霞ヶ城公園 #4

「搦手門」からはゆったりとした坂を上っていくと本丸です。
本丸方面 うっすらと本丸の石垣が見えてきます。想像以上に大きな本丸で期待は膨らむところです。

二本松城本丸石垣

本丸入り口左側石垣修復記念碑 本丸にたどり着くと、そこには一つの記念碑があります。

当記念碑は、昭和28年(1953)に施工された本丸入り口左側石垣修復を記念として、奥州探題・畠山氏末裔である二本松氏により、昭和30年に入り口左側に建立されました。
平成7年(1995)本丸石垣修築復元工事の完成に伴い、当所に移設しました。
二本松市
(現地案内板説明文より)

いずれ記念碑自体が貴重な文化財になるのでは思ってしまうほど古い記念碑です。
それにしても二本松氏が現在でも存続しているということにプチ感動です。
冒頭の二本松畠山氏の歴史の中であったように、初代義純から数えて16代目の義綱のときに二本松畠山家が滅亡したのですが、この義綱の弟・義孝が二本松氏と称したのです。 その後、義孝は上杉景勝・蒲生秀行・加藤嘉明らの客分を経て、徳川氏譜代の水野忠善に仕え、以後水野氏の転封に伴い諸国を転々としたのですが、二本松氏は水野氏の最終的な封地である山形(弘化2年(1845年)山形藩に転封)で今日まで存続しているのだそうです。
したがって二本松氏の初代はこの畠山義孝となるので、庶流といえども畠山重忠が1205年に亡くなってから、800年以上に亘って畠山家が綿々と続いているのですから、歴史の重みを感じます。

本丸に上がる前に、石垣をぐるっと周ってみます。
面石垣 搦手門から来た面で、本丸入口の左側です。

10.面石垣内部の旧石垣(※10.はこの左側の面のことをいっている)
この10面石垣の内部には、別の石垣が保存されています。
10.面石垣の解体後、裏土の精査中に長さ約7.6m、最も残っている部分で3段・高さ約1mの石垣が発見されました。築石は野面石(自然石)と荒割石であり、その積み方は本丸下南面大石垣や、移築展示されている6.面旧石垣(※6.はこの石垣の反対側の石垣のこと)、天主台下西面二段石垣と同様の古式の穴太積みと判りました。
「会津領二本松城之図」や「正保城絵図」など現存する絵図を比較・検討したところ、
●旧石垣:会津領主・蒲生氏郷が二本松城に初めて築いた慶長初年の石垣。
●10.面石垣:のちの会津藩主・加藤氏が修築、拡張した寛永初年の石垣。
であることが解明できました。
旧石垣は二本松城の歴史を考える上で貴重な遺構であるため、測量や写真およびビデオカメラによる記録化を行い、現状のまま慎重に埋め戻し、保存を図りました。
(現地案内板説明文より)

搦手門も蒲生氏と加藤氏の2期にわたり修築がなされていましたので、同時に本丸石垣も修築されたということでしょう
本丸の裏側の石垣がこちらです。
本丸の裏側の石垣 復元するにしてもこれだけの石垣を作ったのですから大変な作業だったことでしょうが、江戸時代と比べれば格段の工事進捗でしょうね、機材・機器がちがいますから。

面石垣 ここが先ほどの説明にあった6.面石垣です。
因みに7.8.9.面石垣は今通ってきた裏側の石垣です。

移築展示 6.面旧石垣
この石垣は本来、左側6面の下部中央に検出された遺構(石のデザインとテクニック)です。
築石は野面石(自然石)と荒割石が用いられ、その積み方は慶長初期の古式穴太積みと呼ばれる特徴的な石垣です。二本松城に築かれた、最も古い石垣の一つです。
左右端部周辺、および中央上部は江戸後半期に積み直されましたが、穴太積み石垣は約130石ほど残存していました。しかし、
※約50%を占める石材が割れ・風化により再使用できないこと。
※6.面全体を修築・復元する場合に上部石垣の重量に耐えられないこと
がわかりました。
そのため、6.面下部石垣は新しい石材で穴太積みの復元を図りました。そして旧石垣は後世に伝えるため、穴太積みの特徴を最も残している長さ約12m、高さ約2.5mの範囲を近接したこの場所に、現状の段差地形を利用し、移築展示しました。
(現地案内板説明文より)

移築展示された穴太積みの写真を撮り忘れたのは残念ですが、やはりここも蒲生氏と加藤氏の築城遺構ということですね。
本丸 ここから、いよいよ本丸に入ります。正面に二本松城の歴史が記載されています。

二本松城の歴史
二本松城は、室町時代中期に奥州探題を命じられた畠山満秦が築造し、以後畠山氏歴代の居城として、140年余り続きました。その後天正14年(1586)、伊達正宗の南奥制覇のために落城しました。
豊臣時代になると、二本松城は会津領主となった蒲生氏郷の重要な支城として、中通り(仙道)警備の任を与えられました。二本松城に石垣が積まれ、近世城郭として機能し始めたのはこのころだと推定されます。
その後、徳川時代初期も会津領として、上杉氏、蒲生氏、加藤氏らの支配下にありました。
とくに、加藤氏支配時代には本丸を拡張したことが石垣解体調査で確認されました。
二本松藩が誕生した寛永20年(1643)、初代藩主丹羽光重が10万700石で入城し、幕末まで丹羽氏10代の居城として、220有余年続きました。戊辰戦争に際し、西軍との徹底抗戦で城内・家中屋敷のすべてを焼失し、慶応4年(1868)7月29日に落城しました。

本丸石垣修築復元の概要
平成3年3月から5ヶ月にわたり実施した発掘調査で、はじめて本丸の形状と規模が判明しました。すでに崩壊し滅失したと考えられていた石垣の、2.面から6.面までの長さ約80mにわたる遺構が検出されたからです。
石垣の特徴的な積み方のひとつである慶長期の「穴太積み」や、元和・寛永期の各様式のほか、江戸後半期の様式が確認できました。
これらの貴重な石垣を後世にのこすため、各方面からの検討を重ね、平成5年8月から学術調査とあわせ石垣の全面修築・復元工事に着手し、平成7年6月に完成しました。

「修築・復元工事の特徴」
1.時代性=城郭として機能した江戸時代の二本松城の、各時期の石積み様式を活かそうとしました。
2.伝統技術=先人が残した知恵と技術をくみとり、石の配石方法や加工方法など江戸時代の技術を採用しました。
3.地域性=二本松城の構築技術を調査検討し二本松城ならではの特徴を活かそうとしました。
4.強度=裏込め石の選択や、軟弱な支持地盤の補強など、できうるかぎりの耐久性を考慮しました。
(現地案内板説明文より)

これにより二本松城は何十年、あるいは何世紀にわたっても語り継がれる城となったのかもしれません。人間の能力に改めて脱帽です。
その二本松城の本丸に入城します。

二本松城本丸

本丸への階段を上ると「枡形虎口」があります。
枡形虎口 平面図 先ほどの案内板にあった本丸跡平面図では手前部分です。

虎口とは城郭、あるいは曲輪の正面開口で、場内の軍勢にとっては出入り口であるのは当然ながら、城攻めの際は攻撃側が責めてくる要所であるために厳重に防御しなければならない出入り口です。
かつては開口に木戸などの門を設置し、両脇に櫓を建てて防御するという簡易なものでしたが、時代とともにその構成も発展したのです。その結果、東日本では馬出しという虎口の形態が発達しました。これは堀に面する虎口の外側に、弧状またはコの字型に土塁や石垣を積み、出入りできる部分を残して周りに堀を穿つとできる小規模な曲輪でした。一方西日本では枡形という虎口の前面に方形の空間を設け、そこに門や口を2重に構える形状で、攻撃側は桝形内部に侵入しても2番目の門に城内への侵入を阻まれ、桝形内部で守備側からの攻撃を全面に浴びるという虎口なのです。
しかし、これらも時代とともに融合し始め、会津若松城は、馬出し形状の北出丸、西出丸を外側に備え、その内側は桝形を備える二重構造という融合した典型的な例なのだそうです。
写真では右側から登り、まっすぐ進んで、左にまた曲がるという塩梅で、右側に開口と奥の左側に開口を構えれば、奥の左側に開口を攻めているうちに、両側の一段高いところから攻めることができるという構造です。

本丸跡 「枡形虎口」を抜けるとただただ広い本丸跡となり、中央にその碑が立ててあります。

西櫓台 平面図 その先に見えるのが「西櫓台」です。
平面図では左上の角の部分です。

西櫓台からの眺望 「西櫓台」からの眺めはそれ程良くはないようで、松が育ちすぎたのでしょうかね。

天守台 平面図 中央(平面図では右上角)の部分が「天守台」です。

一般的には天守閣といわれる建造物があったところです。天守閣といっても場内で最大の櫓を言うのであって、城主が住んでいるところではないのです(当たり前か・・・、しかし、個人的にそう古くない昔までそう思っていたという恥ずかしい記憶がある)。
レアケースとして安土城や大坂城は住宅用に使用されていたようですが、一般的に安土・桃山初期の頃は、物見櫓・司令塔・攻城戦の最終防御設備としての要素が強かったようですが、信長後期から秀吉の頃は権力を象徴する建造物としての色合いに変わり、江戸時代に入ると儀式や迎賓、何かあった際の避難場所などに使用され、その後多くは物置として利用されていたことが多かったようです。当然江戸時代に入り合戦などがなくなったことから、軍事的な意味合いはなくなってきたからとの理由も当然のことでしょう。 因みに江戸時代の兵学では「天守十徳」という天守の利点と目的が明確化されています。
1.城内を見渡せる、2.城外を見晴らせる、3.遠方を見望できる、4.城内の武士の配置の自由、5.城内に気を配れる、6.守りの際の下知の自由、7.敵の侵攻を見渡せる、8.飛び道具への防御の自由、9.非常の際に戦法を自在にできる、10.城の象徴、といったところです。
いずれにしても城の内外を見渡せるというところが、まずは重要だということでしょう。

丹羽和左衛門(66歳・城代)・安部井又之丞(65歳・勘定奉行)  自尽の碑 その天守台に移ってみますが、その前に石碑が置かれています。

丹羽和左衛門(66歳・城代)・安部井又之丞(65歳・勘定奉行)  自尽の碑
当碑は、慶応4年(1868)7月29日、戊辰戦争による二本松城落城に際して、共に自尽(割腹)した両人の供養碑です。
丹羽の自尽の様子は、床几(腰掛け)に腰をおろし、軍扇を膝の上に広げ、割腹したのち内臓を軍扇の上につかみ出し、前屈みになって絶命した、と伝えられています。
当初この碑は天守台の中央奥に建っていましたが、平成7年本丸石垣修築復元工事完成に伴い、当初に移設しました。
(現地案内板説明文より)

すさまじい精神力といったところでしょうか、こう文字で記載されると、一層の迫力を感じます。
当時の気持ちを推し量ると、無念、それともこれで終わるといった安堵感、一体どのような気持ちだったのでしょうかね。

そして「天守台」にあがります。
流石に眺望はピカ一でしょう。
天守台からの眺望 先ほど見た安達太良連峰を見ることができます。

こちらは東の方角です。
天守台からの眺望 丸い建造物は城山総合体育館で、グランドや野球場が見えます。紅葉も見ごろになっているようです。

東櫓台 平面図 最後に平面図の右下の角にある「東櫓台」に移ります。

連結式天守 「天守台」からは石垣沿いに繋がっているとなると連結式天守かも知れません。

東櫓台からの眺望 東櫓台からの眺望 「東櫓台」からは二本松市が見渡せます。これこそが城主の気分かもしれません。

東櫓台からの眺望 紅葉も綺麗で城下も安寧となれば、この世は天下泰平・・・、天晴れ天晴れの気分でしょう。

城主気分も満更ではないようです。

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