霞ヶ城公園 #3

ここからは公園内を北方向に向かい、本丸を目指します。
この辺まではゆったりとした散策路ですが、さすがに本丸方面へは多少アップダウンもきつくなっているようです。
平山城ですから、そこはさすがに城の構造として当然のことでしょう。

土井晩翠歌碑

土井晩翠歌碑 安達太良山要望の四阿の反対側に「土井晩翠歌碑」があります。

土井晩翠歌碑
「花ふぶき 霞ヶ城のしろあとに 仰ぐあたたら 峯のしら雪」
旧会達製糸株式会社の社歌を作詞した晩翠は、昭和24年の発表会にため来松。花吹雪の中を散策し、その情景を詠んだ。
昭和31年に建立
二本松観光協会
(現地案内板説明文より)

土井晩翠といえば荒城の月で知られた詩人ですが、意外や校歌や社歌の作詞は多いそうで、作っていただいた学校や会社は名誉なことなのでしょうね。

智恵子抄詩碑

ここから勾配は急になります。
智恵子抄詩碑 一段小高い丘を登ったところに「智恵子抄詩碑」があります。

智恵子抄詩碑
明治から昭和にかけて詩人として、また彫刻家として有名な高村光太郎〔明治16年(1883)から昭和31年(1956)〕が、亡き夫人・智恵子〔安達町出身・明治19年(1886)から昭和13年(1938)〕の生涯を痛切な鎮魂の思いをこめて改装した詩集「智絵子抄」は、今でも読む人の心に感動を与えています。
当詩碑は詩集中の「樹下の二人」の冒頭の句で、二人の純愛を永く後世に伝えようと、市内有志及び詩人・草野心平らの尽力により昭和35年(1960)5月22日に建立されました。
この二つの露頭石は、二本松城を築く際に「夫婦の牛」をいけにえにしたところ、牛の霊は天に昇り、身は石と化したという伝説の石「牛石」と呼ばれています。なお、小さい碑石にも同詩集より「あどけない話」の1節が刻まれています。
二本松市
(現地案内板説明文より)

二本松縁の智恵子ですから、詩碑があっても当然でしょうが、この「夫婦の牛」が純愛をイメージしているとはとても思えないのですが、何故に「牛石」にしなければならないのかが理解できません。
「牛石」はそれとしては十分興味深いのですが・・・。

少年隊の丘

少年隊の丘 ここからなだらかに上がったところは広いエリアで、一角にいくつもの石碑などが置かれています。

「少年隊の丘」碑 二本松少年隊顕彰碑 手前に「少年隊の丘」という石碑があり、奥にある一番高さのある石碑が「二本松少年隊顕彰碑」です。

二本松少年隊顕彰碑
この一帯の平坦地は「少年隊の丘」と呼ばれ、戊辰戦争直前まで砲術道場で学ぶ少年達が稽古を行なった場所といわれています。
当碑は、昭和15年(1940)の紀元2600年記念事業にあたり、戊辰戦争に出陣した少年隊士の顕彰を目的に、町一丸となってこのゆかりの地に建立したものです。
碑表面は、旧二本松藩主丹羽家16代当主・丹羽長徳の揮毫、碑裏面には隊長・木村銃太郎、副隊長・二階堂衛守をはじめ、出陣した少年隊士62名の氏名が刻まれています。
二本松市
(現地案内板説明文より)

石碑 奮戦の図碑 また、近くには二本松少年隊の事跡を七言律詩の形式で記した石碑や、ブロンズレリーフによる奮戦の図碑もあり、まさに「少年隊の丘」に相応しい歴史が残されているようです。

また、その隣には別の案内板もありました。

二本松城址「新城館」
二本松城が会津の支城であった時代、城主に代わって城を守る城代が二人置かれていた時期がありました。慶長6年(1601)から寛永4年(1627)会津領主蒲生秀行・忠郷のときで、二城代がそれぞれ二本松城内の東城と西城に詰めていたと記録にあり、ここ「新城館」はその西城にあたります。
平成10・11年度の発掘調査の結果、大規模な堀立柱建物跡や平場を取り囲む掘立柱塀跡も確認され、中世から近世後半期にかけて繰り返し建物等が建て替えられ、利用されていることがわかりました。また、平場の南端には直径約4m、深さ約2mの大きな穴が発見され、人為的に大量の焼土と炭化材が捨てられていました。出土遺物から、茅葺屋根で土壁の木造建造物が火災にあい、この残骸を整理した穴と見られました。古い記録に天正14年(1586)の畠山・伊達両氏の二本松城攻防戦の末、畠山氏が本城(本丸)を自ら焼いて開城した後、入城した伊達成実がその後始末したとあり、この穴がその痕跡である可能性が高いと判断されました。これらのことから、新城館は天正期には本城的機能を果たしていた重要な施設であったことが判明し、記録の少ない中世二本松城の姿の一端が明らかになりました。
平成19年3月 二本松市教育委員会
(現地案内板説明文より)

元々は「新城館」として歴史的に貴重な場所だったようですが、話題的に「少年隊の丘」に変わってしまったのでしょう。
まあ、確かに興味を引き易いのは少年隊でしょうから。
したがってこの案内板がなければ、一般の見学者は結局「少年隊の丘」で終わってしまうわけですが、時代の証言者としての丘と考えれば、どちらも貴重な遺構に記念碑です。

搦手門跡

「少年隊の丘」を抜けて少し進むと一塊の石垣が積まれています。
搦手門跡 搦手門跡 何となく城跡らしい雰囲気が漂ってきましたよ。

二本松城址「搦手門」
この場所は近世の搦手門があった場所です。城の正面を大手と呼ぶのに対して、裏手を搦手と呼びます。
平成13年度発掘調査の結果、新旧2時期の門跡が確認されました。第1期は掘立柱の冠木門(冠木と呼ぶ横木を2本の門柱の上方につらぬき渡してある門で、屋根はない)で、現存する礎石のやや南側で発見されました。直径30cmほどの柱の根元が残存しており、栗材と鑑定されました。この柱根は、保存処理が施され当市歴史資料館で保管・展示されています。なお、近世以前の様子を描いた絵図「会津郡二本松城之図」では、屋根のある門が描かれています。
第2期は現存する礎石の時期で、この礎石は据えられた当時のまま残されていることが確認されました。柱間は3.2mあり、扉のためのホゾといわれる穴があることから、1枚約1.4mの扉の付く高麗門である可能性が高いと考えられます。両側には門台石垣が築かれ、その石積み様式から寛永初期の門跡であることがわかりました。
これらのことから、蒲生氏時代に掘立柱であった門を、加藤氏が石材を用いて整備したことが明らかとなりました。
平成19年3月 二本松市教育委員会
(現地案内板説明文より)

搦手門跡 木の門から石の門にグレードアップしたということですが、蒲生氏の時代はあくまで二本松城は会津城の支城でしたが、加藤氏の時代は二本松藩の本城ですから、それなりに防御、及び対面上においても賢固な門にする必要があったのかもしれません。

いずれにしても、そのような2つの歴史がわかる遺構ということで、とっても貴重なのものといるのでしょうね。
いよいよここから本丸に向かいます。

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