台東区散策 #5

谷中霊園を抜けて次なる目的地は6つ目の七福神である大黒天が祀られている「護国院」です。
広大な谷中霊園から、まさに上野らしい上野公園方面に向かいます。 古きよき面影を残しながらも、賑わいのある町で、歴史と文化の町そのものといえるでしょう。

護国院 大黒天

谷中霊園の中央園路を真直ぐ進んでくると、上野桜木という言問通りとの交差点に到着します。
その交差点の角に案内板が立っていました。

旧吉田屋酒店
下町風俗資料館付設展示場 台東区指定有形民俗文化財
台東区上野桜木2丁目10番6号
かつて谷中6丁目の一角にあった商家建築。吉田屋酒店は江戸時代以来の老舗であった。旧店舗の建物が台東区に寄贈され、明治から昭和初期にいたる酒屋店舗の形態を後世に遺すため、昭和62年(1987)移築復元して、当時の店頭の姿を再現、展示している。平成元年には、一階店舗と二階部分及び道具・文書類が台東区指定有形民俗文化財となった。
棟札によれば、明治43年(1910)に新築して、昭和10年(1935)に一部改築したもの。正面は一、二階とも出桁造りで商家特有の長い庇を支え、出入り口には横長の板戸を上げ下げして開閉する揚戸を設け、間口を広く使って販売・運搬の便を図った。一階は店と帳場で、展示している諸道具類や帳簿などの文書類も実際に使用されていたもの。帳場に続く階段をのぼると、三畳半と八畳の部屋があり、店員等が使用していた。向かって右側の倉庫部分は、外観のみを明治43年の写真に基づいて復元した。店舗後方の和室部分は構造的補強の必要から増設したものである。
平成16年3月 台東区教育委員会
(現地案内板説明文より)

旧吉田屋酒店 時間も余り無いことなので、中での見学はスルーですが、こう言った見所は沢山あるのでしょうね。
スタッフの方なのか、外の椅子でのんびりしているのが印象的でした。

交差点を更に真直ぐ進むと東京芸大のある交差点に到着し、その交差点を右に進めば6つ目の七福神のある「護国寺」に到着です。
護国院山門 門松が立っている山門が、やはり正月の風情を醸し出しています。

護国院 神楽殿 それほど広くは無い境内で左側に神楽殿、そして右側が庫裏という配置です。

境内の案内板です。

護国院
護国院は、天海の弟子生順が、釈迦堂の別当寺として、現在の東京国立博物館の右手裏に開創した。承応2年(1653)・延宝8年(1680)に寺地を西方へ移転し、さらに宝永6年(1709)現在地に移った。延宝8年・宝永6年の移転は、それぞれ四代将軍家綱霊廟・五代将軍綱吉霊廟の建立にともなうものである。また、昭和2年、第二東京市立中学校(現、都立上野高校)建設にともない、本堂を現在の位置に移した。
現存する本堂は釈迦堂とも呼ばれ、享保7年(1722)3月の再建。間口7間(18.2メートル)、奥行5間(13.6メートル)。唐様の建築で中央奥の須弥壇に本尊釈迦三尊坐像を安置する。また、大黒天画像は三代将軍家光から贈られたものと伝え、谷中七福神のひとつとして信仰をあつめている。
庫裏の一階部分は、昭和2年の新築。東京美術学校(現、東京藝術大学美術学部)教授岡田信一郎の設計で、各間取りは機能的に配置されている。昭和初期の住宅建築の風潮を良く伝えており、平成13年、国登録有形文化財に指定された。
岡田は、東京美術学校・早稲田大学で設計教育に携わるかたわら、旧鳩山一郎邸(大正13年竣工)・歌舞伎座(同年竣工)等を手がけ、和風建築の設計に手腕を発揮した人物である。
平成14年3月 台東区教育委員会
(現地案内板説明文より)

江戸から昭和へと実に奥の深い歴史を秘めているようです。
護国院 本堂 早速、本堂でお参りです。実にドッシリとした、さすがに約300年近くの歴史を誇る風格ある本堂です。

護国院 大黒天 護国院 大黒天 七福神は本堂の中なので早速本堂に上がりました。
誇張や衒いのない非常にすっきりとした綺麗な大黒天です。

大黒天画像 そしてその後ろにある厨子の中に見える大黒天画像が3代将軍家光から贈られたものといわれる画像です。

そもそもこの「護国院」は寛永寺の子院で、正式名称が「東叡山護国院大黒天」というくらいですから、徳川家の繋がりが深いことも頷けます。
確固たる証拠、記録があればこの画像も文化財となるのでしょう、きっと。

釈迦三尊坐像 その上にあるのが、この本尊である釈迦三尊坐像です。

本堂内で朱印をいただきましたが、ここで谷中七福神の由来について知ることができました。

七福神のお話
江戸時代から、正月に七福神詣でといって、不忍池の弁才天・上野護国院の大黒天・谷中天王寺の昆汐門天・谷中長安寺の寿老人・日暴里修性院の布袋和尚・日暮里青雲寺の恵比須・田嶋東覚寺の福緑寿の七福神に詣でることが盛んに行われ、別に山の手七福神・向島七福神へ詣でることも行われるようになりまLた。
七福神の芽由度いお姿は広く全国の人々に喜ばれていますが、これらの神様を福の神として尊崇した七福神の創設者が上野東叡山の開祖慈眼大師天海僧正であった事は、余り世間に知られていないようです。天海僧正は経典(仁王経)の七難印減・七福印生の文に基いて、七つの神々の各々の御徳をお授け頂いて我々が益々幸福な生活が得られるようにと御思召されて七福神の信仰をお勧め下さったのです。
天海僧正が初めて家康公と会見されたとき、公は後に天下を治め給う福徳を具えた吉相をお持ちだと申し上げましたが、果してその予言は適中、家康公は征夷大将軍の栄職に就かれました。
後年、天海僧正は家康公と種々御物語があった時「公の御生涯は全く長寿・富財・人望・正直・愛敬・威光・大量の七福を具え給うにより、困難な天下統一の大業を完成され、平和な国土を築かれたが、これは神様で申し上げると丁度寿老人の長寿・大黒天の富財・福禄寿の人望・恵比須の正直・弁才天の愛敬・毘沙門天の威光、布袋の大量の御徳を表わしたものと云うべきである」と申L上げましたので、家康公は大層お悦びになり、早速狩野法眼探幽を召されて七福神の絵を画かれて尊崇されました。これが七福神誕生の起源であるとされています。
探幽の画いた七福神は忽ち評判となり、全国に模写して宣伝され、芽出度い宝船に乗った縁起のよい七福神は世人の最も喜ぶところとなって、絵画は勿論彫刻や陶器に至るまで作られ普及されるようになりました。宝船に一緒に集めたのは私どもの一身の上に七徳が具わることを現したものでありましょう。社会の荒波がいかに狂うても、七福の徳を具備すれば愉快に此の世を渡り、目的地に進むことが出来るのです。
印度で信仰された大黒天・弁才天・昆沙門天に中国の寿老人、福禄寿や布袋和尚も加わり日本の恵比須神も共に組合わされて七福神として信仰する者が多くなりましたが、この七徳は人生に欠くことの出来ない要素であるので御利益を願うことが益々盛んとなったのです。
皆様方も七福神がそれぞれお持ちの七福徳を一身に具え、明るい楽しい生活を送りましょう。
東叡山護国院
(「護国院」七福神のお話 パンフレットより)

天海僧正とは、あの明智光秀と同一人物ではないかという都市伝説のある南光坊天海にことですね。意外な由来が判明したものです。
そこで天海僧正のプロフィールを見てみます。

天海僧正  1536-1643 (天文5年から寛永20年)
【天台宗の僧】 家康の日光山改葬、上野寛永寺創建を具申、黒衣の宰相と呼ばれた。
天台宗の僧。陸奥国に生まれ、比叡山・園城寺などで修行した。関ヶ原の戦い後、徳川家康の帰依を受け、幕府の宗教行政に参画。二代将軍秀忠のとき、家康の遺骸を日光山に改葬、また上野に東山寛永寺を江戸の鬼門鎮護の目的で建立した。不忍池は琵琶湖に見立てられ、弁天島が置かれた。三代家光のときには、目黒不動をはじめ、五色不動を指定するなど、さらにその権勢をふるった。黒衣の宰相と呼ばれた。
(Weblio辞書「江戸人物事典」より)

寛永寺や弁天島、更に五色不動などに関わっていることから、七福神もさも在りなんでしょう。そうなれば、江戸で最古の七福神巡りというのも信憑性のある話です。

江戸名所図会?正月三日 大黒講 この様な由緒の「護国院」ですから、江戸名所図会でも正月三日 大黒講として描かれています。

キャプションによると、毎年1月3日には多くの人たちが護国院の大黒天を参拝していて、この日は供物の鏡餅を湯に浸した御福の湯を参拝者に出していたようです。

護国院 庫裏 最後に、案内板にあった庫裏をホンの触りだけ見てみましたが、戸一枚にしても凝ったデザインがされています。
内部は更に興味深いつくりなのでしょうね。

鴎外温泉

「護国院」をでていよいよ最後の七福神・弁才天のある弁天堂に向かいます。

鴎外温泉 水月ホテル鴎外荘 上野公園沿いをしばらく歩いていると、「鴎外温泉」なる看板が目に入りました。
いきなり「鴎外温泉」といわれても戸惑を隠せませんが、名称は「水月ホテル鴎外荘」という温泉宿のようです。

森鴎外旧居跡 エントランスに案内板が立てられています。

森鴎外旧居跡
台東区池之端3丁目3番21号
森鴎外は文久2年(1862)正月19日、石見国津和野藩典医森静男の長男として生まれた。本名を林太郎という。
明治22年(1889)3月9日、海軍中将赤松則良の長女登志子と結婚し、その夏に根岸からこの地(上野花園町11番地)に移り住んだ。この家は、現在でもホテルの中庭に残されている。
同年8月に『国民之友』夏季附録として、『於母影』を発表。10月25日に文学評論『しがらみ草紙』を創刊し、翌23年1月には処女作『舞姫』を『国民之友』に発表するなど、当地で初期の文学活動を行なった。一方、陸軍二等軍医正に就任し、陸軍軍医学校教官としても活躍した。
しかし、家庭的に恵まれず、長男於菟が生まれた23年9月に登志子と離婚し、翌10月、本郷駒込千駄木町57番地に転居していった。
平成15年3月 台東区教育委員会
(現地案内板説明文より)

森鴎外旧居跡 それにしても石碑に電飾看板、そしてキャプション案内板と随分と宣伝しまくったようですが、その分目に付きやすいのも事実です。

この旧居では「舞姫」を執筆した部屋があり、文学碑などが置かれているようです。
鴎外ファンなら一度は訪れたいところなのでしょう。

上野動物園モノレール 更に上野公園沿いを歩いていると、やっと上野動物園のモノレールが見えてきました。
久しぶりに見るモノレールが随分と綺麗になったのですね、っていつの時代と比較しているのでしょうか。

いよいよここからがラストスパートです。

不忍池弁天堂 弁才天

途中、寛永寺などまだまだ見所は無尽蔵にあるのですが、時間と疲労で流石に寄れません。ここは只ひたすら最後の弁天堂を目指します。
やっとのことで弁天堂に到着しました。

東叡山寛永寺弁天堂 弁天堂への参道口には東叡山寛永寺弁天堂と刻まれた標柱がありますが、これ自体結構古そうな標柱です。

不忍池石碑 参道の途中には不忍池と刻まれた大きな石碑があります。

弁天堂 そのの先を見渡せばさすが正月で、結構な参拝客の列。日暮れにも近づき、大分寒くなって来たこともあり、文句を言っても始まらないので兎に角何も考えずに並びます。
10、15分ほど並んでやっと参拝となりました。

弁天堂 弁才天 弁天堂 弁才天 本尊の弁才天を拝見すると、大分遠めなのではっきりはわかりませんが、黒光りした、かなり厳つい感じの像で、あの艶っぽい弁才天とはかなりかけ離れたイメージです。

それでも無事七福神を廻り終えることができました。
お堂の前で最後の朱印をいただいて、谷中七福神巡りは終了です。

谷中七福神 ご朱印 これがその七福神朱印の台紙です。見事に7つの朱印をいただきました(って、当たり前でしょう)。

谷中七福神記念スタンプ ついでに無料の記念七福神スタンプも見事に・・・、終了できませんでした。
最初の「東覚寺」で無料スタンプがあることを知らなかったため、「東覚寺」の分だけスタンプがありません。
これも良い思い出ですね。

七福神巡りが終わってから、やっと弁天堂を散策する余裕が生まれ、先ずは案内板があることに気付きました。

弁天堂
台東区上野公園2番
寛永2年(1625)天海僧正は、比叡山延暦寺にならい上野台地に東叡山寛永寺を創建した。不忍池は、琵琶湖に見立てれられ、竹生島に因んで、常陸(現茨城県)下館城主水谷勝隆が池中に中之島(弁天島)を築き、さらに竹生島の宝厳寺の大弁才天を勧請し、弁天堂を建立した。
当初、弁天島へは小船で渡っていたが、寛文年間(1661から72)に石橋が架けられて、自由に往来できるようになり、弁天島は弁天堂に参詣する人々や行楽の人々で賑わった。
弁天堂は、昭和20年の空襲で焼失し、昭和33年9月に再建された。弁天堂本尊は、慈覚大師の作と伝えられる八臂の大弁才天、脇士は毘沙門天、大黒天である。
本堂天井には、児玉希望画伯による「金竜」の図が画かれている。また、本堂前。手水鉢の天井に、天保3年(1832)と銘のある谷文晁による「水墨の竜」を見ることができる。
大祭は、9月の巳の日で、巳成金という。
平成10年3月 台東区教育委員会
(現地案内板説明文より)

やはりここでも日本人の大好きな日本三大弁才天というものがあり、天河大弁財天社(奈良県天川村)、宝厳寺(滋賀県竹生島)、大願寺(広島県宮島)が三大弁天と言われており、元来、インドの河神であることから、日本でも水辺、島、池など水に深い関係のある場所に祀られることが多いそうです。
但し、異論もあるようで江島神社(神奈川県江ノ島)を、天河大弁財天社の代わりに三大と呼ぶこともあるようです。

さてここで弁才天の漢字の書き方ですが、弁才天の「才」と書く場合と、弁財天の「財」と書く2通りがあります。そもそもは言葉(弁が立つの弁)の才能に優れた神と言う意味で弁舌、学芸、智恵の女神として弁才天と書かれて信仰されました。しかし、七福神が人気を博し七福神詣でが流行りだすと弁才天の役割は変化するのです。
縁日の巳の日に弁才天にお参りし、お札を貰うと財産を得ることができると宣伝され、今度は蓄財の神として信仰するようになります。そうなると雰囲気をあわせるために「弁財天」と書くようになったそうです。
この蓄財の神をよく表しているのが銭洗弁天で、弁財天に参詣してお金を洗うと財産の増殖に利益があるという、弁財天の水神の性格と蓄財の性格が上手く結びついたと考えられているのですが、何故その様な信仰が生まれたのかは謎のようです。
いずれにしても八本の腕(八臂)で、人々に弁才、無尽の智恵、財宝、延命を与え、さらに悪夢・邪気・呪術・鬼神などの人を惑わすものどもを排除し、病苦や疾病、闘争などからも遠ざけるという神なのです。

このような案内板はやはりちゃんと先に読んでおくほうが良いようで、本堂天井の「金竜」の図には全く気が付きませんでした。今更再び並ぶのも・・・。
「金竜」の図 後に見ると僅かに一部が写っている写真がありました。かなり迫力がありそうな絵だと思えます。

児玉希望は1971年没なので、かなり最近の画家のようで1970年に勲三等旭日中綬章を受章しているくらいなので、かなり絵画界に貢献された方なのでしょう。

「水墨の竜」 もう一つの手水鉢の方は見ることができましたが、光の関係か、はたまた絵自体が薄れているのか、写真でははっきり写せませんでした。

こちらの谷文晁も名のある画家のようで、江戸時代後期の江戸南画(文人画)の大家で、上方の円山応挙、狩野探幽とともに徳川時代の三大家に数えられるほどであったそうです。
江戸下谷根岸の生まれで、晩年は御絵師の待遇を得たことから剃髪し僧侶となったのです。

弁才天琵琶石碑 そして案内板の反対側には、やはり弁天堂らしく、お堂前には琵琶の碑が建立されていました。

不忍池 弁天堂の左手側が有名な不忍池の蓮池です。

江戸名所図会忍ばずの池 中島弁財天社 この弁天島も江戸名所図会では忍ばずの池 中島弁財天社として全景が描かれていますが、この頃はもう橋が架けられた後の時代のようです。

江戸名所図会不忍池 蓮見 島の周りを囲むように並んでいる建物は茶屋でしょうか、こちらは同じ図会に不忍池 蓮見としても描かれています。

図会には、ここは江戸で一番の蓮の名所で、夜明け前から蓮の開花を待ち、明け方に花が開いてから蓮葉飯を賞味して散会するのが、江戸の粋であると書かれています。

江戸名所図会錦袋円 更に図会では錦袋円としても描かれています。

錦袋円とは了翁道覚と言う高僧が夢枕で告げられた薬のことで、すばらしい効能の薬だったようです。
これを蓮池の先に見えるビル群のあたりの池之端に構えた店舗で販売したところ、好評を博し寛文10年には3,000両を蓄えるまでになったそうです。
弁天堂 この売上を元に大蔵経(天海版大蔵経6,323巻)を購入し、不忍池に小島(経堂島)を築き、そこに2階建の経堂を建てて大蔵経を納めたのだそうです。まさに弁天堂は江戸の名所中の名所といっても過言ではないようです。

こうして、今回の谷中七福神巡りは終了しました。
PM4:00すこし前ですが、AM10:00から始めた七福神巡りで6時間かけたことから、流石に疲労は隠せませんでしたが、同時に充実感で満たされた気分でもありました。

上野公園

弁天堂からは上野公園を通って上野駅から帰宅します。
彰義隊の墓 上野公園内をブラブラと歩いていると「彰義隊の墓」があります。これは初めて見ました。

彰義隊の墓(台東区有形文化財)
台東区上野公園1番
江戸幕府15代将軍徳川慶喜は大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ戻った。東征軍(官軍)や公家の間では、徳川家の処分が議論されたが、慶喜の一橋家時代の側近達は慶喜の助命を求め、慶応4年(1868)2月に同盟を結成、のちに彰義隊と称し、慶喜の水戸退隠後も徳川家霊廟の警護などを目的として上野山(東叡山寛永寺)にたてこもった。
慶応4年5月15日朝、大村益次郎指揮の東征軍は上野を総攻撃、彰義隊は同夕刻敗走した。いわゆる上野戦争である。彰義隊士の遺体は上野山内に放置されたが、南千住円通寺の住職仏磨らによって当地で荼毘に付された。
正面の小墓石は、明治2年(1869)寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋葬したものだが、後に掘り出された。大墓石は、明治14年(1881)12月に元彰義隊小川興郷(椙太)らによって造立。彰義隊は明治政府にとって賊軍であるため、政府をはばかって彰義隊の文字はないが、旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の字を大きく刻む。
平成2年に台東区有形文化財として区民文化財台帳に登載された。
平成8年3月 台東区教育委員会
(現地案内板説明文より)

最後に今日一日のまとめのような彰義隊の墓です。
「経王寺」の銃弾跡、徳川慶喜、そして護国院など、七福神めぐりながら、やはり谷中・上野は江戸時代の文化の中心であると共に、幕末における徳川幕府終焉の地とも言えるでしょう。

西郷隆盛銅像 そんな歴史を最後に締めくくるのがやはりこの人でしょう。

近代国家への第一歩を導いた人、それが上野公園の西郷隆盛像です。上野山のシンボルとして、常に寛永寺の徳川家と対峙しているのでしょうか・・・。
江戸時代の香りが至る所に残っているような、谷中七福神でたっぷり江戸を味わいました。

2011.01.20記

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