台東区散策 #4

5つ目の毘沙門天と、由緒ある「天王寺」をお参りしたあとは、先ほどの中央園路を来た方向に戻ります。
時間もPM2:00も過ぎている時刻なので、ここからは少しスピードアップを図らないと、日暮れと寒さがやってきてしまいます。

谷中霊園 #2

谷中霊園 中央園路 東京スカイツリー 桜の季節は大層綺麗なのだろうななどと思い巡らせてながら歩いていると、木々の向こうに遠く東京スカイツリーが見えます。

上野と向島ですから距離的にはそれほど離れているわけでもなく、更に世界一の高さのタワーを目指すのですから見えて当たり前なのですが、それでも何となく得した気分です。

木賊垣 先ほどの「天王寺五重塔跡」を過ぎて先に進むと、綺麗な生垣がしつらえてあります。

木賊垣
竹の節を散らして張った姿が植物のトクサに似ていることからこの名が付いた。押し縁を掛けない竹垣の代表的なもので、縄からげの美しさに特色がある。
(現地案内板説明文より)

一語一句解読していくといくら時間があっても足りませんので、ここは単純に造形美を楽しんでおきましょう。

川上音次郎 銅像台座 その先には妙な銅像、ではなく銅像の台座だけがあります。

川上音次郎 1864-1911 銅像台座
新派俳優。壮士劇の率先者。福岡県の人。福岡藩主黒田氏の御用商人川上専蔵の子。玄洋社に入り、自由党壮士の群に投じ、自由童子と称し各地を浪遊し政談演説をする。過激な民権論を試み、政府を攻撃し法に触れ獄に投ぜられること数々あり。金泉丑太郎と一座を組織、「経国美談」演じるが失敗に終る。横浜にて書生芝居に加あり「板垣退助遭難実記」を演じ好評を博す。外国演劇視察のため渡仏。帰国後、書生芝居を組織。浅草にて「意外、又意外、又又意外」の新作を演じオッペケペ節を歌い大いに喝采を得る。日清戦争劇でも満都の好評を博す。衆議院議員の選挙運動に失敗。一座で渡航米国にて興行大好評を得る。英・仏を巡回し名声を上げる。独・伊・露巡演好評。自ら興行師たらんとして大阪帝国座を経営する。明治劇団の新派劇の新生面を開く。妻定奴近代日本最初の女優で、内助の功あり。銅像は戦時中金属の供出で取り外され、台座のみ残る。
(谷中過去帳より)

オッペケペ節第1節
「権利幸福嫌いな人に/自由湯をば飲ましたい/堅いかみしも角とれて/マンテルズボンに人力車/いきなり束髪ボンネット/貴女に紳士のいでたちで/うわべの飾りは立派だが/政治の思想が欠乏だ/大地の真理が分からない/心に自由の種をまけ/オッペケペ/オッペケペ/オッペケペッポ/ペッポペッポ。」
(現地案内板説明文より)

確か明治の自由民権運動のころは、アジテート演説は犯罪となるので、節をつけて歌にすることで犯罪とはならない、とか何とか聞いた覚えがあるのですが、それの一種だったのでしょうか。
説明にもある通り浅草の芝居で好評を博したようですが、もともとこの川上音二郎は、大阪の落語家3代目桂藤兵衛の弟子で、大喜利で余興に歌ったのが始めとか。
そう考えると、世の中のアジテート演説をパロディ化したエンターテイメントなのでしょうか・・・?

川上音次郎 銅像写真 案内板に銅像のあったときの写真が掲載されていました。

高橋お伝 碑 その隣に聞きなれない「高橋お伝」なる人の碑があります。

高橋お伝 1850-1879
嘉永3年、上野国前橋に生まれる。明治初期の稀代の悪婦として知られる。最初の夫、浪之助が悪病にかかり身体の自由を失ったのでこれを毒殺し、他の男のもとに走り、その後、各地を放浪しながら悪事を重ねた。明治9年、浅草蔵前の旅館丸竹で、古着屋後藤吉蔵をだまして殺害、所持金200両を持って逃走、京橋新富町で捕らえられ、同12年、30歳で死刑に処される。毒婦お伝の名は都下の新聞、仮名垣魯文のお伝一代記「高橋阿伝夜叉譚」などで有名になる。しかし、彼女は貧困と差別のうちに男に利用された気の毒な存在と見る見方も強まっている。碑は物語で利を得た魯文が世話人となって作られた。
死してなお、トイレの傍らにあるお伝の碑には、いつも花束が絶えず、この碑にお参りすると三味線がうまくなるというジンクスもある。自然石に「しばらく望みなき世にあらむより渡しいそぐや三津の河守」の辞世の歌が刻まれている。子規の句に「猫の塚お伝の塚や木下闇」もあるが現在魯文ゆかりの猫の塚は谷中三崎町永久寺に移された。
谷中墓地掃苔禄より
(現地案内板説明文より)

日本人の好きな三大話でいくと、大島渚監督の日本最初のハードコア映画「愛のコリーダ」のモデルで知られるポコチン斬りの阿倍定。大正琴の定番「明治一代女」のモデルとして知られる花井お梅と並んで日本三大毒婦などと呼ばれているのだそうです。
明治12年、市ヶ谷監獄にて死刑執行されたのですが、日本における女性死刑囚最後の斬首刑で、この後、明治14年に斬首刑は野蛮とのことから廃止されたそうです。
この斬首刑の執行人は首切り浅右衛門こと8代目の山田浅右衛門といわれているようですが、その弟、吉亮とも言われているそうです。
遺体は警視庁第五病院で解剖され、その一部(性器)は現在の東大法医学部の参考室というところに保存されていたらしい、といわれています。
そして説明にもある通り、魯文の「高橋阿伝夜叉譚」であっという間に世間の注目を浴びたのですが、このような題材はメディアには格好のテーマらしく、1912年の「高橋お伝」(福宝堂)を皮切りに、1983年の「紅夜夢」(にっかつ)まで、実に11本の映画が作られたことでも判ります。
その後、高橋お伝は回向院に埋葬され、鼠小僧と並んで眠っているといわれているのですが、Wikiによると鼠小僧は両国の回向院で、お伝は南千住の回向院のようです。
南千住の回向院は慶安4年(1651)に新設された小塚原刑場での刑死者を供養するため、寛文7年(1667)に本所(両国)回向院の住職が常行堂を創建したことに始まる寺院です。したがって、ここにはあの安政の大獄により処刑された橋本左内・吉田松陰・頼三樹三郎らも眠っているそうです。
何となく、「云われています・・・」ばかりということで、実に事実が今ひとつはっきりしないのも伝説化しているのでしょうか。

お伝の碑から先に進むと、様々な生垣などが設置されています。先ほどあった「木賊垣」とはまた違った種類のようなので、一まとめにしてみます。

矢来垣

矢来垣
最も歴史の古い透かし垣である。押し縁(組子を押さえるために横に渡した竹)を掛けた形式で格式の高いものになっている。

金閣寺垣

金閣寺垣
京都の鹿苑寺(金閣寺)に作られている為この名がある。足下垣(脚付近から下位の高さの垣)として最も好まれる透かし垣である。

竜安寺垣

竜安寺垣
京都の竜安寺の境内に作られている為、この名がある。足下垣として、金閣寺垣と並ぶ透かし垣の代表作のひとつである。

四つ目垣

四つ目垣
透かし垣(向こう側が透けて見える垣根)を代表するものであり、詫びた中にも整った味わいがある。茶庭には無くてはならない竹垣である。

創作垣

創作垣
四つ目垣を基調とし、金閣寺垣の特徴も加味した丈夫な透かし垣である。

まあ、垣根一つでも色々あるものです。

また、冬ならではのこんなものもありました。

雪吊り(江戸南部式)

雪吊り(江戸南部式)
吊り縄(い草で編んだ縄)を枝に結束せず、シュロ縄の縁に結束する方法で装飾性を重視した雪吊り技法である。

雪吊り(兼六園式)

雪吊り(兼六園式)
雪の重みで枝折れしないように荒縄で直接枝に結束する、最も古く実用的な雪吊り技法である。
(上記はすべて現地案内板説明文より)

ということで、何となく正月らしい雰囲気が漂ってきた感じが、しませんかね!?

徳川慶喜墓所

生垣を見物していると「徳川慶喜墓所」の道標があったので、時間も気になりながらも立ち寄ってみることにしました。
墓地のなかを進むと、広い塀に囲まれた地区に突き当たります。ここが「徳川慶喜墓所」のようで、グルッと一周しなければならないようです。

徳川慶喜墓所 途中、墓所内が見える塀があったので、そこから写真を撮っていると、「脇から写真は撮ってはいけない」という注意の声があったので、訳もわからずとにかく墓所の入口に向かってみました。

徳川慶喜墓所碑 角に「徳川慶喜公墓所」と刻まれた石碑が立っています。

墓所の前には人だかりがあり、ボランティアらしき方が説明をするところのようです。
まずは、墓所前にある案内板です。

東京都指定史跡 徳川慶喜墓
所在地 台東区谷中7-2 寛永寺墓地内
指定 昭和44年3月27日
徳川慶喜(1837から1913)は、水戸藩主徳川斉昭の第7子で、はじめは一橋徳川家を継いで、後見職として将軍家茂を補佐しました。
慶応2年(1866)、第15代将軍職を継ぎましたが、翌年、大政を奉還し慶応4年(1868)正月に鳥羽伏見の戦を起こして敗れ、江戸城を明け渡しました。
復活することはなく、慶喜は江戸幕府のみならず、武家政権最後の征夷大将軍となりました。
駿府に隠棲し、余生を過ごしますが、明治31年(1898)には大政奉還以来30年ぶりに明治天皇に謁見しています。明治35年(1902)には公爵を受爵。徳川宗家とは別に「徳川慶喜家」の創設を許され、貴族院議員にも就任しています。大正2年(1913)11月22日に77歳で没しました。
お墓は、間口3.6m、奥行き4.9mの切石土留を囲らした土壇の中央奥に径1.7m、高さ0.72mの玉石畳の基壇を築き、その上は茸石円墳状を成しています。
平成22年3月 建設 東京都教育委員会
(現地案内板説明文より)

徳川慶喜墓所徳川慶喜墓 墓所を眺めてみると中央に大きな墓が2基あります。
左側が慶喜公で、右側が正室・美香子の墓だそうです。

墓の形式は円墳のようで、伊藤博文や北原白秋などの墓もこの形式のようです。
天皇家に恭順しているという姿勢を著すために、仏式ではなく神式の墓を遺言していたようです。流石に明治・大正・昭和天皇稜の上円下方墳では畏れ多いので円墳としたかどうかは判りませんが、いずれにしても反旗は翻さないぞというあらわれでしょう。

慶喜墓所のある場所周辺は、谷中霊園ではなくあくまで寛永寺墓地になります。
本来なら徳川家の墓所に埋葬されるのでしょうが、神式ということもあり、更に「徳川慶喜家」が許されていることから徳川宗家とは別の墓所となったのでしょう。

現在、徳川家の歴代の将軍の墓所(霊廟)は、慶喜公を別として4ヶ所です。
家康はご存知、久能山東照宮及び日光東照宮で、2代目の秀忠以下、6、7、9、12、14代目は増上寺です。3代目の家光は日光・輪王寺で、4代家綱以下、5、8、10、11、13代目は寛永寺となります。
このうち8代の吉宗以降は倹約のため、大規模な霊廟は建設されず、寛永寺か増上寺のいずれかの霊廟に合祀され宝塔が建立されたのだそうです。
因みに増上寺には2代目秀忠の正室・崇源院の霊廟もあり、今年の大河ドラマ「江」で話題になっているので、要チェックかもしれません。
このように慶喜公は徳川宗家とは一線を引いているのですが、この慶喜公の墓所のある場所は、谷中霊園ではなく、あくまで寛永寺の墓地ですから、やはり当然徳川家なのです。

慶喜側室の墓:右:新村信、左側:中根幸の墓 慶喜墓の後ろにある2つの墓が、慶喜側室の墓で、右側が新村信の墓で、左側が中根幸の墓です。

慶喜と正室の間には子供が無かったので、側室との間に子供を残したようです。新村信とは5男5女、中根幸とは6男7女で、死産を除くと10男11女という・・・、恐るべし慶喜公といったところでしょうか。

徳川慶喜 長男・敬事夫妻の墓 墓所左手手前には、その長男・敬事夫妻の墓があります。

慶喜、子・孫等の墓 慶喜一族の墓 そして奥や周りに子供や孫たち、所謂慶喜一族の墓が祀られているのです。

時間軸を縦軸にとって見ると実に面白いことがわかります。
慶応2年(1866)年、14代将軍徳川家茂が後嗣なく死去した際、家茂の近臣および大奥の天璋院や御年寄・瀧山らは家茂の遺言どおり徳川宗家に血統の近い田安徳川家の家達を相続に望んだのですが、わずか4歳という年では、という理由と、静寛院宮、雄藩大名らの反対により一橋家の徳川慶喜が15代将軍に就任したのです。
慶喜が将軍として在職したのは、翌年、慶応3年の大政奉還僅までの1年足らずでした。大政奉還後は蟄居・謹慎はもとより、海舟らの動きが無ければ命さえあったかどうか判らないような立場に置かれ、更に新政府からは朝敵という目にさらされていたのです。
慶喜がそんな踏んだり蹴ったりのような立場にあった時、江戸城開城を経た慶応4年(1868)、新政府から慶喜に代わって家達に徳川宗家の相続を許可されていたという驚くべき事実があったのです。そしてその年の5月には駿河藩主として70万石を与えられ、11月には明治天皇に拝謁しているのです。
最終的に慶喜も公爵や貴族院議員として復権を果しているのですから、結果は善しとするべきなのでしょうが、運命のあやで慶喜のほうがどちらかと言えば貧乏くじを引かされたことになっていたかもしれませんね。

慶喜の10男・精の墓 そして慶喜墓所の直ぐ目の前には、慶喜の10男であった精(くわし)の墓があります。

この精は、勝海舟の早世した嫡男小鹿の娘・伊代子の婿養子(海舟からみて孫に当たる)となり、伯爵号を継いでオリエンタル写真工業、浅野セメントなどの重役を歴任したそうです。
家庭的には1男5女をもうけたそうですが、妻は早逝し、妾をつくり大いに遊んだそうです。その後、その妾と心中したようです。
このように、勝海舟の跡継ぎながら墓所に一緒に入らなかったのは、幕臣の養子となった悔しさからだったとも言われているそうです。
最も、海舟自身の妻も、晩年の海舟の身勝手に嫌気がさしたのでしょうか、海舟と同じ墓には入れないで欲しいという伝えもあるそうで、事実最初はその遺言に従い青山にある勝家の墓地に埋葬されたのですが、昭和28年に流石に対面的等もあったのでしょう、海舟が眠る洗足池に改葬されたそうです。

まあ、人生色々ですが、金に困らなかったのはうらやましい限りで・・・。

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