成田山

自宅をAM10:00前に出発してPM12:40分頃にやっと京成成田駅に到着です。実に約3時間かかりましたが、新幹線なら悠に大阪まで到着している時間です。
京成成田駅 京成成田駅 流石に「成田山」あっての駅らしく新年らしさと「成田山」のお膝元の駅です。

もっと混雑しているのかと想像していましたが、2日ともなるとそれ程の混雑も無いようです。

成田山表参道

駅を出てからそれ程広くない表参道を進みます。
成田山表参道 成田山表参道 比較的駅に近い、というか「成田山」に遠い参道には新しい店舗が立ち並んでいます。
ただ、昔の面影を残したような店舗が多いので参道の風情はなかなか良いようです。

下田康生堂 その様な中でも、こちらの「下田康生堂」という薬局のような屋号のこの店は八つ目鰻や川魚料理を食べさせるお店のようで、「八つ目うなぎ入荷しました」と書かれていて大層な行列ができていました。

このヤツメウナギは鰻とは名ばかりで「ウナギ」とは無縁の顎を持たない原始的な脊椎動物(厳密に魚類でも無い)で、単に体の両側に7対の鰓孔があり、それが一見眼のようにみえることから本来の眼とあわせて「八目」と呼ばれ、体が「うなぎ」に似ていたことからヤツメウナギと呼ばれるようになったそうです。
日本ではカワヤツメ・スナヤツメ・シベリアヤツメ・ミツバヤツメの4種類が生息しているらしく、カワヤツメと一部のスナヤツメが食用となっているそうです。
脂肪やビタミンAを多く含むため江戸時代のころから夜盲症の薬としてカワヤツメの乾物がでまわっていたようです。現在、産地の秋田県ではすき焼き風の煮込みか焼きで食するのが一般的で、かば焼きは浅草で八ッ目鰻蒲焼専門店があるくらいで、ここではどのように食べられるのか興味津々といったところです。
もしかすると元々ここは薬局で、薬としてのカワヤツメを扱っていたことから現在料理屋として八つ目うなぎを食べさせる店になったのかもしれませんね、勝手な推測ですが。そういった意味ではこの屋号も理解できるのですが。

手焼き煎餅 手焼き煎餅 その先には何というお店か失念しましたが、店頭のこのど迫力の煎餅の展示のある手焼き煎餅屋もまた印象深い店です。

成田山伽藍建造物 先に進み参道が下り坂になるところで、成田山の伽藍の建造物がちょっと見え始めると参道の雰囲気も変わります。
ちょうどここから写した写真の左側に先ほどの「下田康生堂」が写っていますが、ここには間違いなく漢方薬局と書かれているので、ここが本店かなにかで薬局がやはり本業なのでしょう。

所謂ウナギなどを主体とした老舗らしき店舗が増えてきます。
成田山表参道 但し建物は比較的新しいのですが美観を損ねることなく門前町の風情をかもし出しています。

大野屋旅館 そしてその先の左側には実際に歴史を感じさせる建物があります。「大野屋旅館」と右書きで屋号が書かれています。

建造物自体は築70年以上の建物で現在は登録有形文化財になっているそうです。最上階に望楼のある建造物が珍しい現在では貴重なものでしょう。
嘗ては旅館(当たり前・・・)で、当時宿泊客に出していた鉄砲漬けが好評で漬物販売店となり、その後、ウナギを食べさせる食事処となったようです。かなり興味深い歴史を持っているようなので、もう少し詳しく知りたいところですね。

そしていよいよこの辺りから境内に近づいてきたようで、入場制限のため一時停止が始まりました。
表参道からの総門 止まっては進み、進んでは止まるを繰り返しながらやっと「成田山総門」が見え始めめる場所まで進み、いよいよこれから境内となります。

成田山新勝寺

行きつ戻りつ・・・、戻りはしませんが入場規制のため渋滞化している参道からやっと総門までたどり着きました。
成田山総門 この総門は、開基1070年記念事業として2006(平成18)年に竣工したかなり新しいものです。総欅造りで高さ15mあり、2階部分に8体の木造仏が納められているそうです。

建造物自体に歴史は無いのですが、流石にその由来に歴史を感じます。

開基1070年と言われているように、そもそもこの「成田山」は平安時代中期に起きた平将門の乱平定のため、939(天慶2)年、寛朝大僧正を東国へ遣わしたことに起源を持つそうです。

開山縁起
成田山新勝寺は、天慶3年(940年)寛朝大僧正によって、開山されました。
寛朝大僧正は、朱雀天皇より平将門の乱平定の密勅を受け、弘法大師が敬刻開眼された不動明王を奉持し難波の津の港(現大阪府)より海路を東上して尾垂ヶ浜(千葉県 山武郡横芝光町)に上陸、更に陸路を成田の地に至り、乱平定のため平和祈願の護摩を奉修し成満されました。大任を果たされた大僧正は再び御尊像とともに都へ帰ろうとしましたが不思議にも御尊像は磐石のごとく微動だにしません、やがて「我が願いは尽くる事なし、永くこの地に留まりて無辺の衆生を利益せん」との霊告が響きました。
これを聞いた天皇は深く感動され、国司に命じてお堂を建立し「新勝寺」の寺号を授与し、ここに東国鎮護の霊場として「成田山」が開山されました。
(成田山オフィシャルサイトより)

平将門の乱平定と言う現実的な伝承と、不動明王像が動かないというスピリチュアルな伝承が見事に融合した縁起です。
しかし、この後の鎌倉・室町時代では殆ど何の記述も無いのですが、東国鎮護として室町時代はともかくとして、鎌倉時代に動向が無いということは、この2つの時代では、かなり衰退していたのではないかと推測されます。
この後、成田山が復興(と言う表現がふさわしいかどうかは別として)するのは江戸時代に入ってからで、水戸(光圀)黄門の参詣、市川団十郎の帰依、徳川将軍家から秘仏不動明王、二童子を賜るといったような背景の中、江戸時代では頻繁に成田不動尊の出開帳(現在の秘宝展)が行われ次第に成田不動は庶民の信仰を集め成田参詣が盛んになりるのです。
そして現在の繁栄のきっかけとなったのが、昭和のモータリゼーションの到来です。
元々は戦前自動車で旅行に出かけようとした家族が車の故障が起きないようにとの祈願で参拝に訪れたのがきっかけで、その後、自動車の性能が上がるにつれ、事故が起きないようにという所謂交通安全祈願のメッカとなったのです。
これが現在の成田山繁栄の基盤だったのです。時流と共に繁栄した寺院といえるでしょう。

境内の参道に入っても当然規制は続いています。
成田山仁王門 暫くすると石段の上に「仁王門」が見て取れます。この「仁王門」は1831(天保2)年に再建された重要文化財で、大提灯は約800kgあるそうです。

流石に歴史の重みのありそうな重厚感ある「仁王門」です。

仁王池 「仁王門」の手前には仁王池なる池があり、放生池として不殺生を教えているのだそうです。
中央には亀のような石が置かれています。

成田山本堂 「仁王門」を過ぎて更に石段を上がるといよいよ本堂となりますが、本堂前もこの人出です。

成田山伽藍 参道の右手に幾つかの建造物を見ることができます。

左側にあるのが見てのとおりの「三重塔」です。1712(正徳2年)年に建立された高さ25mの塔で、これも重要文化財です。
三重塔の板軒 特に軒の裏には通常、軒を支える棒状の部材である垂木を使用するのですが、この「三重塔」は雲文を刻んだ板で支える板軒で造られた珍しい塔なのです。

中央にある建物が「一切経堂」です。
1722(享保7)年に建立され、1809(文化6)年再建されたお堂で、堂内には輪蔵(回転式の経蔵)に納められた「一切経」約五千巻が奉安されていることからこの名称が付いています。
平成12年に全面的な修復工事が行われた成田市指定文化財です。
一番右側の「鐘楼」は元禄14年に建立されたものだそうです。
3つの建物がデザイン的に統一感をもたせながら、実に華麗な色合いを醸し出しています。

本堂への参拝客 まだ本堂までは辿り着けませんが、間口95.4mある大きな本堂です。1968年建立だそうなので歴史的な見所はありませんが、本尊不動明王像を安置し、成田山の大本山にふさわしい本堂といえるのでしょう。まるで本堂に飲み込まれているような風景です。

そしていよいよ参詣の番がきました。おおよそ総門から30、40分位かかりましたが、昨日の1日に比べると随分少ないのでしょうか。
本堂内 完全に賽銭箱は埋没しています。「賽銭箱はここまであります」の張り紙が正月らしい雰囲気を伝えています。

何とか参詣を済ませませて、その賽銭箱を横から見ればこの長さとこの人たちです。
本堂内賽銭箱 ただ明治神宮や昨年の浅草寺などの特設の賽銭箱(と言うよりは賽銭場)ではなく極々一般的な賽銭箱が置かれているのは、2日だからでしょうか、それとも参詣者が減っているのでしょうか。

いづれにしても若干参拝客第2位にはふさわしくない賽銭箱にちょっと拍子抜けでした。

本堂内 本堂内では護摩祈祷が行われていますが、確かに写真見る初詣とはかなり人数が少ないようです。

やはり2日となるとかなり参詣者が少なくなっているのですね。

境内の参拝者 本堂を出て参道を見ると、少ないと言えどもまだまだ参詣者で参道は埋め尽くされています。

本来ならここから境内を散策するところですが、今回は交通時間と混雑と空腹で家族一同疲れが出てきたので散策は止めて、まずは遅い昼食をとるために参道に戻ることにしました。
歴史的な見所もまだまだたくさんある「成田山」ですが、今回はこれまでということになります。

成田山土産

境内から表参道に戻ります。
PM2:00過ぎで参道は若干帰る人が徐々に多くなっている感じですが、まだまだ参詣に訪れる人も多いようです。
昼食はここまでくればやはり「うなぎ」しかないでしょうとばかりに鰻屋を探すことにしました。

鰻福亭 今回は全く予備知識無しなので、何処が良いのかわかりませんが、目に付いたお店の軒先に「当店オススメ うな・そばセット 鰻と蕎麦が食べれて1000円」というコピーに惹かれて「鰻福亭」というお店にしました。

勿論、蕎麦と鰻と言う一石二鳥に・・・、と言うよりはやはりリーズナブルな・・・、といったところです。

子供たちは贅沢にうな重と鴨南蛮そばで、親たちは「うな・そばセット」という家庭内格差があるにしても、まあ空腹なら何でも美味いとばかりにオーダーしました。
かなりお昼から時間がずれているとはいへ、まだまだ店内は混雑していて特に蕎麦の注文に時間がかかっているようです。

待っている時間を利用して成田とうなぎについて調べてみたいものです。これだけ鰻店があるのですから、それなりの由来があるのではないかと思うのですが・・・。
鰻料理、特に蒲焼は江戸発祥と言われ、一説には埼玉県さいたま市(旧浦和市)が発祥とも云われているように、個人的にも鰻にはなじみが深いのです。
さてその成田とうなぎの由来ですが、江戸時代に成田詣でが盛んになった頃、門前町の旅館では宿泊客に利根川と印旛沼の水産物を提供していたことに始まるようです。したがって当時はうなぎ料理と言うよりは川魚料理といったところでしょうが、江戸で平賀源内のキャッチコピーによりうなぎの人気が高まったことから、ここ成田でも夏場のうなぎ料理を売り物とするようになったのです。したがって記録的なものは無いにしても歴史的にも江戸時代からのうなぎということで由緒あるうなぎの町と云えそうです。

そして現在この僅か800mの成田山参道に旅館・料理店が軒を連ねているのは通ってきたとおりですが、そのうち約60店がうなぎ料理をメニューに取り入れているそうです。これだけうなぎ密度が高いのですから、現在でも十分うなぎの街なのです。
そしてそのうなぎの街のシンボルが毎年7月中旬から8月中旬にかけて開催されている「うなぎ祭り」なのだそうです。この祭りではうなぎ専門店はもとより、ホテルやフランス料理店なども参加し個性的なうなぎ料理を提供しているそうです。変わったところでは、うなぎチーズケーキ・うなぎアイスクリーム・葱と甘味噌の鰻のせジャージャー麺・うなぎピザ・うなぎチャーハン等があるようです。
さいたま市(旧浦和市)での【浦和のうなぎ】のような一ヶ所でのイベントではなく街全体のイベントとして実施されているのも興味深いところです。

成田のうなぎの歴史が理解できたところで、まず出てきたのはうな重です。
鰻福亭の「うな重」 肝吸いと香の物が付いて1400円ですから結構リーズナブルです。うなぎも結構大きく食べ応え十分のようです。

そして暫くして、やってまいりましたうな・そばセットです。
鰻福亭の「うな・そばセット」 鰻は半分ですが、それでもボリュームは結構ありそうです。

それ程肉厚ではありませんが、香ばしく少し硬めです。硬めといってもグズグズではないと言う程度で、味・食感共に良好です。
蕎麦はかなり細い蕎麦ですが、それなりにコシもあり私の好みのやや甘めの出汁と相まって中々結構です。これで1000円ですから、十分元は取れるでしょう(・・・やはり打算的)。
他のお店で食べていませんから比較はできませんが、十分満足できる良心的な店舗と云っても良いのではないでしょうかね。

お腹も満たされて表参道をブラブラとお店を見ながら帰路につきます。
成田山三大土産 そしてついつい購入したのが、この成田三大土産(勝手に命名した)です。

その一つは右下の丸い器の「ピーナッツハニー」とこじゃれたネーミングがされていますが、私にとっては味噌ピーです。
現在では何処のスーパーでも味噌ピーが置かれていますが、20、30年前までは見かけることはなかった記憶があり、当時は良くお土産で食べていてかなり好物でした。
今では何処にもある味噌ピーと何ら変わらないだろうと思いながら購入したのですが、やはり本場は違うのか明らかにスーパーの味噌ピーとは格段に味、食感が違います。甘さも砂糖というよりは文字通りハニーのような上品な甘さと、グズッと崩れる柔なピーナッツではなく、きっちり主張するピーナッツの程よい堅さ、そして量。これらが一体となったとに生まれるハーモニー・・・、と言うほど大げさなものではありませんが、スーパーのものより数段美味しいのは確かです。

ここでそのピーナッツの美味しい理由を調べてみます。
ピーナッツ=落花生の生産について、2004年時点での剥き実生産の県別の生産量では千葉県が全国の74.6%を生産し突出しており、まさに落花生の一大産地なのです。更に千葉県のなかでも千葉県中央部の八街市が生産量で日本一を誇っているようです。
日本で最初に落花生が栽培されたのは1871年神奈川県大磯町の農家と言われており、それから遅れること5年後の1876年千葉県でも栽培が開始されたそうです。ちょうど明治初期の頃です。したがって現在日本で生産されている主な品種としては、千葉半立・ナカテユタカ・郷の香・フクマサリ(千葉県農試育成)、立落花生一号・改良半立(神奈川県農試選抜)と千葉県と神奈川県産が殆どなのです。
特に「千葉半立」という品種は、香りが良くて味にコクがあるのが特徴なので、より美味しく落花生ですが、これは昭和21年に当時の鉢街町と誉田村で、従来とは全く姿の違った背丈の低い半立種が見つかり、それを千葉県農業試験場で純系分離して生まれたのが「千葉半立」なのです。そして先の通り味の良いことが評判となり、落花生と言えば八街といわれるほどになったのです。
では何故スーパーなどの落花生が不味いのかと言うと、これは価格を抑えるために中国産が使用されているからのようで、山東省、河北省、天津市産を使用しているからなのです。因みに南京豆の別称をもつ南京・華南の落花生は小粒なものが多いそうです。
いずれにしてもこうした理由から美味しい落花生を食べるなら千葉産の落花生と言うことになるわけなのです。

2

つ目は左側の「ピーナッツ最中」です。ここで注目なのはピーナッツではなく最中なのです。この最中を生産しているのが「米屋」という企業です。
この「米屋」は、創業者の諸岡長蔵氏の母なつが、成田山新勝寺の精進料理「栗羹」からヒントを得て、小豆と砂糖、下総台地の芝栗を入れて造った練り羊羹を参拝客に提供して大好評を博したことから始まり、これが現在の「栗羊羹」のルーツとなった成田が発祥の羊羹を製造・販売している企業なのです。
明治・大正時代の文豪 夏目漱石も『草枕』の作中において、「玉と蝋石の雑種のよう(どう見ても一個の美術品だ)」とこの羊羹の美しさを表現しているそうです。
その「米屋」の「ピーナッツ最中」は米屋の得意とする餡と地元の食材落花生を融合した、まさに成田の味なのです。形だけかと思いましたが、実際にピーナッツが入っていて現代でも上品な甘さの口当たりの良い餡でした。

最後の3つ目は「ヨーグルトろーる」です。所謂ロールケーキなのですが、クリームの代わりにヨーグルトクリームが巻かれていて、非常にさっぱりとした甘いものの苦手な人でもOKといった感じのロールケーキです。しかもスポンジ部分が実にしっとりしていて、あのパサパサ感のない、実に食感の良いケーキです。
この「ヨーグルトろーる」を販売しているのが成田市にある成田ゆめ牧場という牧場です。もともとこの成田ゆめ牧場は今から約120年以上前の1887(明治20)年に、東京都江東区砂町に開業された「秋葉牧場」を前身としています。
この「秋葉牧場」は、搾乳専業牧場として操業していた牧場で、1937年、千葉県八千代市に移転後、1976年、千葉県香取郡下総町名木(現在地:成田市名木)に移転しました。
そして1987年、現在地に秋葉牧場開設100周年記念事業として成田ゆめ牧場を開設し、観光牧場を経営する傍ら牛やヤギなど多数の動物を飼育し乳製品やチーズ・ケーキなどのシーツの製造・販売を通じで、生産者が消費者と直接交流するという、地域の子供たちへの食育にも繋がると言うこだわりを持った牧場に転換したのです。
このように120年以上の歴史ある牧場でのこだわりの「ヨーグルトろーる」なのです。他に搾り立ての牛乳で造られたマシュマロ「ウシマロ」など様々な拘り製品を作り続けているのです。

このように、ここ成田山の参道では、成田ならではの個性的な商店が軒を連ねているのです。

金時の甘太郎 最後に常に行列の絶えない(行きも帰りもという意味で・・・)「金時の甘太郎」で約20分ほど行列しながら甘太郎を買い求めました。

シンプルな黒餡と白餡の2種類しかありませんが、焼きたてと言うことと安いと言うことで行列ができているようですが、決して不味くはありませんが、特に味として傑出しているようでは無いようです。
ある意味ではこれも店の特色なのかもしれません。

駆け足で巡った(参詣した)「成田山」でしたが、参道も境内もまだまだ見所はたくさんありそうです。機会があれば、じっくり散策できる機会を持ちたいと思うほどです。
初春から、この1年の散策が楽しめるような、そんな気にさせてくれる初詣でした。

2011.1.3記

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