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「ウィリアム・バロウズ」という評価のこと

ここまでに、バロウズの人となり、作品、そしてバロウズの人気を確認した。一言で言えば「理解しがたい生物」とでも言おうか。
良いとか悪いとかではなく、私自身におけるちっぽけな人生や経験、思考、感覚をフルに鑑みても、このような生物に出会ったことがないという小さな世界の話である。
モラトリアムで、ジャンキーでおかま。その上、作家だの画家だのの肩書きがついて、挙句の果てに殺人者という滅多にない称号まで得ている。更にそれで居て憎まれもせず、御輿にのせられる傾向。そしてこの種の生物としては、恐れ多くも長寿だなんて・・・
どう考えても居ないでしょう、こんな人。どう転んでも出会わないでしょう、こんな人。どう考えても世の中間違っているでしょう。
それ故、バロウズって言う文化が面白いのかもしれませんが、そんなバロウズが一体全体、他人からどう評価されているのかを調べてみることにしよう。

山形氏曰く、90%は正しいと言っている評価が、1963 年に「タイムズ文芸付録」(Times LiterarySupplement, 通称TLS)に載った“Ugh...” という書評だそうだ。

1.バロウズの文章の多くは長ったらしく切れ目がない。
2.同じようなモチーフ(下水、エクトプラズム、ゼリー、写真、観覧車、ムカデ、サンショウウオ、恥毛など)が何度も繰り返されて、どこを読んでも似たような感触で退屈。
3.バロウズの小説を買ったやつは、読んでない。みんなタイトルと一部の馬鹿な評論家のヨイショ、そして英米での発禁処分につられて買っているだけ。
4.グロい。誉めている人たちは、それが現代アメリカ社会の非道徳性に対する批判なのだというが、舞台はアメリカじゃないところばかりだし、批判(であるはずの)部分とそうでないところと、書きぶりはまったく同じ。
5.フォールドインという手法で、同じ材料を並べ替えて量産するのがすごいというけれど、どの部分も味わいがあまり変わらないのだから並べ替えたって効果は同じ。
6.ブラックユーモアと称されるところも、スカトロ料理が延々と並べられるだけだったりして笑えないんですけど。
7.言論の自由と称してこんなものばっかり出していると、同じ出版社の他の本まで評価が下がるし、いずれ言論の自由自体も疑問視されちゃうので、文壇と称するところはこういうものを出したり誉めたりする前によく考えるように。ダメなものはダメだと言って葬ろう。

「ごもっとも!」と思わず膝を打ちたくなるくらい的を得てるんじゃないかなと素人目にも理解できる内容です。
でも、世の中へそ曲がり(悲しいことに本人はそう思っていないのが世の常)が多いようで、一番多かった反論は、1.に対して検閲の必要悪だの、言論の統制などといった事に関してであったらしいが、どこからどう読んでも、そんなことは言っていないねえ。逆に「こんな本出版していると言論の自由がなくなるよ」って言ってるのではないかな。
言論の自由だ、不自由だはともかく、余りにも的を得てるが故の切羽詰った反論じゃないでしょうか。

そして、本書では、この評論を基にした反論による評価を、5つの切り口で考察している。

1.社会風刺・批判としてのバロウズ
2.マイノリティのカミングアウト作品としての評価
3.テクスト理論を体現した小説としての評価
4.アメリカ小説のオブセッションを体現する小説
5.小説そのものとしての価値の評価

これ等に関して、そうであったり、無かったりと、結局-何とでも解釈が付けられるのが(賛辞であれ批判であれ)バロウズのバロウズたる所以であると考えるのが妥当なではと訳の判らないことを結論とする。
従って私個人としての評価はあくまで、”TLS”評を全面的に受け入れてしまおうと言う安直な思考である。
余談ではあるが、上記1の内容の中で、バロウズではなく山形氏としての記述で非常に面白い部分があったので記しておこう。

『バロウズは、現代社会の醜さを誇張して描き出し、戯画化することによって批判しようとしている。かれの書くものが醜悪でグロテスクなのは現代社会が醜悪でグロテスクだからなのであり、それを率直に描けるだけの勇気を持ち合わせていることこそがバロウズの優れているところなのだ』

それに対して、

『人が首を吊りあって、死ぬときにエクスタシーに達して射精するという話が何の風刺なの? 主人公に途上国のポン引きが声をかける――それは何の戯画なの? バロウズの小説には、いろいろ醜い部分やきたない部分が出てくる。でも、それを社会と対応づけて見るべき必然性というのはどこにあるんだろうか。----(中略)----ゆでミミズ入り透明ラクダの小便スープ――イラクサ添え、オーデコロン漬け日光むしアカエイの切り身――くされ卵の黄身とすりつぶしナンキンムシの辛味ソース付きクランク室ぬきとり油いため後産子牛肉――爆弾ウィスキー漬け糖尿ぬたリンバーガー・チーズ砂糖(『裸のランチ』でのゲテモノ料理の羅列より)・・・・・さて、これは何を批判しているんだろうか? ここは別に、何かを批判しているわけじゃないのね。ある意味でこれは、とってもガキっぽいお遊びの耽溺だと言っていい。小学生が、何かというと「おまえウンコ食べるんだろー」だの「そういうおまえ、しっこ飲んでるだろー、やーい」だの言っては喜ぶように。そういうのに夢中になっているガキは、とても楽しそうではある。ここでのバロウズも、結構楽しそうだ。』

と。実に言い得て妙です。

本書のバロウズ本では、まだまだ様々な角度や深さでバロウズを切り刻んでいる。政治、経済、社会、或いは小説そのものやモチーフ等の面からバロウズを論じている。
ある部分では辛辣であったり、極端な擁護者であったり、色々な思考、分析がなされていると思う。そして現在までのバロウズ批判者や擁護者をある意味切り刻んでいる。これは偏にバロウズを知り尽くしているという自負、或いは、だからこそのバロウズへの敬愛がそうさせるのかも知れない。
結局、作者が言いたかったのはバロウズの「自由」というものが当時において、そしてその経過において、さらに現代において、どのような意味、価値を持っているのかということが、本書を貫くコンセプトであったのではないかと考えます。
許させる自由、許されない自由、或いは不自由等、様々な感じ方もあるだろう。一方で「自由だ」「自由でない」という議論や評論自体が現代社会(特に日本では)で必要性が薄らいでいるのかもしれない。そんなことをバロウズを通して考えてみるのも悪くないかもしれない。

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