足利学校 #2

字降松の先には方丈が見えますが、先ずはすぐ目の前にある建物に向います。
それにしても今までは寺院の散策が多かったのですが、学校というちょっと趣の変わったところだけに、今までの散策とは違った歴史が味わえますね。

孔子廟

杏壇門 扁額「杏壇」 ここにある門が由来にあった「杏壇門」で、この全体が聖廟なのでしょう。

孔子廟
孔子廟は、儒学の祖の孔子をまつる廟で、聖廟とも呼ばれています。大成殿を囲んで築地塀をめぐらせ、正面に杏壇門を開いています。
大成殿は、寛文8年(1668)に建てられました。正面5間、側面6間、屋根は寄棟造で本瓦葺、周囲に裳階と呼ぶ庇を付けています。内部の正面中央に孔子像、右に小野篁像、左に徳川家康の神位などを安置しています。
杏壇門は、明治25年の大火で焼けましたが、焼け残った部材を用いて5年後に再建されました。
この聖廟で、孔子とその高弟の顔子・曽子・子思子・孟子を祀る釈奠という儀式が毎年行われます。
(現地案内板説明文より)

杏壇とは、山東省曲阜にある孔子が弟子に学問を教えた教授堂(講堂)の址のことで、この跡地を瓦敷きにして壇(高台)とし、周囲に杏を植え、中国金国の文人である党懐英が「杏壇二字碑」を建立したところだそうです。そしてその後、そこに門扉が設けられ、杏壇門の名称が付けられたことから、孔子廟の門を「杏壇門」というようになったそうです。
また、「大成殿」もまた中国孔子廟の正殿の名称で、中国の「大成殿」の中央に孔子像を祀り、左右には四配として孟子・顔子・曽子・子思子の四賢人を祀っているそうです。
そのようなことから、ここ足利学校では四配の儀式が行われているようです。

大成殿 早速孔子廟に入ると正面に「大成殿」がどっしりと鎮座しています。

境内の両側には先ほどの著名人の方が植樹されているようです。
東郷平八郎手植えの月桂樹 これは先のリストにもあった東郷平八郎手植えの月桂樹です。

そのほか、元帥・海軍大将の伊東祐亨、海軍中将の上村産之丞の手植えの月桂樹があり、特に海軍との繋がりが深いのでしょうかね。

不断梅 またその隣には「不断梅」なる梅ノ木が植えられています。

これは常に実が絶えることが無い梅ノ木という意味で命名されたようです。

「大成殿」は多少中国風の味付けが感じられる和風の建築物です。
特に文化財にはなっていないようですが、それなりに歴史を感じさせてくれます。
扁額「大成殿」 そして扁額もまた、それなりの重みを感じさせてくれます。

木像 孔子坐像 木像 孔子坐像 中央に祀られているのが孔子像です。

県指定文化財 木像 孔子坐像
寄木造 玉眼嵌入 室町時代 天文4年(1535)
頭巾をかぶり、儒服を着けた像です。弟子たちの教育にあたるこの姿は「行教像」といわれます。像の背中と底の内部の内側の部分に墨書きの文字があり、当時の足利荘の代官長尾憲長など造像に関わった人の名や、当時の学校の様子が記されています。
日本最古の孔子の彫像として、また、足利学校の歴史を語る資料としてたいへん貴重です。
「文化財保護のため、孔子坐像は複製を展示しております」
(現地案内板説明文より)

日本最古の像であるとはまた貴重なものでしょう。
何かの折には本物を展示することもあるのでしょうね。

木像 小野篁像 木像 小野篁像 その右隣が小野篁像です。

市指定文化財 木像 小野篁像
寄木造 玉眼嵌入 江戸時代中期 延享3年(1746)
小野篁(802から852)は、平安時代の公家・歌人で学問にすぐれ、野相公とよばれた人です。足利学校では江戸時代に、小野篁を創健者とする説がとられていました。
本像の制作にあたり、小野篁の子孫という江戸時代の儒官人見活(号雪江)(1687から1759)が、金一封を学校に寄進したことが『足利学校記録』 (延享3年【1746】8月19日条)に記されています。
(現地案内板説明文より)

小野篁は百人一首にも登場する著名な人ですが、祖先にあの遣隋使で名高い小野妹子がおり、孫がまた有名な三蹟の一人小野道風で、若干辻褄が合わないようですが小野小町も孫だと言われているそうです。
その小野氏が江戸時代までは存在していたとは驚きです。
大成殿をお参りして孔子廟を後にします。

南庭園と裏門

孔子廟を出てから、字降松の先に見えた「方丈」に向います。
近くによるとその大きさに少し驚かされます。
方丈 方丈 残念なことに復元ですから歴史そのものは感じませんが、やはりそこはかとなく漂ってくる重厚感、荘厳さといったものは感じます。

方丈の玄関 現在、ここからは入れませんが、ここが玄関のようです。
茅葺の屋根が当時の空気を伝えてるかのようです。

南庭園 「方丈」の前には綺麗な庭園を見ることができます。

南庭園
足利学校には、方丈の北と南それぞれに池の庭があります。この当時一般に行われていた書院庭園の形態をもつ築山泉水庭です。
この庭は、湧き水をたたえた池の入り組んだ汀と巨大な立石、それにかぶさる松が特色です。三つの峰をもつ築山は比較的高く、池の水面から3メートルほどもあり、池に映えてよく調和しています。
発掘調査の結果と江戸時代の絵図によって修復しました。この整備の資料として用いた絵図は、精密で色彩も美しいものであり、庭の築山やそれぞれ植木などは絵図により復原したものです。
(江戸時代中期の姿に復原)
(現地案内板説明文より)

今は真冬ですから寒々しいイメージですが、新緑や紅葉の季節は美しい姿を見せてくれるのでしょう。所謂、現代で言うところのキャンパスでしょうか、昔も今と変わらず語り合いの場であったり、癒しの場でもあったのでしょうかね。
個人的にもキャンパスとは懐かしい響きです。

南庭園からの方丈 庭園越に見る「方丈」もまた一興でしょう。

ここからの順路は一端「方丈」とは、反対方向へ向います。

裏門 すると4つ目の門を見ることができます。「裏門」です。

裏門
足利学校の門は、位置や名称が江戸時代に入って何回か変わっているようです。正門は、学校門で、江戸中期に中門と呼ばれていました。主に、日常使う門が、この裏門でした。
学校の裏に位置しないにもかかわらず、この門がなぜ裏門と呼ばれたか明らかにではありません。
間口8尺の薬医門で、屋根が切妻造の茅葺です。両脇に目板瓦葺の屋根をかけた袖塀が付いています。
発掘調査によって、砂利敷きの通路が門から主屋の玄関や脇玄関へと伸びている様子がわかりました。
(宝暦年間の姿に復原)
(現地案内板説明文より)

確かに位置的には正門である「学校門」と並列にあり、更に同じ方向を向いていますので「裏門」とは言いがたい場所にあります。まあ、単純に「正門」に対しての「裏門」という捉え方でしょう。
濠 「裏門」のすぐ横が濠になっていて、何となく長閑な景色です。

サエンバと衆寮

サエンバ 「裏門」から左側へまわると「サエンバ(菜園場)」と呼ばれる農地のようなところがあります。

サエンバ(菜園場)
絵図にサエンバとあるのは、「菜園場」のことと思われます。
ここでは、日々の食膳に必要な材料となる大根、ごぼうその他の野菜、栗や柿など果樹、茶や薬草を栽培し、ときには花なども楽しんだと思われます。
足利学校の学生は、僧籍に入り僧となりました。学生として学問に励むことは無論のこと、清掃、洗濯、野菜作りや料理など日常生活の全てが修行でした。
(江戸時代中期の姿に復原)
(現地案内板説明文より)

「中国楊貴妃の墓所の牡丹」と「中国太原市双塔寺の牡丹」 今は特に野菜類は植えられていませんが、中央に「中国楊貴妃の墓所の牡丹」と「中国太原市双塔寺の牡丹」とかかれた牡丹の苗が植えられています。

牡丹といえば玄宗皇帝と楊貴妃の物語からも伺えるように、楊貴妃という牡丹の名称があるほどなのですが、「双塔寺」の牡丹とは如何に…。
「双塔寺」とは1608年に建造された中国の寺院で、高さ約50mのレンガ造りの塔が2つあることから「双塔寺」と言われたそうです。その境内には牡丹やライラックなどが咲き、特に明の時代の「紫霞仙」と呼ばれる大変美しい牡丹があることから、この牡丹を植えたのではないかと思われます。
楊貴妃でも双塔寺でも、どちらにしても中国の香りが満載された牡丹と言えるでしょう。

上杉憲実公顕彰碑 「サエンバ」の隣には「上杉憲実公顕彰碑」があります。

先の足利学校由来によれば、「…永享年中、上杉憲実は、乱世の中にも僧快元を招き、学領を寄進し書を献じ学規を定めた。 」とありました。
この上杉憲実については、足利荘の歴史とも深く関わっています。
尊氏までの足利荘については前述した通りなのですが、尊氏が室町幕府を樹立させると足利氏発祥の地として足利荘は重要視されるようになりました。しかし、幕府が足利荘から遠く離れた場所であったことから幕府の直接管理が不可能のため、代わって鎌倉府が管理したのでした。
この鎌倉府とはもともと尊氏が足利基氏を関東統治のために派遣したのが始まりで、当時幼なかった基氏を補佐するために執事を置いたのですが、京都でも将軍の補佐をする執事がいたため、これと区別するために関東執事と呼ばれていたそうです。
これが後に関東管領と呼ばれるようになるのです。

当初、初期における関東管領は斯波氏、畠山氏が就任していたのですが、次第に上杉氏が世襲していくことになります。この間には様々な乱や合戦が起きるのですが、要するに本来鎌倉府を補佐すべき関東管領がこの足利荘の管理を巡って鎌倉府と対立をしたということなのです。
最終的に足利荘は関東管領の上杉氏が管理することとなり、その代官として長尾景人が足利に派遣されたという歴史になるのです。この足利荘の歴史はこの後も山内上杉家足利長尾家による体制で戦国時代末期まで続くのですが、1584年の北条氏による足利占領により足利荘は終焉を迎えたのでした。
こういった時代背景のなかで、足利学校が再興されたということになりますが、何をおいてもやはり尊氏が将軍となったことが一番の足利学校勃興の理由なのでしょう。

衆寮 顕彰碑の左側には長屋のような建物があります。「衆寮」だそうです。

衆寮
衆寮は、僧房または学生寮です。学生が寄宿し、あるいは遠くから通う学生が寄宿し、あるいは遠くから通う学生が写本をするために泊まったと思われます。
桁行8間、梁間2間半、屋根は切妻造で板葺、外壁は上が土壁の漆喰仕上、下が板張です。内部は、6畳の間に、1間の土間がついて一部屋になり、それが四部屋続く長屋となっています。
発掘調査の結果、堀の中から多数の灯明皿が出土していることから、夜の闇の中で灯明をともし、学問に励んだ様子をうかがうことができます。
(宝暦年間の姿に復原)
(現地案内板説明文より)

最盛期には学徒3000人といわれていたのですから、実際はこれが何棟かあったのでしょうか。
そこで興味を引かれるのが、一体どのようなシステムだったのかということです。これは足利学校のオフィシャルサイトに記載がありますので、かいつまんでみます。

◆学生は全国から集まり学生の大半は僧侶ですが、僧侶以外の俗人は僧侶の学徒名が付けられたそうです。校長は当時の学問のトップレベルにあった学問僧が任命されたようです。
◆当初は入学資格は無かったのですが、途中から僧籍を持つことが資格となったようです。しかし、僧籍の無い人は寺で借りて、卒業するときに返還していたそうです。
◆入試は無かったようですが、だからといって誰でもというわけではなく、校長の裁量次第だったようです。「裏門」はありましたが裏口があったかどうかは定かではありません。
◆現在の入学金と同様、当時は「束脩」という金銭や飲食物を師匠にたいして納めたそうです。脩とは元々干し肉の束10組のことで、古代中国で入学・入門時に師匠に謝礼として納めた風習があったことに由来しているそうです。
◆学費はなく、学校側が食事と宿を提供していたようです。
◆上杉憲実が定めた校則「学規三条」がありました。
1.足利学校で学ぶべき学問の内容や規則を守らない学生の在校を許さない
2.就学に不熱心な学生の在学を許さない
3.学生は入学に際して僧侶の身分となる
◆カリキュラムは儒学が中心で、易学(占い)を重視し、戦国期には兵学も学ばせたようです。現在のような時間割は無く、自学自習が基本のようで、中国の古書を教科書としてそれを書く写して学生は学んでいました。
◆現在の教育機関のように年制はなく、自分の学びたい学問が終わったら生徒は帰ったそうです。したがって長い人では10年以上、短い人では1日の在学という具合に、自分自身が納得するまで学んだところが卒業だったようです。
◆特に他には類を見ない良い教科書が揃っていたことと、良い教師が教えていたことから、自然と多くの生徒が集まってきたそうです。

特徴はあくまで自由裁量で勉学ができるというところでしょう。ここでは自学自習と言っている事からも判るように、現代の学歴社会のための学校ではなく、あくまで個々人の高い志を達成するための学校と考えれば良いのかもしれません。
イメージとしては現代の欧米の大学に近いのでしょうか。

衆寮 一途に学問に励むことを褒め称える中国の故事が由来である「蛍の光 窓の雪」ですが、現実的にはやはり人工の明かりですが、一生懸命学習していたのは間違いないでしょう。

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