渋沢栄一を再び訪ねる

渋沢栄一 2つの博物館を通り過ぎて、回答の一つを見つけ出したあとは、最後の博物館である「渋沢史料館」に来ました。
半年以上前の昨年の10月に渋沢栄一の故郷である深谷市を訪ね、渋沢の生家や記念館などを観て回りました。その際に東京で居住していたことの飛鳥山には一度訪れたいと常々思っていたところでしたので、実に良いタイミングでした。


渋沢栄一 しかし残念ながら史料館に入る時間はないようですので、とりあえず入口だけと思っていると入口が「ミステリーウォーキング」のミステリー手帖の配布場所及び回答の投票場所になっていました。


渋沢栄一 更に入口の左手には、渋沢栄一の胸像を見つけました。 実に荒削りの胸像ですね。
これを観てつくづく渋沢栄一の像というのは滑稽に造られてしまっていると言う事です。勿論そんなつもりは毛頭ないのでしょうが、出来上がると何かが可笑しいのです。云わば”カッコ”よくないんです。


深谷の記念館の裏手に高さ4mの立像があるのですが、元々深谷駅前にあった立像ですが記念館オープンの記念に移転され、現在深谷駅前には坐像があります。 しかし、これには裏があって市民から駅前の立像がカッコ悪いとのクレームがあり、坐像に変えてとりあえずそれなりの理由付けで記念館に移されたと館長が話してくれました。
確かに特にスタイルが良い訳ではないのですが、もい少し威厳とか崇高とかがにじみ出た像でもいいのじゃないでしょうかね。郷土の誇りなんですから。
ここの胸像もちょっと鬼太郎の仲間みたいですし・・・

とりあえず3つの博物館の建物を眺めて先に進みました。いつか機会があればまた来てみたいです。

参考:【飛鳥山3つの博物館】http://www.asukayama.jp/

このまままっすぐ行くと飛鳥山を出て本郷通りにでますが、左手の旧渋沢栄一邸及び庭園を散策しました。 庭園部分は飛鳥山公園とは一応区別されていてフェンスで仕切られています。中には天気もよいので結構年輩の方がスケッチをされています。

渋沢栄一 中に入ると右手に建物があります。「晩香廬」です。


『国指定重要文化財 旧渋沢家飛鳥山邸 晩香廬
所在地:北区西ヶ原2・16・1
設計者:田辺淳吉(清水組技師長)
建築年:1917(大正6)年
指定年月日:2005(平成17)年12月27日
近代日本の大実業家のひとり渋沢榮一の喜寿を祝い、合資会社清水組(現・清水建設)の清水満之助が長年の厚誼を謝して贈った小亭である。
建物は応接部分と厨房、化粧室部分をエントランスで繋いだ構成で、構造材には栗の木が用いられている。外壁は隅部に茶褐色のタイルがコーナーストーン状に張られ壁は淡いクリーム色の西京壁で落ち着いた渋い表現となっている。応接室の空間は勾配のついた舟底状の天井、腰羽目の萩茎の立簾、暖炉左右の淡貝を使った小窓など、建築家田辺淳吉のきめこまかな意匠の冴えを見ることができる。なお晩香廬の名は、バンガローの音に当てはめ、渋沢自作の詩「菊花晩節香」から採ったといわれる。
財団法人 渋沢栄一記念財団』

これも過日深谷市でみた「誠之堂」と同じコンセプトですね。まあ、設計者が同じなんですから。
「誠之堂」はすべて煉瓦で造られていましたが、「晩香廬」は淡いクリーム色の西京壁が少し近代的なイメージを私的には持つのですが。どちらにしても渋沢栄一というより田辺淳吉への評価ということでしょう。
たしか「誠之堂」も当時の第一銀行行員から喜寿のお祝いに建設されたものでした。まあ、喜寿のお祝いが小亭といえども都合、家2軒ですから庶民感覚ではとても語れませんね。

渋沢栄一 「晩香廬」の先には緑の芝生を前庭に持つ「青淵文庫」があります。


『国指定重要文化財 旧渋沢家飛鳥山邸 青淵文庫
所在地:北区西ヶ原2?16?1
設計者:中村田辺建築事務所・田辺淳吉
建築年:1925(大正14)年
指定年月日:2005(平成17)年12月27日
渋沢栄一(号・青淵)の80歳と子爵に昇爵した祝いに、門下生の団体「竜門社」より寄贈された。渋沢の収集した「論語」関係の書籍(関東大震災で焼失)の収蔵と閲覧を目的とした小規模な建築である。
外壁には月出石(伊豆天城産の白色安山岩)を貼り、列柱を持つ中央開口部には、色付けした陶板が用いられている。上部の窓には渋沢家の家紋{違い柏」と祝意を表す「寿」、竜門社を示す「竜」をデザインしたステンドグラスがはめ込まれ、色鮮やかな壁面が構成されている。内部には1階に閲覧室、記念品陳列室、2階に書庫があり、床のモザイクや植物紋様をあしらった装飾が随所に見られ、照明器具を含めて華麗な空間が表現されている。
財団法人 渋沢栄一記念財団』

丁度、晩香廬も含めて内部の見学が土曜日に行われているのですが、午後からなので残念ながら観ることはできませんでしたが、「誠之堂」を観ているとステンドグラスやモザイクなどはおぼろげながらイメージすることができます。
「INAX REPORT」というサイトにこのように書かれています。

『誠之堂における田園趣味の英国風農家、晩香廬における建築と工芸の提携、質素で技巧に凝らない一方で、意匠、材料・仕上げを徹底的に吟味、工夫する設計態度。田辺の目指したものは、日本におけるアーツ・アンド・クラフツ建築であった。』

素人には詳しく判りませんが、決して派手で一目を引くものではなく、そこはかとなくピカッと光るもの・・・それが田辺淳吉なのかもしれませんね。

参考:【INAX REPORT】http://inaxreport.info/no170/feature1.html

渋沢栄一 青淵文庫の横にはなにやら建築の一部分みたいなものが展示されています。
【左側が「まぐさ」で右側が露台基礎】


露台基礎
青淵文庫創建時の露台(那智黒石が敷きつめられたテラス部分)基礎の一部である。コンクリートを打った上に煉瓦を積み、基礎としている。
煉瓦の上には、露台の縁石として御影石を敷き並べていた。
枡と土管は雨水を排水するためのもので、排水口には鋳物のふたを設けていた。露台には緩やかな勾配がついており、雨水は露台の端の要所に設けられた集水枡に流れ、各枡をつなぐ土管を流れ、下水本管に排水されていたようである。
2002(平成14)年の修理で、露台の基礎は、補強のため鉄筋コンクリート造りに改められた。』

露台下より出土した「まぐさ」
露台下部の掘削中に土の中より発見されたものである。これは扉や窓の開口部上部に架ける『まぐさ』と呼ばれる部材で、形状、寸法から「控室」(台所北側)出入り口の「まぐさ」であることが判明した。
表面に張られたタイル裏面の刻印「泰平」の文字の跡や銅製建具を固定した金具、壁の漆喰塗が残っていることから、建物は、タイルを張り、建具を取りつけ、壁の仕上げを終えた完成間近の状態で1923(大正12)年9月に、関東大震災によって壁が崩れるなどの大きな被害を受けたことがわかる。
また、タイルは京都の「泰平居」という工房でつくられたこと、青淵文庫の主要構造は煉瓦造りであったが、「まぐさ」部分には鉄筋コンクリートが用いられていたこと、などがわかる。』

内容的にはそれとなく理解できても、これ等の情報の価値が判らない素人にとってはリアクションができない。しかしこういった情報を得たことが一つの良い経験であると思うと、何か得した気分になるのは貧乏性故でしょうか。
考古学などもそうですが、実に些細な事から本当に多くの情報を取り出しますよね、この手の専門家は。そこに驚嘆すべき点があるとおもうのですが・・・。
いずれにしても一度は観ておきたいと思っていた建造物を見られた気分はプチハッピーですかね。

「晩香廬」と「青淵文庫」はどちらも建造物として重要文化財に指定されているので、どうしても目が奪われがちですが、「晩香廬」と「青淵文庫」自体が広い旧渋沢邸の中の小亭でしかない存在なのだそうです。
この旧渋沢邸は当時「曖依村荘」と呼ばれていたと園内の解説がありました。

ようこそ旧渋沢庭園へ
曖依村荘跡
飛鳥山公園の一角は、渋沢栄一が、1879(明治12)年から亡くなる1931(昭和6)年まで、初めは別荘として、後には本邸としてすまいした「曖依村荘跡」です。約28,000平方メートルの敷地に、日本館と西洋館をつないだ母屋の他にも色々な建物が建っていました。住居等主要部分は1945(昭和20)年4月の空襲で消失しましたが、大正期の小建築として貴重な「晩香廬」と「青淵文庫」が、昔の面影をとどめる庭園の一部とともに、よく保存されています。』

ここで素朴な疑問です。
冒頭に”飛鳥山公園の一角は・・・”とあるのは、現在この旧渋沢庭園は飛鳥山公園の中にあるわけですね。
渋沢栄一がこの飛鳥山に別荘として使用し始めたのが明治12年となると、明治6年にはもう飛鳥山は公園に認定されていたわけですから、公園の中に勝手に住んでしまった、って事になりませんか?
指定された公園の隣に土地があったからとも考えられなくも無いですが。1879(明治12)年頃は第一国立銀行の頭取として、様々な企業を設立に関与し始めた頃ですので、名声はあったにしても公園内に無理やり住むなんて我まま通らないでしょうし。
どういった経緯だったのでしょうかね?

渋沢栄一 「青淵文庫」の芝生の前庭の隅には「山形亭跡」があります。


『丸芝をはさんで本邸・西洋館と対した築山にあった亭です。「六角堂」とも呼ばれていました。この亭の名前は、六角形の土台の上に自然木を巧みに組んだ柱で、山形をした帽子のような屋根を支えていたところから付けられたようです。西洋館の書斎でくつろぐ栄一が、窓越しにぼんやりと見える山形亭を遠望する写真も残されています。』

ここでいう”亭”は所謂「あづまや」のことです。まあ、広いから休憩所もないと困りますしね、って・・・

渋沢栄一 ここから東側へ行ってみました。
神社のようなものがあります。「兜稲荷社跡」です。


兜稲荷社跡
日本橋兜町の第一銀行構内にあった洋風の珍しい社です。1897(明治30)年の第一銀行改築時に現在地に移築されました。その後、1966(昭和41)年に破損が激しく、危険ということもあって取り壊されましたが、基壇部分や灯籠等は現在まで残されています。この社は、最初、三井組の為換座として新築された時、三井の守護神である向島の三囲神社から分霊を勧請し、兜社と名付けられたものでした。その後兜社は、為換座の建物とともに第一国立銀行に引き継がれたのです。』

ある意味時代とともに歩んだ稲荷社です。
三井組の為換座の起源は1683年、三井八郎右衛門高利が江戸駿河町(現在の東京都中央区日本橋室町)に開いた越後屋三井両替店です。 この両替店はもともと隣接する呉服店(現在の三越)の補助機関でしたが、やがて本両替に昇格し幕府の金銀御用達としての地位を得て、明治新政府成立後も為替方となったそうです。
1871年に為換座三井組を開設し、日本で最初の円単位紙幣を発行したそうですが、この頃兜神社が勧請されたのですね。
そして三井はこのまま本格的な銀行業へ進出しようとしていましたが、ここで画策したのが井上馨、渋沢栄一らだったのです。
日本の資本主義・・・所謂近代的な企業の設立のためには、三井のような富豪を引き入れなければならないと考え、当時同じ為換座である小野組と三井組を、政府の命令によって無理やり共同で、1875年「三井小野組合銀行」を設立させたのでした。 そしてこの「三井小野組合銀行」はそのまま第一国立銀行となり、その後、第一銀行、第一勧業銀行、そして現在のみずほ銀行という変遷を辿るのです。
「三井小野組合銀行」が第一国立銀行になった時点で、事実上三井の手から取り上げられた形になり、三井はその後独自の商業銀行を設立すべく三井銀行を設立し、現在の三井住友銀行になるのです。
初めは三井のために祀られた社が、(ある意味)乗っ取られた相手を守護する社となり、最後はその張本人のところで終焉という数奇な運命といえばドラマティックですけど・・・

渋沢栄一 社の奥の小高くなった上には現在の”あずまや”があり、 この現在の”あずまや”の周辺がかつての茶席だったようです。
【実際に見ても判りにくかった茶席門跡】


茶席門跡
茶席「無心庵」へ向かう途中に設けられたいくつかの茶席門の一つです。この門をくぐってすぐに水の流れがありました。流れに架かる石橋を渡り、飛び石をたどっていくと、途中左手に「茶席待合」、さらにその奥に「無心庵」がありました。これらは、1945(昭和20)年の空襲で焼失してしまいましたが、当時の跡をたどることができます。』

渋沢栄一 渋沢栄一 【多分茶席門からの敷石と茶席待合跡の踏石とか…だと思うのですが!?】


茶席待合跡
茶席「無心庵」への途中にあった待合です。
腰を下ろすだけの簡素なものですが、気持ちを落ちつけ、茶席へ誘う重要な役割を担っていました。現在は、軒下の踏石をはじめとして、礎石などがほとんど当時の形で残されています。』

渋沢栄一 多分これでしょう。きっとこれでしょう「無心庵跡」・・・でも粋なものがあったのですね。


無心庵跡
茶席「無心庵」
設計は茶人としても有名な益田孝の弟、克徳と柏木貨一郎と言われています。京都裏千家の茶室などを参考にして1899(明治32)年に建てられました。栄一は、徳川慶喜の名誉回復を図るため、慶喜と伊藤博文等をこの茶室で対面させたという逸話が残されています。
無心庵には茶室のほかに広間も設けられ、伝統的なものの中に、新しい時代の茶席をも感じさせるものがあったようです。縁先には石製の手水鉢が置かれていましたが、こうした静かなたたずまいも1945(昭和20)年4月13日の空襲で焼失してしまいました。

邀月台
無心庵の東側に切り立つ崖の斜面には、月見台がしつらえてありました。当時ここからは、栄一が誘致した王子製紙の工場が眼下に見え、荒川方面まで続く田んぼの先には、遠く国府台の台地や、さらにその北には、筑波山の雄姿を望むこともできたといいます。』

あくまでも逸話ですがスケールの大きい話です。少しバックボーンを調べてみます。
そもそも渋沢栄一は、一橋家家臣の平岡円四郎の推薦により一橋慶喜に仕えたのが第一歩で、主君の慶喜が将軍となったのに伴い幕臣となり、パリで行われる万国博覧会に将軍の名代として出席する慶喜の弟徳川昭武の随員として、フランスを訪れたりしていますので良好かどうかは別としても強力な主従関係はあったようです。
そのような主従関係があったことから明治維新後も親交があったようで、特に慶喜の晩年には慶喜の伝記の編纂を目指して、渋る慶喜を説得し直話を聞く「昔夢会」を開き、『昔夢会筆記』をつくったそうです。
丁度、慶喜は1897(明治30)年に静岡から東京・巣鴨に移住してきましたから、時期的にも距離的にも「無心庵」を訪れることは十分可能性を感じますね。
一方、伊藤博文との直接的な関係性は見出せませんが、伊藤博文が初の総理大臣となったのが1885年で、1899(明治32)年は伊藤博文が丁度第3次内閣が1898年に終わり、第4次がはじまる1900年の丁度間です。幸か不幸か公人から一時的に私人になっていた時代でもあり、比較的動きの取れた時期であったようです。
また、慶喜が1897(明治30)年に東京・巣鴨に移住した後の動きを見ると、
1898(明治31)年、明治天皇に30年5ヶ月ぶり(大政奉還以来の)謁見。
1902(明治35)年、公爵受爵。徳川宗家とは別に「徳川慶喜(公爵)家」の創設を許された。貴族院議員就任。
1908(明治41)年、大政奉還の功により、明治天皇から勲一等旭日大綬章を授与される。
といったところで、何となく名誉回復的な行動が現れています。
これ等を総合すると満更逸話と片付けてしまうのも惜しい気がするのですが、いかがなものでしょうね。

兜稲荷も無心庵も歴史の綾みたいなものですが、非常に興味深い散策でした。また少し渋沢栄一を知ることができたかもしれません。何といっても郷土の誇り、埼玉県の偉人ですから・・・
まだ、見どころはあるようですが、十分堪能しましたし、時間的なこともあるのでこれで飛鳥山公園を終わりにすることにしました。

次は西ヶ原周辺です。

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