本拠地・西ヶ原を進む

西ヶ原 すっかり飛鳥山公園を満喫した後は浅見光彦の本拠地とも言うべき西ヶ原を歩きます。
まず向かうのは「東京ゲーテ記念館」です。一旦本郷通りを右折しますが、三叉路の角に「ゲーテの小径」という道標があり、説明文も添えられています。
【おしゃれなデザインの街灯も必見かな…】


『こんにちは、兄弟たち、
あらゆる地域、学派、流派の人々よ!
わたしはワイマール人でありながら、
世界市民。
尊敬するみなさんの輪に
英知と美徳をとおして参加してきたが、
いっそよい方法を知っている人があるなら、
ほかのところで、その知慧を求めるがよい。
訳 星野慎一

この詩は、ヨハン・ヴォルフガング・・フォン・ゲーテ(1749から1832)の最晩年の作品です。ドイツの小公国ワイマルの政治家としても活躍したゲーテは、「世界市民」という構想をいだいていました。
北区役所』

ゲーテと聞いて所謂、文豪で読んだことは無いけど「ファウスト」を書いた人・・・くらいです、言えるのは。
前後の文がないので余計わからないのかも知れないが、世界市民の意味がまるで判らない。何はともあれ日本語の意味がよくわからないのだからお手上げです。
そこで色々こねくり返して得た結果「文学は世界的な視野を持たなければならない」ということに勝手に落ち着いた。つまり世界を知り、世界的な文学を創作し、世界的なレベルで読み親しまれること、と解釈したのですが・・・。
でもゲーテも良いこといっているんですね。
「哲学などというものは、誰でも知っている常識を、難しい言葉で表現しただけのものです」と。 ですからゲーテの翻訳ももう少し判りやすくしましょうよ。モンテーニュだってまともに読めない私なんですから。
・・・なら読まなくていいと云われればそれまでですがな。

ま、とにかくこの道を行けばゲーテ記念館にたどり着くということで「ゲーテの小径」をテクテクと歩いていきました。この道でミステリー手帳を持った方とすれ違いましたが、2、3組いたでしょうかね、人気の高さが伺えます。
この通りの周辺はまさに住宅地です。北の方角を観ると遠景が下がって見えるので、このあたりは高台のようですね。

西ヶ原 そして「東京ゲーテ記念館」に到着です。
余り飾り付けのない質実剛健な、まさにドイツ気質の雰囲気です。


ゲーテが日本で初めて紹介されたのが1871(明治4)年で、本格的に受け入れられるようになるのが明治20年代頃からだったそうです。
その中でもひと役買ったのが森鴎外で、1913(大正2)年日本初の「ファウスト」の完訳を行い、 その後、島崎藤村、尾崎紅葉、北村透谷、国木田独歩、堀辰雄、亀井勝一郎などがこぞって読んだそうです。
そのようなゲーテ熱が高まり1931(昭和6)年に日本ゲーテ協会が創設されて、ドイツ文学の研究・紹介が行われ、 そして、1964(昭和39)年、・・・東京オリンピックが開催された年です・・・実業家・粉川忠氏によって東京ゲーテ記念館が建てられました。
この記念館は日本語の翻訳本や原著だけでなく世界中の訳本や研究書、上演時の衣装などを含む関連資料を所蔵する世界的にも類の無い資料館だそうです。

西ヶ原 そしてこの「東京ゲーテ記念館」の前の通りの向こう側に、「ゲーテ記念館前ポケットパーク」と呼ばれるゲーテを記念した小さい公園があります。
ここに問題の回答が記されているのです。


問題7
ゲーテ記念館前ポケットパークのレリーフには、「おれの○○○○のきびしいなやみを慰めてくれる」という文字が刻まれている。

西ヶ原 ポケットパークの中央にはゲーテの名が書かれたモダンな街灯があり、その左手にはゲーテの肖像が刻まれたレリーフがあります。それにはポケットパークの由来が刻まれています。


ゲーテ記念館前ポケットパーク
このポケットパークは「ふるさと北区のまちづくり」の一環として、ドイツの文豪ゲーテをテーマに整備しました。
ゲーテをより身近に感じて頂くとともに、休息の場として活用して頂ければ幸いです。
1991年3月 東京都北区』

押し付けがましくないところが好感持てます・・・って、偉そうに言いすぎ?

西ヶ原 そして街灯の右手に回答のレリーフがあります。「ファウスト」の一節です。


ファウスト
ゲーテはファウストを82年間の生涯のうち、23歳から82歳までの60年をかけて完成させました。
ゲーテの代表作といえるファウストから抜粋した場面をここに紹介します。
・・・(中略)・・・
伝説時代のしろがねのもろもろの姿が、
おぼろげに立ちあらわれて、
おれの瞑想のきびしいなやみを慰めてくれる。』

結局意味は判らぬまま・・・問題7の回答は=めいそう=でした。

西ヶ原 西ヶ原 一旦、「ゲーテの小径」を戻って本郷通りを右折するとコミュニティバスの「一里塚」という停留所がありました。
この停留所は「ミステリー手帖」に記述のあった停留所ですね。
【一里塚バス停と浅見たちが乗った王子行きのコミュニティバス】


『「北区コミュニティバス」は、王子・駒込ルートと田端循環ルートの二つがあるらしい。
停留所間に距離は近いが、各ルートとも、歩いて一周するとなると、なかなか大変そうだ。ふたりは最寄の「一里塚」バス停から王子方面へ向かうバスに乗り込んだ。』

・・・このバス停は反対のバス停ですが。

西ヶ原 停留所の前の道の真ん中に木が植えられている島があります。どうやらここが「一里塚」のようです。通りの左側に案内板があります。


『国指定史跡 大正11年3月8日指定 西ヶ原一里塚
所在地:北区西ヶ原2・4・2地先
慶長9年(1604)2月、江戸幕府は、江戸日本橋を基点として全国の主要街道に一里塚を築き、街道の道程を示す目安とすることを命じました。
西ヶ原の一里塚は、本郷追分の次の一里塚で、日本橋から数えると日光街道御成道の二番目の一里塚にあたります。都内の日光街道御成道は現在の本郷通りが主要ルートにあたりますが、岩淵宿から船で川口宿に渡ると鳩ヶ谷・大門・岩槻の各宿場を北上して幸手宿で日光街道に合流しました。将軍が日光東照宮に社参する際の専用街道として使用されたので、この名称が定着しましたが、岩槻藩主の参勤交代や藩の公用通行路に使われたので岩槻街道とも称されました。
旧道をはさんで一対の塚が現存していますが、これは旧位置に保存されている都内唯一の一里塚で貴重な文化財だといえます。南側の塚には「二本榎保存の碑」と題される大正5年6月の記念碑があります。塚と榎は当時、東京市電の軌道延長路線上にあたり、この工事に伴う道路改修工事で撤去されそうになりましたが、渋沢栄一や東京市長・滝野川町長を中心とする地元住民の運動によって保存に成功したことが刻まれています。西ヶ原一里塚は、大正時代に文化人と住民が一体となって文化財の保存に成功した例としても記念碑的な意義を持つものといえます。
平成7年3月 東京都北区教育委員会』

これに並んで「二本榎保存の碑」の案内板もあります。

二本榎保存の碑
一里塚に建つこの碑は、大正初期に西ヶ原の一里塚と榎が東京市電の軌道敷設で撤去されてしまうのを渋沢栄一はじめ東京市長、滝野川町長、地元住民の努力により保存されたことを記念して、運動に参加した有志者により建てられました。案文を記した三上参次は歴史学者で名文家としても知られています。このとき保存された榎は年とともに枯れ、現在の木は新しく植栽されたものです。

二本榎保存之碑
公爵徳川家達題

府下北豊島郡瀧野川町大字西ヶ原に幹太く枝茂りて緑陰地を覆ひ行人皆仰ぎ見て尋常の古木に非ざるを知るものあり
之を二本榎と云ふ是れ旧岩槻街道一里塚の遺存せるものにして日本橋元標を距ること第二里の所なりとす往昔群雄割拠の世道路久しく乞梗塞せしか徳川氏覇府を江戸に開くに当り先づ諸街道の修築を命じ道を夾みて松を植ゑ里毎に塚を置き塚には榎を植ゑしむ之を一里塚と云ふ然るに年を経て塚多くは壊れ榎も亦斧片の厄を免れず今存するもの甚少し二本榎は実に其存するものゝ一なり先年東京市は電車軌道を王子駅に延長せんとの企あり一里塚も道路の改修と共に撤廃せられんとせしが幸にして市の当事者学者故老の言を納れ塚を避けて道を造り以て之を保存せんとの議を決したり法学博士男爵阪谷芳郎君東京市長となるに及び将来土地の繁栄と共に車馬躪落老樹の遂に枯損せん事を虞り瀧野川町長野木隆歓君及び有志者と謀る所あり男爵渋沢栄一君最も力を之に尽し篤志者の義損を得て周辺の地を購ひ人家を撤して風致を加へ以て飛鳥山公園の附属地となせり阪谷市長職を去るに及び現市長法学博士奥田義人君亦善く其事を継承す今茲工成りて碑を建てんとし文を予に嘱せらる予嘗て大日本史料を修め慶長九年の條に於て一里塚の由緒を記したる事あり又此樹の保存に就きて当路者に進言せし縁故あり乃ち辞せずして顛末を叙すること此の如し惟ふに史蹟の存廃は以て風教の汚隆を見るべく以て国民の文野をトすべし幕府治平を講ずるに当り先づ施設せる所のもの今や纔に廃頽を免れて帝都の郊外に永く記念を留めんとするは実に渋沢男爵両市長町長及び諸有志者の力に頼れり 老樹若し霊あらば必ず諸君の恵を感謝せん後の人亦諸君の心を以て心となさば庶幾くは此史蹟を悠久に保存することを得ん
大正五年六月    
文学博士 三上参次撰
阪 正臣書
廣群鶴刻

(裏面)
此石はもと江戸城の外郭虎の門の石垣を用ゐたるものなり虎の門は慶長年間に始めて築造せられ其後数次の修復を経たるが明治年間撤廃して石垣も亦毀たれたり今之に充てたるは江戸の史跡を顕彰するに於て適当の記念物なればなり
(一部原文を現代かな漢字に直しています)
平成13年3月 東京都北区教育委員会』

西ヶ原 一里塚の配置は「旧道をはさんで一対の塚が現存…」とあります。ちょうどこのような位置関係となります。


西ヶ原 北側の塚は歩道側にあり現在上記の案内板が設置されています。


西ヶ原 そして南側の塚が車道の真ん中にあり二本榎保存の碑と二本榎、そして一里塚の道標が立っています。


したがって本郷通りの上り車線がが旧街道(御成道)で下り車線が一里塚保存のために造られた迂回路となるのです。
様々な文化財を見る機会があるのですが、旧位置に保存される文化財は確かに貴重で、渋沢栄一(実際は名義貸しくらいでしょうが)の力を見せつかられる思いです。

西ヶ原 北側の一里塚の角の左折路に「七社神社」の鳥居があります。江戸時代は無量寺の高台(現在の旧古川庭園)にあったそうですが、明治時代に神仏分離でここに移され西ヶ原・栄町の総鎮守となった神社です。


参考:【七社神社】http://www.nanasha.jp/

西ヶ原 鳥居のすぐ先が「滝野川警察署」です。


『その夜遅く、滝野川警察署内に平塚神社殺人事件捜査本部が開設された。捜査本部長は署長の馬場警視正、捜査主任として、警視庁捜査一課の宮本警部が着任した。宮本は『佐渡伝説殺人事件』の際も捜査主任を務めたことがあって、警視庁内で比較的、この方面の事情に詳しい点を重宝がられたらしい。馬場署長とも小掘刑事課長とも顔馴染みで、仕事がしやすいということもあったのだろう。…』

これは「金沢殺人事件」での一場面で滝野川警察署が描かれていますが、他にも何度か訪れていると思います。

西ヶ原 「滝野川警察署」を通り過ぎて本郷通り沿いを先に進むと「独立行政法人 国立印刷局 滝野川工場」があります。


文字通り日本銀行券(所謂、紙幣)や証券・郵便切手などを製造しているところで1871(明治4)年の創設されたそうで、このために後の1873(明治6)年、現在の王子製紙が渋沢栄一によって王子の地に設立されたのでしょうか…
私の記憶では「大蔵省印刷局」と記憶ししていたのですが、確かに嘗てはその様で2003(平成15)年に変わったようです。

参考:【国立印刷局】http://www.npb.go.jp/index.html

西ヶ原 広い敷地の国立印刷局を通り過ぎると公園がありました。「滝野川公園」です。
通り過ぎただけですが、うなぎの寝床のように奥に広い公園のようです。


西ヶ原 「滝野川公園」を過ぎてしばらく行くと、いよいよ浅見光彦の聖地「平塚亭」が左側に現れました。
【まさに聖地の平塚亭です。本郷通り沿いの入り口で立ち寄るのは初めなのでちょっと興奮気味】


『浅見は「平塚亭」に寄って、串団子を甘辛五本ずつ、買った。ここの団子を母親の雪江が好物で、母を籠絡するにはこれに限った。この日、籠絡の必要性があったわけでもないのに、どういうわけか団子を買う気になったのは虫の知らせの続きのようなものかもしれない。思いもかけぬ珍客が、浅見の帰宅を待ち佗びていたのだ。…』

「平家伝説殺人事件」の一説で、母親の雪江の大好物という設定で描かれていました。
正式には「和菓子 平塚亭 つるおか」と看板に書かれています。本郷通り沿いの店舗の間口はそれ程広くありません。午前中にも関わらず結構お客が詰め掛けていました。

早速店舗内に入るとショーケースの中に様々な和菓子が並んでいます。傍らに椅子だけ4脚あり、店内でも食べられるそうなので串団子(辛い方)を買い求めました。

西ヶ原 店内にも大勢のお客がいて、店員の方も(3人ほどいらしたでしょうか)かなり忙しそうでした。
流石にメディアの力は偉大で浅見シリーズでの集客力は効果絶大です。無名の小さな店舗ががメディアで取り上げられ一躍脚光を浴びるケースはよくあることです、と思っていたのですが「平塚亭」の場合は少し違うようです。


西ヶ原 もともと「平塚亭」は平塚神社境内の参道脇で大正初期から営業している、三代続く甘味処だそうです。つまり老舗なんです。確かに本郷通り沿いは間口が狭いのですが、平塚神社の参道側は間口が広い長細い店舗で、本来の正面は参道側で参拝客を癒していたのでしょうね。
【こちら側が平塚神社参道側からの平塚亭】


西ヶ原 以前、内田康夫氏が西ヶ原界隈に居住していて、学生の頃良く来て大福や団子を買っていたことから物語に登場するようになったことからもうかがえるように、小説に登場する前から地元では知れた店で、逆に小説に登場したのをきっかけに全国区となり、おかみさんもすっかり内田康夫と浅見光彦のファンになったそうです。店内には中村俊介と野際陽子の写真や、榎孝明とのツーショット写真なども飾られていました。


「ミステリー手帖」にもこの件が記載されています。

『【平塚亭にて】
「あら、坊ちゃん、いらっしゃい」
平塚亭の暖簾をくぐると、大福おばさんがいつもの笑顔で迎えてくれた。大福おばさんというのは、軽井沢在住の推理作家がつけたあだ名だ。浅見は「失礼だ」と思っているのだが、当のおばさん本人は、全く気にしていないらしい。』

・・・と。

西ヶ原 さて早速串団子を食べてみるとまだ作り立てなのか、暖かだったのがちょっと得した気分です。味はちょっと甘目の感じで、余り香ばしさは有りませんが結構美味です。それに何より食感が抜群です。しっとりやわらかい食感で人によっては物足りない感じがあると思いますが、これはこれで有りだと思います。私の知ってる限りでは、埼玉県さいたま市の氷川神社参道にある「氷川だんご」の醤油だけの味付けで外側がカリカリに焼かれていると云う”醤油団子”とちょうど両極端をなしているような串団子です。
好き嫌いはあるでしょうが、浅見ファンでなくても平塚神社の由緒ある門前菓子店として価値あるお店かもしれません。


と言う事で、心身ともに満足して「平塚亭」を後にし「平塚神社」に向いますが、といっても既に参道です。

西ヶ原 右手には神社の標柱があります。


西ヶ原 参道を歩いていくと「平塚神社」の石碑があり、ここから参道の両側は駐車場となっていて月極めと臨時の両方の駐車場があり、実に合理的な考え方です。


西ヶ原 結構長い参道ですが一の鳥居に着きました。車が通り易いように鳥居の脇に舗装道路を作ったのですかね、鳥居が不思議な位置にあるように感じます。


西ヶ原 しばらく行くと駐車場も終わり、石畳の参道となり小さな二の鳥居をくぐって進むと社殿です。


「金沢殺人事件」では、この平塚神社社殿の奥で変死体が発見され、参道口で事件を知った光彦は…といった具合に例によって事件に関与していくのですが、現在、社殿の奥は立ち入り禁止になっているのですが、これは事件があったせいでしょうか…!?

西ヶ原 とりあえずは参拝します。
拝殿・神楽殿・社務所と続いているかなり大きい社です。平塚神社の由来書です。


『源氏の棟梁 源義家将軍を祀る 平塚神社(旧平塚明神社)
御祭神 
八幡太郎 源義家命
平安後期の武将で、源頼朝・義経や足利将軍家の先祖。岩清水八幡宮で元服したので八幡太郎と号された。前九年の役(阿部貞任・宗任退治)、後三年の役をはじめ数々の戦を征された。「天下第一武勇之士」と称えられ、全国の武士達が臣従した。その武威は物の怪ですら退散させたといわれ、義家公の弓矢は魔除け・病除けとして白川上皇に献上された。
賀茂次郎 源義綱命
義家公の次弟。賀茂神社で元服したので賀茂次郎と号された。
新羅三郎 源義光命
義家公の三弟で武田氏、佐竹氏、小笠原氏の先祖。新羅明神で元服したので新羅三郎と号された。笙の名手としても有名。

御神徳
勝ち運 立身出世(就職 昇進 事業繁栄)病気平癒 騎馬上達(交通安全) 武芸(スポーツ)上達 開運厄除 心願成就 等

略縁起
平塚神社の創立は平安後期、元永年中といわれている。八幡太郎 源義家公が御兄弟とともに奥州征伐の凱旋途中にこの地を訪れ領主の豊島太郎近義に鎧一領を下賜された。近義は拝領した鎧を清浄な地に埋め塚を築き自分の城の鎮守とした。塚は甲冑塚とよばれ、高さがないために平塚ともよばれた。さらに近義は社殿を建てて義家・義綱・義光の三御兄弟を平塚三所大明神として祀り一族の繁栄を願った。
徳川の時代に、平塚郷の無官の盲者であった山川城官貞久は平塚明神に出世祈願をして江戸へ出たところ検校という高い地位を得て、将軍徳川家光の近習となり立身出世を果たした。その後、家光が病に倒れた際も山川城官は平塚明神に家光の病気平癒を祈願した。将軍の病気はたちどころに快癒し、神恩に感謝した山川城官は平塚明神社を修復した。家光自らも五十石の朱印地を平塚明神に寄進し、たびたび参詣に訪れた。

主な祭日・行事
大祭:9月14日・5日 中祭:5月15日 小祭:1月15日
祭旦祭:1月元日 節分祭:2月3日 大祓:6月30日・12月31日
月次祭:毎月1日・15日』

西ヶ原 一般的な神社(という意味も判りにくいが)がやはりメディアによって一躍…などというイメージでいたのですが、神社自体が実に由緒ある興味深い神社です。
境内社には稲荷神社。石室神社。天神社などがあります。
更に境内社の間に立て札があります


上中里駅記念樹の移植について
上中里駅は昭和8年7月1日開業いたしました。
上中里の有志の方々の八年余に及ぶ御苦労が実を結び、開業記念式典が平塚神社で盛大に催されました。
その時に駅前に銀杏の木が植樹されましたが、昭和57年上中里駅改築のため、当時の関口駅長さんの御尽力により、この地に移植されたものです。
平成12年6月8日 記録者 榎本武男』

上中里駅は実になじみの無い駅で、嘗ては女子高生が多く下車する駅くらいしか記憶がありません。 ですので「平塚神社」と上中里駅との関係など全く知る由も無かった、というところでしょうね。

参考:【平塚神社】http://www.hiratsuka-jinja.or.jp/

「平塚神社」を最後に浅見光彦の生地・西ヶ原めぐりが終了です。やはり「平塚神社」と「平塚亭」は常に浅見光彦のバックボーンとして存在し続けるものでしょう。
今回初めて訪れてより聖地としての存在を認識しました。

次は「滝野川周辺」を巡りますが、ちょっと「平塚神社」前のコーヒーハウス「Petit Cafe」で一休みしました。

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