさかのぼることおよそ400年も前である。長安寺開基以前、この地には真言宗の寺があったと伝えられ、これらの板碑と何らかの関連があったと思われる。
平成3年台東区有形文化財として区民文化財台帳に登録された。
平成8年7月
台東区教育委員会
(現地案内板説明文より)

写真ではちょうど一番大きな板碑が木に重なってよく見えませんが、大小4つの板碑があります。板碑の建立は1300年頃ですから江戸氏が支配していた頃のものでしょう。秩父一族ですから板碑の建立は埼玉県では多くありますので、その流れであればこの辺りにあっても何の不思議も無いところです。
因みにその前の石像は十六羅漢像だそうです。

長安寺 狩野芳崖墓 また、境内内の墓地にも文化財指定の墓があるようです。

狩野芳崖墓(台東区史跡)
台東区谷中5丁目2番22号 長安寺内
明治初期の日本画家で、文政11年(1828)長府藩御用絵師狩野晴皐の長男として、長門国長府(現、山口県下関市)に生まれる。19歳の時江戸に出て、狩野勝川院雅信に師事。橋本雅邦とともに勝川院門下の龍虎とうたわれた。
明治維新後、西洋画の流入により日本画の人気は凋落し、芳崖は窮乏に陥ったが、岡倉天心や米人フェノロサ等の日本画復興運動に加わり、明治17年第2回内国絵画共進会で作品が褒状を受け、次第に当時の美術界を代表する画家として認められた。芳崖は狩野派の伝統的な筆法を基礎としながら、室町時代の雪舟・雪村の水墨画にも傾倒、さらには西洋画の陰影法を取り入れるなどして、独自の画風を確立した。その代表作「悲母観音図」「不動明王図」(ともに東京芸術大学蔵)は、いずれも重要文化財である。
明治21年、天心・雅邦とともに東京美術学校(現、東京芸術大学美術学部)の創設に尽力したが、開校間近の同年11月、61歳で没した。
墓所は長安寺墓地の中ほどにあり、明治20年没の妻ヨシとともに眠る。また、本堂前面には芳崖の略歴・功績を刻んだ「狩野芳崖翁碑」(大正6年造立)が建つ。
平成5年、台東区史跡として、区民文化財台帳に登載された。
平成8年7月
台東区教育委員会
(現地案内板説明文より)

こちらが狩野芳崖の墓です。こじんまりとした小さなお墓ですが、正月らしい花が手向けられています。
流石に、天心縁の地であることが窺われます。

谷中霊園 #1

「長安寺」の後は谷中霊園にある5つ目の七福神・毘沙門天のある「天王寺」に向います。
谷中霊園 谷中霊園 道幅が広くなるとそこは両側が墓地に囲まれた谷中霊園です。

中村正直墓 少し先に行くと右側に大きな墓石の墓があります。「中村正直墓」と案内板があります。

中村正直墓(都指定旧跡)
台東区谷中7丁目7番 了寺墓地内
明治時代の教育者、啓蒙学者。天保3年(1832)幕臣中村武兵衛の子として江戸に生まれ、幼名を釧太郎、名を正直、号を敬宇という。昌平坂学問所に入り、佐藤一斎について儒学を学ぶ。慶応2年(1866)幕府の英国留学生派遣に取締として同行、英国市民社会の実情に触れた。
明治5年(1872)新政府に出仕し、大蔵省翻訳御用を務めるかたわら、翌年、家塾同人社を開いた。女子高等師範学校(現、御茶の水女子大学)校長就任、訓盲院の開設など女子教育、障害者教育にも力を注ぎ、東京帝国大学教授・元老院議官・貴族院議員を歴任した。
明治24年6月7日、60歳で病没。葬儀は神葬で行われた。
正直は、西周・神田孝平らと明六社を起こし、啓蒙思想の普及に努め、日本の近代化に貢献した。
訳著書に『西国立志編』『自由之理』などがある。
平成7年3月 台東区教育委員会
(現地案内板説明文より)

恐らくこの散策の機会がなければ、一生知らないままだった方でしょう。
それにしても大きな墓石ですが、この墓周辺のみ谷中霊園ではなく了寺の墓地なのだそうです。

天王寺五重塔跡 天王寺五重塔跡 先に進むと交差点となり交差点の角に「天王寺五重塔跡」があります。

東京都指定史跡 天王寺五重塔跡
所在地 台東区谷中7丁目9番6号
指定 平成4年3月30日
谷中の天王寺は、もと日蓮宗・長耀山感応寺尊重院と称し、道潅山の関小次郎長耀に由来する古刹である。元禄12年(1699)幕命により天台宗に改宗した。
現在の護国山天王寺と改称したのは、天保4年(1833)のことである。最初の五重塔は、寛永21年(正保元年・1644)に建立されたが、130年ほど後の明和9年(安永元年・1772)目黒行人坂の大火で焼失した。
罹災から19年後の寛政3年(1791)に近江国(滋賀県)高島郡の棟梁八田清兵衛ら48人によって再建された五重塔は、幸田露伴の小説『五重塔』のモデルとしても知られている。総欅造りで高さ11丈2尺8寸(34.18メートル)は、関東で一番高い塔であった。明治41年(1908)6月東京市に寄贈され、震災・戦災にも遭遇せず、谷中のランドマークになっていたが、昭和32年7月6日放火により焼失した。現存する方3尺の中心礎石と四本柱礎石、方2尺7寸の外陣四隅柱礎石及び廻縁の束石20個、地覆石12個総数49個はすべて花崗岩である。大島盈殊による明治3年の実測図が残っており復原も可能である。中心礎石から金銅硝子荘舎利塔や金銅製経筒が、四本柱礎石と外陣四隅柱からは金銅製経筒などが発見されている。
平成5年3月31日 建設
東京都教育委員会
(現地案内板説明文より)

幸田露伴の五重塔は読んだことがないので書評だけ読みましたが、この五重塔は、先の案内文にもあったように再建時を題材としたドラマで、主人公の「のっそり十兵衛」なるものが、そのまま五重塔を建造するという大工の話のようですが、心情や環境の描写が良く描かれていて、ユーモアもあってテンポが速いのも特色で、一部では名文というよりも名調子と呼びたい大傑作小説だと言われているようです。
このように所謂庶民も受け入れやすい小説だったこともあり、小説の人気とともに実際の五重塔も人気となったのでしょう。

焼失前の五重塔の写真が掲出されています。
天王寺五重塔 焼失前写真 《写真:案内板より》

そこで再建後の五重塔の歴史をかいつまんでみます。
1791(寛政3)年 五重塔再建(大工は近江高島郡の八田清兵衛ら48人)
1833(天保4)年 護国山天王寺と改称
1855(安政2)年 安政江戸地震発生
1864(元治元)年 五重塔改修
1868(慶応4)年 上野戦争(彰義隊の兵火により本坊、五重塔以外焼失)
1874(明治7)年 寺域の一部を東京府に移管し、谷中霊園となる
1891(明治24)年 小説 『五重塔』 連載開始
1908(明治41)年 五重塔を東京市に寄贈
1923(大正12)年 関東大震災発生
1945(昭和20)年 東京大空襲
安政の大地震、上野戦争、関東大震災、東京大空襲といった東京全土を襲った天災・人災にも焼失しなかった五重塔は放火によってあっさりと焼失してしまったのですから、関係者や都民の感情を推し量ると大変残念だったのでしょう。
そこで、その放火事件とはどういった事件だったのかを調べてみます。

1957年7月6日の早朝、五重塔は炎上し焼失しました。
その炎上する五重塔の写真が同じように掲出されています。塔ですから当然燃えやすく、この火の勢いでは止められないでしょうね。
天王寺五重塔 延焼写真 《写真:案内板より》

そして焼け跡の芯柱付近から男女の区別もつかないほど損傷した焼死体2体が発見されたそうです。
その焼け跡(死体の写真ではありません、当然)の写真が同じように掲出されています。
天王寺五重塔 焼失後写真 《写真:案内板より》

遺留品等の捜査によって2人は都内の裁縫店に勤務していた50歳代男性と20歳代女性で、不倫関係の清算を図るため焼身自殺を図り、その際の出火が延焼して塔全体が焼失したものと推定されたそうです。
今から50年以上も前のことで不倫は文化だという文化など毛頭ありませんから、こういった行動になってしまったのでしょう。それにしても何故五重塔で、だったのでしょうかね。
現在、様々な角度から再建計画が検討されているようで勿論、反対するわけではありませんが、ある意味史実だけが伝えられればそれはそれで良しなのかもしれません。
江戸名所図会にも五重塔は描かれていましたが、ある意味ドラマティックな歴史をもった五重塔といえるでしょう。

谷中霊園 中央園路 五重塔跡から天王寺方面に進みます。
実に冬晴れの気持ちよい日です。

鬱金桜 その道沿いに桜の木があります。「鬱金桜」という品種だそうです。

鬱金桜
この「鬱金桜」は別名「浅黄桜」とも呼ばれており、花の開花はソメイヨシノより2週間程度遅く、4月中旬ごろに淡黄緑色の八重の花が楽しめます。
旧天王寺境内であった谷中霊園内には、江戸時代から浅黄桜が多く植えられていたらしく、2代目歌川広重が描いた「江戸名勝図会  天王寺」のなかで「谷中天王寺...(中略)...境内に桜木多し、なかんずく浅黄桜の名木あり」と評され、江戸庶民に愛されていました。
浅黄色は最近ではほとんど見かけられなくなりましたが、「第9回 谷中花のフェスティバル」を機に、この鬱金桜を植樹したものです。
平成9年5月
(現地案内板説明文より)

当然今咲いているわけも無いので、サイトから写真を拝借しました。
鬱金桜 これがこの鬱金桜の花です。《写真:(C)谷中喃々堂》

江戸名勝図会 天王寺 更にその「江戸名勝図会 天王寺」にも鬱金桜とともに五重塔が描かれています。

華やかな頃だったのでしょう。

関連記事
スポンサーサイト


コメント

    コメントの投稿

    (コメントの編集・削除時に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)


    トラックバック

    Trackback URL
    Trackbacks


    上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。