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霞ヶ城公園 #5

 

本丸で城主気分に浸った後は菊人形展に戻ります。
かなり広い敷地なので、戻るにも結構時間がかかりそうです。

本丸下石垣

本丸下南面大石垣 本丸から坂道を下がってくると、中途半端な石垣が斜面に残っています。

本丸下南面大石垣
二本松城に築かれた、最も古い石垣のひとつです。築石は野面石(自然石)と荒割石が用いられ、その積み方は古式の「穴太積み」と呼ばれる特徴的な石のデザイン・テクニックです。
大小の石材をレンガをねかせるように横積みし、数石しか横目地の通らない、いわゆる「布積み崩し」の積み方です。
勾配は、直線的で緩やかな「ノリ(法)」を主体に構築されています。天端付近は積み直された形跡があり、本来はさらに数段高い石垣であったと考えられます。
二本松城が会津領の支城となった慶長初期頃、蒲生氏郷に抱えられた城郭石積み技術者集団「穴太衆」によって築かれた石垣です。
(現地案内板説明文より)

「穴太衆」なる集団があったのですね。
この穴太衆とは、近江の比叡山山麓にある穴太(現在の滋賀県大津市坂本穴太)の出身で、古墳築造などを行っていた石工の末裔であるといわれています。寺院の石工をまかされていたようで、その高い技術を買われて安土城の石垣を施行したことで一躍有名となり、多くの城郭の石垣構築に携わるようになったそうです。それ以降江戸時代初頭に至るまでに全国の藩に召し抱えられ、城石垣等を施行するようになったそうです。
古墳築造からの歴史ですから、「穴太衆」の歴史がかなり古いことに驚きますが、さらに驚きなのでが現在でも、この「穴太衆」を継承している企業があったことに驚愕です。

滋賀県大津市坂本にある粟田建設という企業です。地番こそ大津市坂本3丁目11・29とありますが、紛れもなく坂本穴太といっても過言ではないでしょう。
この粟田建設の歴史を見てみます。

江戸時代初期 阿波屋喜兵衛創業
明治6年4月 屋号『桶万』に変更
昭和9年8月 粟田万喜三、13代目継承
昭和39年4月 社名『粟田建設』に変更。責任者に第14代目粟田純司就任
昭和47年10月 有限会社に変更。粟田純司社長就任
平成17年6月 株式会社粟田建設に変更。粟田純徳社長就任と第15代目継承
というように現在15代目が継承しているそうなので、非常に歴史のある企業です。
そして現在でも、特別史跡安土城跡石垣修理工事、国定史跡彦根城石垣修復工事、国定史跡高知城跡石垣修復工事等を始めとする石垣修復工事や石垣石積工事を行っているようです。

参考:【株式会社粟田建設】http://www.geocities.jp/awata_i/

やはり「穴太衆」の築造した石垣は「穴太衆」でなければ復元できないということでしょうか。
この二本松城の復元がどうだったかは判りませんが、現在もその地で、その人々で継承されているということに感動すら覚えます。

日影の井戸

日影の井戸 さらに下に下りてくると、古い井戸と石碑があります。

日影の井戸
千葉県印西市の「月影の井」、神奈川県鎌倉市の「星影の井」と並び、「日本の三井」と称されています。
これは「月影の井」縁起のなかの「清水湧出して四時渇水することなし、伝言、大管豊後守の水行場と又月かげの井と称して、鎌倉星の井、奥州二本松の日の井と共に日本三井一なりと言う」に由来しています。
昭和の初期頃までは俗称で「底なし井戸」と呼ばれ、また古老の伝えでは「ひのゐ」、「陰の井」とも称されていたといいます。
井戸の深さは約16メートルあり、さらに井戸底の岩盤をえぐって北方に約14メートル達していますが、今でも豊富な湧水を溜めています。
二本松市
(現地案内板説明文より)

石碑には、この井戸の由来が刻まれているようです。
またその隣の小さなお堂は「天河大弁財天」とあります。まあ、水あるところに弁財天ありですから。
城郭に中には井戸の一つや二つ・・・、当然篭城等も考えて水は豊富にあったことに越したことはないですからね。
それにしても日本の三井とは初めて知りました。日・月・星とはなかなか風情のある趣です。

折角ですので、他の井戸も調べてみました。
「月影の井」は縁起の中にもあるように、大管豊後守とは千葉氏の一族である大菅氏で、その大管豊後守が城主だった城が龍崖城といい、中世の城であったそうです。
その城主である大管豊後守の行水場であったといわれていることから、この井戸は龍崖城の場内にあったものと考えられているようです。
現在の龍崖城は堀などの遺構は残っているものの、縄張りなどははっきりとしていないようですが、龍崖城から200メートルくらいしか離れていないことと、先の故事により、やはり場内の井戸と考えるのが妥当でしょう。

もう一つの「星影の井」は直接的には城には関係しないようです。
天平時代、諸国を行脚していた名僧・行基が、鎌倉のこの井戸のある地で虚空蔵求聞持という修行を行いました。すると井戸の底に明星が輝き、中から黒く光る石が現れたそうです。行基はそれを虚空蔵菩薩の化身であるとして像を彫り、お堂を建てて安置し、そのお堂が現在も残る「虚空蔵堂」で、その横にこの「星影の井」があるそうです。因みにこの「虚空蔵堂」の正式名称は明鏡山円満院星井寺だそうです。
また、この「星影の井」には次のような言い伝えもあるそうです。
その昔、この辺は鬱蒼とした山深い場所だったので、、井戸の水面には昼間でも星が映っていた。ところが、ある日、村の女が水を汲みにきて、うっかり菜刀を井戸に落とすと星影が切れ、以後、井戸に星影が映ることは無くなった、という伝説です。
この「星影の井」の別名は「星の井」、あるいは「星月夜の井」とも呼ばれていて、星月夜は鎌倉の枕詞にもなっているほど、鎌倉に良く似合う井戸なのです。

二本松藩士自尽の地

最後はまた悲しい歴史です。
二本松藩士自尽の地 樹木の中にひっそりと石碑が立っていますが、ここが二本松藩士自尽の地であることを示している石碑です。

二本松藩士自尽の地
慶応4年(1868)戊辰戦争において、薩摩・長州・土佐藩兵を主力とした西軍約7,000名に対して、応援兵を合わせても兵力約1,000名の二本松藩は各所で戦いを繰り広げ、7月29日ついに城下・城内の戦いとなり、正午頃二本松城は炎上し、落城しました。
二本松藩の戦死者337名以上、負傷者58名以上、他藩の戦死者208名以上という戊辰戦争中最大の壮烈な戦いでした。
ここでは、主戦論者であった家老・丹羽一学、城代・服部久左衛門、小城代・丹羽新十郎の3名が責任を取り自尽(割腹)し、壮絶な最期を遂げました。
二本松市
(現地案内板説明文より)

本丸にも城代、勘定奉行の自尽の碑がありましたが、やはりここでもその胸中、幾許であったことでしょうか。
このような悲しい歴史を礎にして明治という新しい時代が生まれたのですから、決して犬死ではなかったということでしょうか・・・。
これにて霞ヶ城公園の散策を終え、再び菊人形展に戻ります。

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