「ウィリアム・バロウズ」という人気のこと

これまでにバロウズの人となり、人生、及び作品などを大雑把には把握できた。
それを鑑みると、バロウズの作品と言うのは多くの読者にとっては、ほとんど理解できない、いや、それ以上に読んでいない(読みきっていない)場合が、ある意味普通だと言うことだ。
理解できない、或いはほとんど読んでいない小説、及びそれを創作する小説家が根強い人気を持っているとは実に不思議なことである。したがって裏を返せば、小説以外に人気の秘密があると考えるのが自然であろう。
その人気の秘密の1つが、”文のスタイル”であり、もう一つが”ライフスタイル”だといわれている。

バロウズ作品における”文のスタイル”の特徴的なものといえば、「カットアップ」や「フォールドイン」である。
「カットアップ」とは、適当に本や新聞を選んでそれを縦横に切って並べ替え、できた文をそのまま使ってしまう技法だ。「フォールドイン」というのは、そのうち切るのさえ面倒になってきて、そこらにある字の書いてある紙を折って(フォールドして)並べてすませようという技法である。
実際にカットアップ三部作を読めばわかるのだが、ここでカットアップで作品を作ってみることしよう。
ネットには様々なソフトが煌いているのだが、その中にカットアップをするプログラム”ドクター・バロウズ”と言うのがある。これを使って試みようと言う事である。最近のニュースをカットアップする。

『実質経済成長率の季節風が強に波及---東京・台東区内の誕生する路上男性会社員を---実現すれば国内で最大の乗用車を運転中---午前10時59分取得株の割合大幅に逮捕---最大瞬間風速15パナソニックって国内景気の先行まで---09年度7月時点の1・2%大麻---不透明感が著に波及しはねて軽傷を---われ季節風が警視庁浅草署合意を目指す---米国発の気圧配置が世界的観測から---国内景気の先行を固め西高東低の冬型---清水容疑者によると東京で5メートルの軽傷の風を記録』

”ドクター・バロウズ”によるとこんな感じだ。まあ、こんなもんだが、意外と結構面倒臭い代物かもしれない。
このカットアップをバロウズに教えたのが、前述したブライオン・ガイシンだが、このカットアップは所謂、サブリミナル効果をもたらすとガイシンは言っている。
例えば、『裸のランチ』を酷評する書評「同性愛と麻薬中毒者の醜悪な世界を漫然と描いた死ぬほど退屈な本」といったような文をカットアップすると、「麻薬は醜悪」「同性愛は死ね」といった文があらわれて、それが実は書評者のサブリミナルな主張をあらわし、そして実際に書評を読む人にとっては、文の表面上の意味よりもそうしたサブリミナルなメッセージこそが伝わるのだそうだ…ということにしよう。
だが、バロウズの考え方は少し違うようである。

一つは芸術的概念からのアプローチで、文脈に囚われていた言葉や文章を伝統的な文法などの縛りから解放し、自由にすることであったということ。
もう一つは精神的概念からで、「現実」に潜む意図をカットアップによって独自に書き換え、再構成することで、この現実も変えるということである。
そもそもバロウズの理論として、「現実」というものがあらかじめ録音された何かを再生したものにすぎないと考えた理論である。当然ながら、この録音を書き換えれば現実も書き換えられることになる。
そこで、ガイシンは同じ文をカットアウトしていたが、バロウズは世の様々な文をカットアップすれば、この現実を録音した、この世界を録音した、「著者」(体制や支配層などをイメージする)の意図を暴露できるのでは内科と考えたわけである。
結局のところ、これはバロウズにどうしても書き換えたい記憶(録音)があったということに他ならない。その書き換えたい記憶とは「妻殺害」では無いかと推測するのである。
バロウズにとっての「妻殺害」は、作家として、カットアウトの技法の活用の両者を決定付けた(殺害というそれ自体の重大さは当然として)重要なファクターであったといえる。

もう一つのライフスタイルについて本書では、以下のように主張している。

『そこそこよい血統の出身。ハーバード大学で教育を受け、その後は定職にいっさいつくことなく、世界中をふらふらと巡って過ごす。その過程で麻薬中毒となり、この世のありとあらゆるドラッグを試しつくしただけでなく、究極のドラッグを求めてアマゾンのジャングルにまで旅をしてしまう。
親の仕送りのおかげで最低限の生活は保障され(クスリに使い果たすことは多かったけれど)、気が向けばウィーンでまた大学院に入り直したりして悠々自適。さらに40過ぎてから、カットアップとかいう、他人の文を切りつなぐだけの一見簡単そうなやり口で小説をでっちあげ、それでビートジェネレーションの代表格にのしあがり、世界の大小説家の一人になってしまう。晩年にはこれまた戸板にショットガンで穴を開けるだけの代物でアーティストも気取る。
ビート時代のニューヨーク、今の香港なんかメじゃないほどいかがわしくておもしろかった(といわれる)国際都市時代のタンジール、60年代のスウィンギング・ロンドン、70から80年代ニューヨークのアンダーグラウンドなど、世界のおもしろい時代のおもしろい場所にはいつのまにかちゃっかり顔を出している。
さらに家庭というものに一切しばられることなく暮らし、ごくはやい時代からホモセクシャルであることを宣言しつつ、一方で結婚を二回もして、子供まで作っている。そのくせ奥さんはうまいこと射殺して、しかも事故ということでうまうまと逃げおおせ、その間のどさくさにまぎれて子供も親におしつけ、親の老後も面倒を見ることなくすませる。
いつの時代にも、適当にボーイフレンドをつくり、あるいはタンジールではお稚児さんをいっぱい買ってはべらせ、しかも60すぎてからも新しい愛人をこしらえては自分の身辺の世話を見させ、最後にはカンサスの田舎に引っ込んで、ここでもどうやらいろいろ若い男の子を身辺にはべらせていた。』

・・・と。

ドラッグや同性愛に関する、そのもの的な存在感は勿論のこと、こうしたモラトリアムとしての生き様、云わばライフスタイル=あえて言うならバロウズ文化が人気を支えているのではないかと考えられる。
ただし、現在におけるモラトリアムとは若干違い、現在とは異なる環境の中で実現されていることは認識しておくべきだと本書では述べている。
つまり、現在よりドラッグや同性愛などの締め付けが厳しい中で表明したことや、妻殺害における家族的価値観の強い時代にあえて逆らうだけの強さがあった、ということを認識しておくべきだと言っているのである。
したがって、バロウズの無責任は、ある意味尊敬に値する無責任であると。
これらの意図するところが、カットアップなどの文体と、モラトリアムを貫徹したライフスタイルの両者の共通点が、その自由さの志向にある事を示している。そして、一方でそれは、他人のことを意に介さない身勝手さでもあるのだ。そんなバロウズの文化ともいえる2つのスタイルが人気の根源といえるのであろう。

関連記事
スポンサーサイト


コメント

    コメントの投稿

    (コメントの編集・削除時に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)


    トラックバック

    Trackback URL
    Trackbacks