霞ヶ城公園 #1

菊人形展は、「福島県立霞ヶ城公園」で開催されています。ここは国指定史跡「二本松城跡」でもあり、非常に文化財も多いところです。
AM10:00頃に到着しましたが、臨時駐車場もかなり混雑しており、第5臨時駐車場でしたからその賑わいが推測できるでしょう。

霞ヶ城址

駐車場から公園沿いを歩いていくと「霞ヶ城址」の石碑がある入口に到着です。
霞ヶ城石碑

二本松城址 入口から会場を望むと何とも立派な城壁が現れ、その城壁に「第56回 二本松の菊人形」と大きく書かれています。まさに伝統の証でもあるように・・・。

二本松少年隊 入口を進むと菊で飾られた、幾つかの像があります。

二本松少年隊
慶応4年(1868)7月戊辰戦争の最中、二本松藩大半の兵力が西軍を迎え撃つべく出陣し、城内・城下は空虚同然であった。この緊迫した状況のもと、少年たちの出陣嘆願の熱意に、藩主は止む無く出陣許可を与え、13歳から17歳までの少年62名が出陣。7月29日、城内への要衝・大壇口では隊長木村銃太郎率いる少年25名が果敢に戦ったが、正午ごろ二本松城は炎上し落城した。
この二本松少年隊群像は、大義のため戦う隊長及び少年隊士と、我が子の出陣服に藩主丹羽氏の家紋・直違紋(すじかいもん)の肩印を万感迫る思いで縫い付ける母の像を表したものである。
なお、この地は(千人溜(せんにんだめ)」といい、藩兵が集合する場所であり、少年隊もここからそれぞれの守備地に出陣した。
二本松市』
(現地案内板説明文より)

いわき市でもそうですが、福島県においてはどうも戊辰戦争では悲劇が多いのですね。
そもそも会津藩最後の藩主である9代・松平容保が文久2(1862)年、京都守護職となり、新撰組を下に置き会津藩士ともども尊皇攘夷派志士の取締りや京都の治安維持を担ったことがこの悲劇のはじまりなのです。
そして禁門の変では御所を守り、孝明天皇からお墨付きを貰うことになったのですが、慶応2(1867)年、孝明天皇が崩御すると薩長同盟との対立が激化し、大政奉還・王政復古を経て慶応4(1868)年の鳥羽・伏見の戦いにより戊辰戦争が勃発した際、会津藩は旧幕府勢力の中心とみなされ新政府軍の仇敵となり、更に朝敵にされたのでした。
このとき同じように朝敵とされたのが、江戸薩摩藩邸の焼討事件での討伐を担当した庄内藩だったのです。

そしてこの朝敵となったこの2藩を助けるべく立ち上がったのが、奥羽越列藩同盟です。これは東北の藩である会津・庄内両藩の朝敵扱いを軽減してもらうための嘆願を行のが始まりです。しかしこの嘆願が認められなかったため、陸奥国(奥州)、出羽国(羽州)、越後国(越州)の諸藩(最終的に31藩)が、輪王寺宮・北白川宮能久親王を盟主とし、新政府の圧力に対抗するために結成された同盟なのです。したがって会津・庄内藩は含まれておらず、会庄同盟を結んで奥羽越列藩同盟の支援を受けるという勢力になったのです。

このとき奥羽越列藩同盟に加盟した藩のうち福島県内の藩は、二本松藩(二本松市)、湯長谷藩(いわき市常磐)、棚倉藩(福島県東白川郡棚倉町)、相馬中村藩(相馬市)、福島藩(福島市)、三春藩(福島県三春町)、守山藩(郡山市)、磐城平藩(いわき市平)、泉藩(いわき市泉)、下手渡藩(伊達市)の10藩でした。したがってこれら10藩も悉く朝敵となったのは至極当然の成り行きです。
そして戊辰戦争の結果、会津藩を筆頭に、二本松藩、湯長谷藩、棚倉藩、福島藩、泉藩、下手渡藩が減封・転封などの処分を受け、相馬中村藩、三春藩、守山藩、磐城平藩は所領安堵となったのでした。最も所領安堵といっても廃藩置県で結局藩は消滅するので余り意味のない所領安堵かもしれません。
こう言ったように、福島県下では戊辰戦争の傷跡が結構残っているのは、このような理由からなのです。

霞ヶ城公園スロープ

「二本松少年隊」像の横から、城独特の幅の広いゆったりした階段状のスロープをあがります。
大手スロープ 実に壮観な風景で、まさに城郭らしい趣をかもし出しています。

スロープの横には案内板が幾つかあります。

霞ヶ城公園<二本松城址>
二本松城は、室町中期に奥州探題を命じられた畠山満泰が築城し、以降畠山氏歴代の居城として140年余り続き、天正14年(1586)伊達政宗の執拗な攻撃により落城しました。豊臣時代、当城は会津領主となった蒲生氏郷の重要な支城として、中通り(仙道)警備の任を与えられ、頂上の本丸やその周辺に石垣が積まれ、近世城郭として機能し始めました。
その後、徳川時代初期も会津領として蒲生氏・加藤氏らの支配下にありました。
寛永20年(1643)二本松藩が誕生し、白河藩より丹羽光重公が10万700国で入城し、幕末まで丹羽氏10代の居城として220年余年続きました。しかし、慶応4年(1868)戊辰戦争に際し、西軍との徹底抗戦で場内・家中屋敷のすべてを焼失し、7月29日に落城しました。
明治から大正末年までは民間製糸工場として活用が図られ、その後は公園として開放され、春は桜花が全山を包み、ツツジ・フジが彩りを競い、夏は緑したたる庭池、秋は菊人形と紅葉が錦を織りなし、冬は老松にかかる雪景の風情は、市民の憩いの場として、また多くの来園者が訪れています。なお、本丸は平成3年の発掘調査を契機に石垣の修築・復元工事が行なわれ、平成7年に完成しました。
二本松市』
(現地案内板説明文より)

実に戦国時代のスター達が綺羅星のごとく表れる、実に美味しい歴史です。
畠山満泰は直接の子孫ではありませんが、鎌倉幕府草創期に活躍した武将、畠山重忠の名跡を継承した人物で、北条氏の謀略に敗れた畠山重忠の妻が北条時政の娘だった関係から、重忠死後に足利義兼の子義純と再婚し、義純は畠山氏の名跡を絶やさないために畠山氏を名乗ることになり、畠山重忠の旧領も義純が受け継いだのです。その後、義純の子孫が建武の争乱時に軍功を挙げ奥州探題となり、その子孫が二本松畠山氏となったという経歴で、重忠とは直接の関係はないとは言え、足利氏の血筋ですから名家であることは間違いないところです。結局、初代義純から数えて16代目の義綱のときに二本松畠山家が滅亡したのですが。
滅ぼした伊達政宗はスター中のスターですが、その畠山家が滅亡後支配したのが蒲生氏郷、上杉景勝、加藤嘉明というスターたちです。但しこの頃は会津藩の支城ですから、若干趣は違いますが・・・。
しかし、加藤嘉明が会津に入城した際に、加藤氏与力の松下重綱が下野国烏山城から5万石で二本松城に入城したことから、この段階で二本松藩が成立したのです。説明では寛永20年(1643)二本松藩が誕生とありますが、松下重綱入城時の寛永4年(1627年)が成立時と考えられます。
二本松藩は、松下家、加藤家の短い治世の後、丹羽光重が入城したのが寛永20年(1643)なので、この日付を間違えたのかもしれません。この丹羽光重は信長の家臣であった、あの丹羽長秀の孫です。 信長末期では、順位的には柴田、滝川、明智、秀吉等の下にランクされましたが、信長、秀吉時代の重鎮として、やはり丹羽家といえば名家でしょう。そしてこの丹羽家は11代続いて明治を迎えるのでした。
ちなみに霞ヶ城は別名ですが、他にも白旗城という別名もあり、何処となく歴史の華を持っている二本松城なのです。

内藤四郎兵衛戦死碑 スロープを進むと左側に石碑があります。

「大坂代 内藤四郎兵衛戦死の地」という看板があります。
説明には『城門を開いて敵勢に切り込み、獅子奮迅の末、壮絶な戦死を遂げた』とあります。これも戊辰戦争での一幕です。

箕輪門

突き当たりの城壁には「大河ドラマ 龍馬伝」と書かれ、龍馬の菊人形が置かれています。
菊人形タイトル 龍馬役に似ている、いないは別として、昨今の菊人形展では大河ドラマをテーマにするところが多いようです。
一般的に老若男女に受け入れ易いですからでしょう。
いまだ大河ドラマの経済効果は絶大といったところでしょうかね。

箕輪門 その右手に入口である城門がそびえています。

箕輪門
箕輪門は二本松城=霞ヶ城の正面にあたり、江戸初期城主丹羽光重の建造である。
城下箕輪村山中にあった樫の大木を主材としたのでこの名がある。
聳え立つ石垣と累々たる城壁城門は十万石大名の威容を示していた。
戊辰戦争によって灰燼と帰したが再建の声高まり、年余の歳月と二億円の費えを投じて昭和57年8月に完成を見た。
二本松市』
(現地案内板説明文より)

この箕輪門と横の櫓は、二本松城のシンボルなのでしょう。やはり城らしい遺構の最たるものかもしれませんが、流石に再建されたものなので重厚感は余り感じられません。
箕輪門のアカマツ 箕輪門を抜けると左側に見事な松があります。

『二本松市指定天然記念物 1、名称 二本松城跡 箕輪門のアカマツ
箕輪門北側の石垣上に植えられているアカマツの古木群で、4本は三の丸への石段の南東の段状に一列に並び1本は石段の裾右側の石垣上に立っている。
目通り幹囲が2から2,5メートル、樹高9から12メートルあり、樹冠が傘状をしているのが多く長い枝を石垣下に垂れている。
これらの松は、土塀に代えて石垣上に植えられたものと思われ、明暦3年(1657)に箕輪門周辺石垣の破損を修理した記録などから推察すると樹齢は350年を越える。保存状況が良好で樹勢は旺盛である。
個々の木が美しい樹形を持つとともに全体が周囲の石垣や石段とよく調和し、見事な景観を呈しており、二本松城跡石垣の松の大木として高い価値がある。
平成12年4月1日指定 二本松市教育委員会』
(現地案内板説明文より)

箕輪門のアカマツ まさしく日本的で情感に訴える美しさを感じます。

松といわれて思い浮かべるのは松たか子・・・ではなくて、松竹梅、あるいは能の背景、などなど日本では松はなくてはならない存在といえます。
長寿を表す縁起の良い樹木であり、かつ非常時に実や皮が食用になるという実用性もあることから、一石二鳥の樹木なので、日本の城にも多く植えられておりことから、ここ二本松城でも植えられたということでしょう。

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