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菊人形展 #2

半券を提示し、再び菊人形会場に入ります。
1時間近く会場を離れていましたが、戻ってみるとかなり人も多くなり、多少混雑し始めていました。まずは大河ドラマの後半です。

大河ドラマ「龍馬伝」

先ほどは「勝海舟との出会い」まで見ましたので、その続きからです。

◆タイトル「薩長同盟成立」
タイトル「薩長同盟成立」

薩長同盟成立
ある時は公武合体派が力を得、ある時は尊皇攘夷派が盛り返すという激しい抗争の後、西南雄藩の薩摩藩と長州藩は欧米列強との戦いを経て、藩論を開国、倒幕へと転換した。
そして、薩摩藩と長州藩との連合に、新しい国づくりを期待した坂本龍馬、中岡慎太郎らの仲介により、ようやく両藩首脳は和解し、慶応2年(1866年)1月22日、ついに反幕を旨とする同盟が結ばれた。
(現地案内板説明文より)

登場人物はいうまでもないことですが左から、西郷隆盛、小松帯刀、龍馬、桂小五郎です。
一介の脱藩浪人の龍馬がいかにして、この薩長同盟を成立させ得たのかが歴史の実に不思議なところですが、そのキーポイントは他のシーンでも現れたこの小松帯刀にあるようです。
小松帯刀は1835(天保6)年、薩摩国の喜入領主・肝付兼善の三男として誕生し、1856(安政3)年、吉利領主・小松清猷の跡目養子となって家督を継承します。1861(文久元)年、島津久光に才能を見出されて側近となり大久保利通と共に藩政改革に取り組み、1862(文久2)年には久光による上洛に随行し、帰国後は20代後半で家老職に就任したのです。そして藩政改革後、京都に駐在し朝廷や幕府、諸藩との連絡・交渉役を務め、参与会議等にも陪席するようになり、薩摩藩の重臣といして能力を発揮したようです。

具体的な功績としては、第1次長州征伐では長州藩の謝罪降伏の尽力して長州藩より信頼を受け、一方ではイギリスと薩摩の友好に尽力し、五代友厚らを密かにイギリスへ留学させたり、英国公使ハリー・パークスを薩摩に招き、島津久光と引き合わせたりもしています。そして、第1次、第2次の長州征伐により対立した長州・薩摩間の和睦においては、イギリスの駐日公使であるハリー・パークスと長州の高杉晋作との会談をさせ、薩摩や同じく幕末の政界で影響力を持っていた土佐藩を訪問するなどして西南の雄藩を結びつけさせのです。
その結果、長州の井上馨と伊藤博文を長崎の薩摩藩邸にかくまってグラバーと引き合わせ、その後、井上を伴って鹿児島へ行き薩長同盟の交渉を行い、京都の小松帯刀邸で、龍馬を介して西郷隆盛、小松清廉と長州藩の木戸貫治が倒幕運動に協力する6か条の同盟を締結させたのでした。そして、その後も、1867(慶應3)年には薩土盟約や四侯会議など、諸藩との交渉に関与したようです。
そのような背景の中で、龍馬とはその京都駐在中に懇意になったようで、亀山社中設立を援助したりその妻であるお龍の世話をしているようです。

このような功績を見ると、小松帯刀は薩長同盟を始めとして明治維新の真の立役者といっても良いような活躍であったと考えられるのです。ここから突き詰めていくと、パークスやグラバーとの関係、薩長名士との関係、そして後ろ盾と薩長同盟といったように、歴史的には龍馬の力によって生み出されたようなイメージですが、龍馬の後ろには常に帯刀が控えており、薩摩藩の重臣として表立って行えないことを龍馬に・・・、といったイメージが浮かんでくるのですが、いかがなものでしょうかね。
ただし忘れていけないのは、この帯刀は龍馬を相当かっていたらしく、明治新政府の組閣では西郷隆盛などよりも上位を考えていたようです。したがっていわゆる黒幕といったネガティブな存在ではないように思えます。
ちなみに日本初の新婚旅行を行ったとされる龍馬ですが、それよりも10年も早く鹿児島の霧島で新婚旅行を行ったのが、この帯刀といわれているそうで、こんなところにも龍馬の後を帯刀が後押ししているような気がします。

◆タイトル「寺田屋の変」
タイトル「寺田屋の変」

寺田屋の変
京都・伏見にある寺田屋は坂本龍馬が定宿としている船宿である。
慶応2年(1866)1月23日、深夜、坂本龍馬と三吉慎蔵は薩長同盟成功の話に花を咲かせていたらしい。
午前2時、京都守護職・松平容保の命令により伏見奉行所の捕方およそ100名が、寺田屋を急襲し、龍馬を逮捕しようとしたがお龍のとっさの機転で、大立ち回りの末、ヤットのことで寺田屋を抜け出し、一命は取り留めることが出来た。
(現地案内板説明文より)

このシーンでは、左側の2階に龍馬と三吉慎蔵がおり、1階に寺田屋の女将・お登勢、番頭がおり、土間に幕府役人が刀を振りかざしています。そして階段には、この変事を伝えようとお龍が階段を上るところです。
一般に知られている寺田屋事件では、この事変にいち早く気が付いたお龍は風呂から裸のまま階段を駆け上がり2階の龍馬らに危機を知らせたといわれています。と、いうことは・・・、まあ、どうでもいいですかね、細かいことは。
因みに京都にはこの寺田屋が現存しているのですが、実は再建されたものだったそうです。実際の寺田屋は鳥羽・伏見の戦いで罹災し、その後に再建されたのが現在の建物で、位置も当時の寺田屋の西隣に建てられたものであると、2008年に京都市が公式見解を発表していたそうです。全く知りませんでしたが、そうすると一般的に有名な「弾痕」や「刀傷」などというものは、全て作り物ということになりますが・・・。訪れた方はガッカリでしょうかねえ。 となると絶対に取材しているところがあるはずと調べたところ、やはりありました。「JanJan」というニュースサイトの2009年7月27日の記事です。一応参考リンクはこちらですが、きっといずれリンク切れとなるでしょうから、原文を引用させてもらいます。(問題あれば削除いたします。)

参考:【JanJan】http://www.news.janjan.jp/culture/0907/0907227537/1.php

伏見の旅籠「寺田屋」は史跡見物客で大賑わいだが、幕末に焼失・再建したのに、そうとは言わぬ経営者
矢本真人2009/07/27
昨年の9月頃だったと思う。「寺田屋騒動」、「坂本龍馬襲撃事件」の舞台になった、といっている旅館が、実は、その後に再建されたレプリカではないかという疑いが持ち上がった。その後の京都市の調査で、当時の寺田屋の建物は1868年の鳥羽伏見の戦いで焼失した、と判断された。そして、老経営者が「旅館」を廃業するというニュースも流れていたので、京都に寄った帰途、いま、どうなっているかと思い、寺田屋に行ってみた。
旅籠「寺田屋」は休日とあって、見学者があとをたたない(7月20日、矢本真人撮影) 「史跡寺田屋」は、休日のせいもあってか、若者から高齢者まで年代を問わず、見学者で賑わっていた。この寺田屋、大阪の京橋を発着する淀川の船便の船宿として栄え、寺田屋事件のころは薩摩藩士の宿として、また倒幕派の定宿としても使われていたそうだ。
1862年、尊皇攘夷派(急進派)薩摩藩士の有馬新七らが、関白九条尚忠、所司代酒井忠義を殺害しようと、ここ寺田屋に集まったが、一方で薩摩藩には島津久光を中心に公武合体の温和派がいた。温和派は、この殺害を阻止しようと藩士8人を寺田屋に送り込んで説得したが叶わず、乱闘になって急進派など9人が死傷する寺田屋騒動となった。
また、1866年には、定宿としていた坂本龍馬が暗殺されそうになり、風呂に入っていたお龍が、裸で階段の駆け上り、急を知らせたという坂本竜馬暗殺事件の舞台にもなった。
「寺田屋 坂本竜馬」の表札には、何やら営業臭さを感じる。400円で参観した。いまも旅館をやっているらしく、6500円の宿泊料が表示されている。
狭い部屋に、土産物がこれでもかこれでもかと並べられ、古文書や漢文の資料が多く展示されているが、解説もなく内容が分からない。その真贋まで疑われる。
営業魂旺盛な陳列であるが、一つだけ良心を示す資料が展示されていた。
「幕末の寺田屋 焼失確認」の新聞記事だ。それによると、京都市は古文書などの資料を調査し、鳥羽伏見の戦いで焼失したことを確認、いまの建物はその後、再建されたものと判断した。京都市はそれに基づき、誤解を与えないように展示の改善を要望している。これに対して寺田屋は「あくまで市の見解」とのコメントしている。
しかし、この記事に目を向ける見学者は、ほとんどいない。2階に上がり、柱の刀痕の跡を見ている見学者に、女性従業員が「当時、刀で斬りつけたときに出来た傷です。皆が指でこするので、こんなになってしまいました」と間違った説明をしていた。本物なら触らせない工夫がなされるはずだ。
竜馬がいたと言われる部屋もあるが、結構狭い。こんな狭い部屋で刀を振りかざして戦えるのかと疑問が出てくる(勿論、竜馬は逃げたのだが)。焼失した建物の部屋もこんなに狭かったのだろうか。
1階のお龍の入っていた風呂も面白い。「有名なお風呂です」と表示されているが、どうやって湧かしていたのか。ただ、風呂桶らしきモノが置かれているだけだ。その当時のまま保存されているのであれば、もっと風呂場らしいはずだ。
有名作家の小説に合わせたPRならまだしも、「寺田屋騒動」、「坂本竜馬襲撃事件」という歴史に基づく観光スポットを売りにするのであれば、このやり方はまずい。同行した娘に「これはすべてレプリカなのだ」というと、娘は「お父さん、大きい声で言うんじゃない」と顔をしかめた。
民間業者の経営を考えれば、本物らしく見せるのが良いのだろうが、「その当時の建物ではない」と目に見えるところに表示すべきである。京都市が要望する「誤解を招かないための改善策」が求められる。
(WEBサイト「JanJan」より)

・・・・・・・。

◆タイトル「大政奉還」
タイトル「大政奉還」

大政奉還
慶応3年(1867年)11月13日、将軍・徳川慶喜は、在京諸藩・重臣を召集し、大政奉還を決意したことを発表した。黒船来航以来、15年にわたり揺れつづけた政局が、最大の展開を見せた。大政奉還とは「天下の大政を決議する全権を朝廷に返上する」という事で、上奏文を朝廷に提出すれば早ければ15日の朝議によって、政権の返上が正式に認められ、今まで続いてきた武家支配の政治・670年に終止符をうつことになる。
(現地案内板説明文より)

ここでのステージでの主役はやはり徳川慶喜です。それ以外はすべて脇役です。江戸城の大広間での絵は一度は教科書などで見たことがある光景です。
倒幕の薩長と佐幕の会津・桑名などの明確なビジョンのない土佐藩にとっては、どちらかといえば佐幕寄りとも見られたスタンスでした。これを一気に第三の勢力として存在するために採った施策が大政奉還だったのです。
勝海舟や横井小楠らが思考した大政奉還は海舟の弟子である龍馬が提唱し、土佐藩の後藤象二郎が採用して土佐藩として幕府に建白書を提出したのでした。これは幕府を倒して政権を朝廷に返す倒幕派と幕府を擁護する佐幕派の中間で、幕府は守りながら政権だけ返上するという折衷案でしたが、裏には朝廷での政権担当能力はないため最終的にはまた幕府に政権を依頼するであろうとの、玉虫色の解決策でもあったようです。これにのって慶喜は大政奉還をしたのですが、このままでは大義を失い、結局徳川政権となり、存在意義も危うくなる可能性もあるとの思いから薩長は、大政奉還を無視して王政復古、戊辰戦争へと突き進んでいくのです。
歴史の大きな転換期です。まさに「その時歴史は動いた」!?

安達太良山 隣には安達太良山をモチーフとした菊の展示があります。地元の学校の生徒達によって造られたもののようです。

◆タイトル「船中八策」
タイトル「船中八策」

船中八策
我国の歴史上でも極めて稀な武力によらない政権交代が実現した。
土佐藩から出された建白書が後押しして、将軍・徳川慶喜が決断することになった大政奉還。この建白書の基となったのが、1867年6月、長崎から京へ向う土佐藩船・夕顔の船中で、海援隊隊長坂本龍馬が、後藤象二郎に示した「八策」である。その考えに共鳴した後藤は、それを藩主・山内容堂に提言。10月、容堂は幕府へ大政奉還を建白した。
(現地案内板説明文より)

いよいよ最後の「船中八策」です。
タイトル「船中八策」 夕顔に乗船しているのは、左から「陸奥陽之助」「菅野覚兵衛」「龍馬」「長岡謙吉」「後藤象二郎」「白峰駿馬」です。

「後藤象二郎」は土佐藩の重臣で、後の明治政府では大臣を歴任した著名人ですので、今更説明は必要ないでしょう。しいて言えば象二郎の娘婿は三菱財閥の総帥・岩崎弥之助で、三菱の岩崎小弥太と旭硝子の創業者・岩崎俊弥などは孫、さらに音楽プロデューサー・川添象郎とドイツ語学者・岩崎英二郎、評論家・犬養道子などは曾孫という土佐藩ということもあって、岩崎家とは縁が深いようです。

象二郎以外はすべて海援隊関係です。
「陸奥陽之助」は後のカミソリ大臣で有名な外務大臣・陸奥宗光で、勝海舟の神戸海軍操練所から海援隊に加わり、龍馬は宗光の非凡さを認めていたようです。
「菅野覚兵衛」と「白峰駿馬」は二人とも海舟の弟子、神戸海軍操練所に参加、そして海援隊参加した後に小松帯刀の計らいで二人ともアメリカ・ニュージャージー州のラトガース大学に留学し、「菅野覚兵衛」は帰国後海舟の紹介で海軍省に入省し、海軍少佐となります。一方の「白峰駿馬」は帰国後、白峯造船所を創立し経営者となるのです。
最後の「長岡謙吉」は、土佐藩の医者の家出身で鳴滝塾にてシーボルトに医学を学んだ経歴を持ち、海援隊の事務処理の殆どを任されていました。大政奉還後の龍馬の構想をまとめた「船中八策」を起草したのも謙吉だったそうです。
龍馬暗殺後、2代目海援隊隊長を務め、維新後は三河県知事、大蔵省、工部省に勤務した官僚であったようです。

最後にその八策です。
1、政権を朝廷に返すこと。1、上下の議会を置き、すべて公論に基づいて政治を行うこと。1、公卿・大名のほか世のすぐれた人材の中から顧問を選ぶこと。1、新しく国家の基本になる法律(憲法)を定めること。1、外国と新たに平等な条約を結び直すこと。1、海軍の力を強めること。1、親兵を設けて都を守ること。1、金銀の比率や物の値段を外国と同じにするよう努めること。
色々な見解はあるようですが、いずれにしても龍馬の人柄を否定する要素ではないようです。
ある意味多くの人々に愛された人物といえるのでしょう。

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