江戸の知識人も招かれた「聚正義塾」

概要

氷川鍬神社は、かつては上尾駅東口に降り立つと境内の木立が望見できたが、現在ではビルの陰になってしまっている。それでも駅から200メートルも歩いて行くと、喧騒の中の静寂空間に木立が見えてくる。
氷川鍬神社は、明治末期の神社の合祀以後の社名であり、古くは御鍬太神宮(おくわだいじんぐう)と称されていた。一般には「お鍬さま」と呼ばれ親しまれているが、江戸初期の万治のころ(1658から61年)創建されたともいわれる。伝承によると、3人の童子が鍬2挺と稲束を持ち、白幣(はくへい)をかざし踊り歩いて上尾宿に来て、童子たちはいずこにか消え失せたが、残された鍬を本陣の林宮内(くない)が祭ったという。まことに楽しい心温まる話であるが、宮内は幕末の人で、本陣の当主は林八郎右衛門であろう。童子の残した白幣を神幣(みてぐら)として納め、「群参(ぐんさん)日を追ておびただし」と伝承は伝えている(『新編武蔵風土記稿』・『御鍬太神宮略由来』)。

御鍬太神宮は上尾宿の鎮守でもあるが、境内には天満宮も祭られている。鳥居をくぐって参拝すると、右手に市指定文化財の「上尾郷二賢堂(にけんどう)碑記」と「雲室上人生祠碑頌(うんしつしょうにんせいしひしょう)」が建立されているのが目に付く。これが、江戸時代の小さな宿場町にしては極めてハイレベルな学びの場を提供した、かつての郷学の跡地であったことを証している(『上尾の指定文化財』)。

この地に創設された「聚正義塾(しゅうせいぎじゅく)」は、天明8(1788)年に江戸で名の知られた学僧雲室上人を招いて開かれている。聚正義塾の堂舎は、宿内や近村の人々が資材を持ち寄り、労力を提供して建てられ、朱文公(しゅぶんこう=朱子)と菅公(かんこう=菅原道真)を祭ったところから「二賢堂(にけんどう)」と称されている(地元では「じけんどう」とも言う)。当時江戸の昌平黌(しょうへこう)の主宰者である林大学頭信敬(はやしだいがくのかみのぶたか)が、「二賢堂」という扁額(へんがく)を記しているが、開講日には、昌平黌の都講(とこう)(塾頭)で文人として高名な市河寛斎(いちかわかんさい)も招かれている。寛斎は門人の小島梅外(こじまばいがい)を連れて上尾に向かうが、このとき「雨夜上尾道中(あめのよのあげおどうちゅう)」という漢詩を記している。詩には「蕎花爛●野田秋(きょうからんまんたりやでんのあき)」と、美しい道中の風景を詠んでいる(『上尾市史』第3巻収録の『雲室随筆』、『江戸詩人選集』第5巻)。

多くの著名な知識人の援助のあった聚正義塾であるが、雲室は3年ほどで江戸に去り、後は地元の文人でもあった山崎碩茂(せきも)が引き継ぐことになる。それにしても、郷学ともいえる公立的な学校が運営されたことは、地元の人々が教育熱心であったからであろう。
(上尾市Webサイトより)

◆氷川鍬神社 : 上尾市宮本町1-14 《所在地地図

氷川鍬神社

011hikawakuwa007.jpg 011hikawakuwa008.jpg 【氷川鍬神社境内】

氷川鍬神社(由来書)
氷川鍬神社は「武蔵国足立郡御鍬太神宮畧来」によると、百九代明正天皇の御代、寛永九年(1632)の御創立と伝えられます。
御祭神は豊鍬入姫命・稲田姫命・菅原道真公・木之花咲耶姫命・應神天皇の神で豊鍬入姫命は悩める人苦しむ人の胸中を知りその人のため救いの手をさしのべて下さる神であり、疫病よけ、招福、豊作の神であります。
稲田姫命は須佐之男命の御妃で限りない慈しみと深い母性の愛を表わされる神であり、菅原道真公は学問の神として、木之花咲耶姫命は浅間さまの神さまで、大山紙神という尊い神さまの御子神さまです。應神天皇は文化神としてのご神徳を持っておられます。
氷川鍬神社は上尾宿総鎮守として広く世人の崇敬を集めた古社であり、通称「お鍬さま」と呼ばれております。
氷川鍬神社の名称になったのは明治四十一年(1908)の神社合祀以降のことで、それより以前は「鍬大神宮」という社名であった。
御祭事
歳旦祭 1月1日  節分祭 2月3日  祈年祭 2月25日  初登山祭 7月1日  例大祭 7月15日  新穀感謝祭 11月23日  七五三祭 11月  除夜祭
平成11年3月吉日建之 宮司』

011hikawakuwa002.jpg 011hikawakuwa001.jpg 【社殿と拝殿内】

氷川鍬神社・文化財

011hikawakuwa006.jpg 【上尾郷ニ賢堂跡】

『上尾市指定史跡 上尾郷ニ賢堂跡  上尾市宮本町1?14 氷川鍬神社 昭和34年1月1日指定
「ニ賢堂」(通称「じけんどう」)は、天明八年(1788)、学僧の雲室上人が上尾宿(現在の氷川鍬神社境内)に開いた郷学ともいえる「聚正義塾」の学舎の名称です。雲室が、当時親交のあった林大学頭信敬らと相談して、中国の南宋の大儒朱文公(朱子)と、わが国の学問の神様とも言われる菅原道真の二人の賢人を祀る意味から、「ニ賢堂」と名付けたものです。
雲室は、信濃国飯山(長野県飯山市)出身の当時有名な学僧で、江戸の多くの文人たちとも交流がありました。雲室が上尾宿で開塾したのは、学友の石井永貞と、その弟子に当る上尾宿の山崎武平治碩茂の強い勧めがあったためです。
聚正義塾の学舎は、山崎碩茂ら上尾宿や近隣の村の人々の資金と労力によって建てられ、その意味では、私塾とは異なる郷学の性格を持っていました。雲室は、四年ほどで上尾を去りますが、その後山崎碩茂が引き継いでいます。塾は、文政九年(1826)に席もがなくなった後も続けられたといわれています。
現在も氷川鍬神社に残る、林大学頭信敬筆の「二賢堂」の扁額、そして境内の「上尾郷ニ賢堂碑記」「雲室上人生祠碑頌」とあわせて三件が、上尾郷ニ賢堂跡を物語っています。
平成11年6月18日 上尾教育委員会』

氷川鍬神社・その他

011hikawakuwa004.jpg 011hikawakuwa003.jpg 011hikawakuwa009.jpg 【左:浅間大神、中:聖徳太子像碑、右:手水舎】

手水舎の手水鉢には、元禄八年(1695)の年号と、上尾町 山崎武右門 と寄進者の名前が刻まれていて、上尾の地名が残る一番古い石造物といわれています。 

2009.4.7記
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