台東区散策 #3

谷中霊園内を散策しながら、いよいよ5つ目の七福神である「天王寺」に向かいます。
鬱金桜の説明で少し触れられていましたが、この谷中霊園はもともと「感応寺(現、天王寺)」の寺域の一部で、五重塔跡前の今歩いている園路は中央園路といわれる道路で、かつて「感応寺(現、天王寺)」の参道であったところだそうです。

天王寺 毘沙門天

江戸名所図会天王寺 その中央園路を進むと流石にかつては参道だけあって正面に「天王寺」があります。
その様子は江戸名所図会では、五重塔がそびえ立ち、その前の参道が確かに本堂まで続いています。

天王寺山門 山門には由緒が書かれています。

護国山天王寺
台東区谷中7丁目14番8号
日蓮上人はこの地の住人、関長耀の家に泊まった折、自分の像を刻んだ。長耀は草庵を結び、その像を奉安した。―伝承による、天王寺草創の起源である。一般には、室町時代、応永(1394から1427)頃の創建という。『東京府志料』は「天王寺 護国山卜号ス 天台宗比叡山延暦寺末 此寺ハ本日蓮宗ニテ長耀山感応寺卜号シ 応永ノ頃ノ草創ニテ開山ヲ日源トイヘリキ」と記している。東京に現存する寺院で、江戸時代以前、創始の寺院は多くない。天王寺は都内有数の古刹である。江戸時代、ここで富くじ興行が開催された。目黒の滝泉寺・湯島天神の富とともに、江戸三富と呼ばれ、有名だった。
富くじは現在の宝くじと考えればいい。
元禄12年(1699)幕府の命令で、感応寺は天台宗に改宗した。ついで天保4年(1833)、天王寺と改めた。境内の五重塔は、幸田露伴の小説、『五重塔』で知られていた。しかし昭和32年7月6日、惜しくも焼失してしまった。
平成4年11月 台東区教育委員会
(現地案内板説明文より)

確かに江戸時代以前の創建の寺院が少ないのはよくわかります。そういった意味では稀有な存在と言えるでしょうが、更にその貴重な存在は富くじにあるともいえます。
富くじの起源は、江戸時代初期に現在の大阪府にある瀧安寺で、正月に僧侶が3人の当選者を選び出し、その3人に幸運をもたらすとされるお守りを授けたのが由来とされているようです。しかし、次第にくじの当選者に金銭を分配するような動きが広まると、徳川幕府は1692年に富くじ禁令を発令したのです。
その後、幕府は寺社にのみ修復費用調達の手段として富くじの発売を許可し、これは天下御免の富くじ御免富と呼ばれ、この御免富で有名になったのが、先の説明にあった江戸の三富なのです。
しかしながら結局富くじは、1842年幕府財政の再興を目的とした天保の改革により歴史から姿を消すことになるのです。
その後、復活したのは実に約100年後の太平洋戦争が終結した1945年で、インフレ防止のために「政府第1回宝籤」を発売し、このときから現在の宝くじという呼ばれ方がはじまったのです。1等賞金は当時の金額で10万円だったそうです。

では如何にして天王寺の富くじが江戸の三富とまで呼ばれるようになったかと言う経緯が、「旧感応寺〈天王寺〉富興行関係資料」という台東区の文化財に指定されているものから判明しているそうです。

「旧感応寺〈天王寺〉富興行関係資料」とは全部で11点ある史料です。
1.「富御祝儀渡帳」1冊、文化6年(1809)以後の成立
2.「(富興行)定書」1枚、天保4年(1833)から同5年
3.「当山帰宗一件記」1冊、嘉永2年(1849)成立
4.「富興行一件記」3冊、嘉永2年(1849)成立
5.「当時有形絵図面」1枚、嘉永2年(1849)成立
6.「奉歎願口上覚」1冊、嘉永3年(1850)成立
7.「奉伺口上覚」1冊、嘉永4年(1851)成立
8.「突富興行願諸用記」1冊、安政3年(1856)成立
9.「感応寺領坪数并持添地其外坪数訳書之写」1冊、享保6年(1721)の記録を江戸末期から明治時代に写したもの。
10.「感応寺領坪数并持添地其外坪数訳書」同前、
11.「保存箇所并堂宇再建見込書」1冊、明治22年成立

この史料によると、旧感応寺では天保13年まで富くじが催され、谷中感応寺の富突と実際には「富突」と云われ、 更にこれらの史料によると、それまで明らかになっていなかった江戸時代の富くじの実態が判明したようです。
例えばそれまでの定説では、幕府公認の富興行は享保15年(1730)京都仁和寺が江戸音羽護国寺境内で行ったものが最初と考えられてきいたのですが、この史料により、それより30年前の元禄末年(1700年頃)には感応寺で興行していたことが判ったのです。 また、その他富突の開催をめぐる感応寺と幕府の交渉の有様、富札1枚の値段が庶民にとって高額だったことから生じたヤミ行為の顛末、あるいは富突に使用する箱・札・錐などの道具の寸法といった細かいことまで、様々な事実が明らかとなったのだそうです。
これにより江戸時代の富くじのみならず、江戸の風俗、文化をも知ることができる貴重な史料として文化財に指定されたのだそうです。

天王寺 毘沙門堂 山門を抜けると右手に「毘沙門堂」があり、行列ではありませんが、次から次へとお参りにつめかけています。

天王寺 毘沙門堂 流石に毘沙門堂だけあって、鬼瓦もまさにリアル鬼瓦です。

天王寺 毘沙門天 天王寺 毘沙門天 その毘沙門堂の奥に毘沙門天が祀られており、この毘沙門天像も文化財に指定されています。

木造毘沙門天立像
天王寺
昭和62年度指定
本像は、ヒノキ材の一木造(いちぼづくり)で、体内をくりぬかない彫法によって作られています。量感あふれる体型と頬と顎の張った表情や、大袖の特徴ある衣文の彫りは、その作風から平安時代中期(10世紀)ごろの作品とみられます。像高は116.8センチメートル。頭、体とも正面を向き、邪鬼の上に立ち、左手に宝塔をのせ、右手には宝棒を握っています。
天王寺は、もと感応寺という日蓮宗の寺院でしたが、元禄11年(1698)江戸幕府の命令で天台宗に改宗させられました。この改宗にさいし、京都の鞍馬寺が比叡山の乾(いぬい)(北西)の方角にあり毘沙門天をまつっていることになぞらえて、寛永寺の乾の方角にあたる天王寺にも毘沙門天を迎えることになりました。こうして本像は元禄12年比叡山からもたらされ、この寺の本尊になりました。天王寺の毘沙門天は、江戸の人々の信仰を集め、多くの参詣者でにぎわいました。江戸時代後期からは、谷中七福神のひとつに数えられ、いまも庶民に親しまれています。
本像とともに指定をうけた感応寺毘沙門天王記は、享保16年(1731)寛永寺凌雲院実観の筆になるもので、本像が比叡山から天王寺に移された経緯がくわしく記されています。
(台東区オフィシャルサイトより)

仏教の世界観というのは、円盤でできた世界の中央に高さ約132万kmというとてつもなく高い山・須弥山があり、そこに神々が住んでいて、その周囲の円盤の上に人々がいるということになっているそうです。
その神々を守る役目に選ばれたのが、その須弥山の中腹にいる守護神・四天王で、東西南北と地水火風の四大元素をそれぞれ担当しているのだそうで、東を守るのが持国天、西を守るのが広目天、南を守るのが増長天、そして北を守るのが多聞天なのです。
このうちの多聞天は、サンスクリット語で「ヴァイシュラヴァナ」と言い、これは「すべてのことを一切聞き漏らさない知恵者」という意味で「たもんてん」と呼ばれていたそうです。

日本では、日本書紀に聖徳太子が物部守屋を討伐したときに、四天王像を造って戦勝祈願し、後に摂津国に四天王寺を建立したというように、戦勝護国の仏神として信奉されたようです。
その後の平安時代において、王城守護のために平安京羅城門上と、同京の北方鎮護のために鞍馬寺に、それぞれ多聞天が安置され、源義経の名声とともに鞍馬寺の多聞天が四天王のなかで単独に信仰されるようになり、サンスクリット語の「ヴァイシュラヴァナ」の音読みから毘沙門天と呼ばれたようなのです。
したがって、四天王での呼び方は多聞天で、単独の場合は毘沙門天と呼ぶのが一般的になったそうです。
そして、この毘沙門天は四天王のなかでも最強と呼ばれる強さを持っていることから「軍神」とも崇められていて、南北時代の武将楠木正成は、自らを毘沙門天の申し子とし、幼名を多聞天にちなんで多聞丸と称したし、上杉謙信も自分のことを毘沙門天の生まれ変わりだと信じ、丸に毘の字をかたどった戦旗を使用していたくらい戦国武将に戦いの神として信仰されていたようでした。

この四天王の一神で、更に軍神としても崇められていた毘沙門天がいかなる理由で七福神の一員となりえたのか・・・。
確実なる由来は無いのですが、幾つかの通説はあるようです。
ヒンドゥー教で財宝・福徳をつかさどる神クベーラと毘沙門天が同一視されたことによるという説、幸福の神である吉祥天を妻としたところから、毘沙門天も福をもたらす神としたいう説、更にその軍神的性格から、貧乏神を退散させてくれるという説まで、様々な説があるのですが、いずれにせよ正月と盆とクリスマスのある日本人にとって、善神は全て福の神といった都合のよい論理は極々当たり前に受け入れられる風土・思想だったからでしょうね。

そこでこの天王寺にまつわる歴史を紐解いてみると、毘沙門天が戦の神であったように、天王寺自体の歴史も戦いの歴史だったようです。
鎌倉時代後期、 土豪関長耀が、 この地に立ち寄った日蓮聖人に帰依して草庵を作り、 弟子日源がここに聖人自刻の像を祀って長耀山感応寺と称したのが開創と云われているのは、前述の説明文のとおりです。
説明文にある一般的な室町時代創建という説は、当時、目黒碑文谷の法華寺 から日耀が転住し、中興してから永らく栄えたといわれていることから、歴史的記述のある中興を創建としたと言うのもあながち間違いではないのでしょう。
その後、長らく続いた繁栄は、元禄11年(1698)、法華信者以外からは布施を受けず、 また他宗派の僧には布施を施さないという不受不施派(不受不施義)に属していたため江戸幕府より邪宗として改宗を命ぜられ、 これに反対した住職日遼は八丈島へ島流しとなったのです。 そして、 聖人像はじめ日蓮宗関係の品々もそれぞれ近隣の瑞輪寺等の同宗寺院に移され、 感応寺は名実ともに廃絶の危機に瀕したのでした。 しかし、これを惜しんだ東叡山輪王寺の住職である公弁法親王が、 天台宗寺院として存続することを幕府に説いて認められました。
それにより、千駄木大保福寺の慶運大僧正を1世に迎え、本尊もこの地が寛永寺の北方に位置するところから、 やはり延暦寺の北方にある鞍馬寺が毘沙門天を奉安して国家安穏・仏法護持を祈願しているのにならって、 比叡山飯室谷円乗院より伝教大師親刻とされる毘沙門天立像を移して新本尊としたのです。
この新本尊、毘沙門天の十種福の縁由により、元禄13年 (1700) に富くじの興行を許され新感応寺が大いに繁栄したのは、文字通り毘沙門天の福によるものでしょうかねえ。
そして、天保4年(1833)再び当寺を日蓮宗に戻そうとする運動が行われたのですが認められず、これを機に長耀山感応寺から現在の護国山天王寺へと改称したのです。
因みにこの感応寺の名跡を継いだ日蓮宗の大寺院が雑司が谷に建立されたそうですが、間もなく取り潰されたそうです。

その後の戊辰戦争では、この天王寺は幕府方の彰義隊の営所となったため官軍との戦闘に巻き込まれ、毘沙門堂(当時の本堂) 以下諸堂宇が焼失しました。更に明治新政府の神仏分離政策により、当時の広大な境内の大半を接収されるなど、大きな痛手を蒙ったのですが、焼け残った本坊を本堂に修築し、本尊を阿弥陀如来として復興に努めたそうです。流石に毘沙門天では争いが絶えない・・・、というわけではないでしょうが。
そして昭和32年、前述したように五重塔が炎上しましたが、からくも下層部が焼け残ったことから、その残材を使って昭和36年に毘沙門堂を再建し、戊辰戦争の際に吉祥天・善膩師童子の2脇像とともに四谷安禅寺に避難して無事であった毘沙門天を安置したのだそうです。従ってこの毘沙門堂は五重塔の名残をもった貴重な堂宇ということなのです。
その後、昭和57年に現本堂および書院、平成10年に講堂・客殿・新山門が新築され現在に至っているのです。
恐らく、波乱万丈の人生といっても過言ではないほどの歴史を刻んできた天王寺は、時代とともに生きた古刹といえるでしょう。

天王寺 本堂 毘沙門天のお参りを済ませ、朱印をいただいてから後先になりましたが、本堂を参拝します。
昭和57年に再建されたとあって、非常に新しいのですが古いものと融合させるような配慮がされているようです。

天王寺 娑羅双樹 その本堂の前に柵で区切られた1本の木が植えられています。傍らの標識に娑羅双樹と記載されています。

娑羅双樹とは平家物語の冒頭に「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 婆羅双樹の花の色・・・」と詠われていたあの婆羅双樹です。
インド原産の常緑高木で、幹高は30mにも達し、春に白い花を咲かせ、ジャスミンにも似た香りを放つかぐわしい木のようです。
しかし、あえて境内の中央に、しかも柵で区切ってまでと考えると、もう少し貴重な木ではないのかと調べてみたところ、単純明快な答えがありました。
仏教界には、仏教三大聖樹という聖木があり、そのうちの一つが婆羅双樹なのです。
仏教三大聖樹
1.釈迦が生まれた所にあった木:無憂樹
2.釈迦が悟りを開いた所にあった木:印度菩提樹
3.釈迦が亡くなった所にあった木:娑羅双樹
ということだそうです。また一つ利口になったような気がします。

天王寺 銅造釈迦如来坐像 そして境内の左側には比較的大きな仏像が安置されています。

銅造釈迦如来坐像(台東区有形文化財)
台東区谷中7-14-8 天王寺
本像については、『武江年表』元禄3年(1690)の項に、「5月、谷中感応寺丈六仏建立、願主未詳」とあり、像背面の銘文にも、制作年代は元禄3年、鋳工は神田鍋町に住む大田久右衛門と刻まれている。また同銘文中には「日遼」の名が見えるが、これは日蓮宗感応寺第15世住持のことで、同寺が天台宗に改宗して天王寺と寺名を変える直前の、日蓮宗最後の住持である。
昭和8年に設置された基壇背面銘文によれば、本像は、はじめ旧本堂(五重塔跡北方西側の道路中央付近)右側の地に建てられたという。『江戸名所図絵』(天保7年〔1836〕刊)の天王寺の項には、本堂に向かって左手に描かれており、これを裏付けている。明治7年(1874)の公営谷中墓地開設のため、同墓地西隅に位置することになったが、昭和8年(1933)6月修理を加え、天王寺境内の現在地に鉄筋コンクリート製の基壇を新築してその上に移された。さらに昭和13年(1938)には、基壇内部に納骨堂を増設し、現在に至る。
なお、「丈六仏」とは、釈迦の身長に因んで 1丈6尺の高さに作る仏像をいい、坐像の場合はその二分の一の高さ、8尺に作るのが普通である。
本像は、明治41年刊『新撰東京名所図絵』に「唐銅丈六釈迦」と記され、東京のシンボリックな存在「天王寺大仏」として親しまれていたことが知られる。
平成5年(1993)に、台東区有形文化財として、区民文化財台帳に登載された。
平成8年3月 台東区教育委員会
(現地案内板説明文より)

江戸名所図会では九品仏と記載されていて、確かに大仏が安置されていたようです。
日本全国に大仏があるのですが、日本人の好きな三大で選ぶと、太平洋戦争前までは、奈良の大仏、鎌倉大仏、兵庫大仏が日本三大大仏とされていたようですが、当時の兵庫大仏が取り壊されたため、現在は第3の大仏が事実上空位となり、第3の大仏をどの大仏にするかは諸説ある状態だそうです。
現在、自称しているのが高岡大仏と岐阜大仏で、諸説としては再建された兵庫大仏、東京大仏、牛久大仏などが第3の大仏とも言われているようです。
天王寺 新山門 まだまだ天王寺には多くの文化財も残っているようですが、そろそろ時間も迫ってきているので、新山門から天王寺を後にしました。

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