「ウィリアム・バロウズ」という最語のこと

結局、ウィリアム・バロウズってのは何者だったのだろう。ヒーロー或いはヒール?
理解したような、迷宮入りしたような、サッパリしたような、イライラしような、答えは何も無かった。勿論、答えなんて求めていなかったけど。 それで、83ページから進むかって言うと、改めてバロウズを読もう・・・とは、思わないね、たぶん。
”夕食前につまみ食いしすぎると、肝心の夕食が食べられない”の通りに、「たかが・・・」で腹一杯つまみ食いしたもんだから、それで満足ってコトもありうるから。

私の一生においてのバロウズは結局「裸のランチ」の83ページ分で終わるんでしょう。でも、まあ、読んだとしても理解できないのだから読まなくても同じこと。どこかの酒席でウンチクかませれば、それで良しかな。
「・・・バロウズ!? 基本的には”裸のランチ”と”カットアップ三部作”を読んでおけばOKじゃない。・・・え、僕?そりゃマア一応は読んだよ。でも、頭悪いから理解できなかったよ、ハハハ・・・(一応謙遜)。でも、バロウズ作品って奴は、文章の内容を理解し、良し悪しを批評するのじゃなくて、所謂、バロウズの置かれていた歴史的な文脈っていう奴を理解できれば・・・」ってなこと言ってれば、間違いなく周りの人たちの目は・・・ドン引きだね;;

『バロウズは、あらゆる意味での身勝手な自由を追求し続けた。文においても、生き様においても。他の連中が、その身勝手さの代償として早死にしたり、いきなり家庭に目覚めてみたり、途中で妙な宗教に走ったりして老醜と無惨なボケぶりをさらしている中、バロウズ一人は悠然と生き延びて、映画に出てみたりコマーシャルに出てみたり、カート・コバーンとCD を出したり、ミニストリーのビデオに出たりして時代の先端と戯れ続ける自由さを発揮し続けていた。それはもう、何の悔いもないまったく思い残すことのない人生であったはずなのだ。みんなバロウズを見て力づけられていたはずだ。家庭にも仕事にもドラッグにも捕まらず、無責任に自由に、しかもスタイルを持って生き続けることは十分に可能なのだ。早死にしたり、途中で脱落するやつらはいるけれど、それは根性と頭が足りなかっただけ。バロウズをごらん。ああやって最後の最後まで逃げおおせているじゃないか。ポジショニングとシャープな鑑識眼と、知性とセンスにちょとした運さえあれば、それはわれわれにだって開かれている道であるはずだった。』

永遠なれ”バロウズ”…って、ことは無いだろうな、多分!?

参考:【William Burroughs cut ups】by Kerouac Alley http://kerouacalley.com/burroughs.html

2008.10.25記

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コメント

  1. hem | -

    良い記事です。

    ( 14:02 )

  2. 薄荷脳70 | -

    お読みいただきありがとうございます。

    > 良い記事です。
    hem様
    嬉しい感想をありがとうございます。
    今後ともよろしくお願いいたします。

    ( 18:06 )

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