足利学校 #3

ここからいよいよ主屋である方丈に入ります。
ずっと勘違いをしていたのですが、先ほどの衆寮をみるまではてっきりこの主屋で学問を習うのかと思っていました。
やはり主屋としての使われ方をされていたようです。

庫裏

庫裏 主屋に入るには、先ほどの方丈の正式な玄関からは出入りができませんので、庫裡の方が玄関となっています。

方丈、庫裡、書院等
主屋は、左の方丈と右の庫裡、書院を玄関と北廊下でつないだ建物です。
方丈は、6部屋からなり儀式や行事に使われました。庫裡は、竈のある土間、板敷の台所、畳敷の四部屋からなり日常の生活空間でした。書院には床、棚、付書院が設けられ、庠主の接客の場所などに用いられました。
屋根は方丈と庫裡が茅葺、書院が板葺、玄関が本瓦葺です。方丈の棟の高さは13.8メートルもあります。造りは質素ながら栂普請で、当時木目や色合いが愛されたトガ材を長押などに用いています。天井には、美しいヒメコマツの天井板を張っています。
(宝暦年間の姿に復原)
(現地案内板説明文より)

早速庫裏に入ってみます。
庫裏内 綺麗に磨かれた床が現代の珍客を喜んで迎い入れてくれているかのようにキラキラと輝いています。

庫裏内の竈 右側の土間にはこのように竈が設えられています。それなりの人数分を作っていたのでしょう。

勿論、現在と比べれば質素であっさりとした食事だったでしょうが、それでも学問の最中の食事は楽しみだったのでしょうかね。

ここからは当然靴を脱いであがります。

扁額「学校」 板敷きの間には、先ほど見てきた「学校」の扁額が展示されています。

扁額「学校」
寛文8年(1668) 蒋竜渓 筆 上左兵衛尉狛高康 縮模 土井能登守利房 寄進
扁額「学校」は寛文8年以来のもので孔子廟とともに現存する最も古いものの一つです。当時足利学校には蒋竜渓(一説には明の公使)による「学校」の書があったのですが、新しい門に掛けるには大きすぎたため書家として知られていた上左兵衛尉狛高康に縮小模写を依頼し、この扁額が完成しました。
現在の門に掛っている扁額はこれを元に複製されたものです。以来、扁額の掛けられている中門は学校門と呼ばれ人々に親しまれています。
(現地キャプションより)

扁額「杏壇」 そしてもう一つ「杏檀」の扁額です。

扁額「杏檀」
天保14年(1843)徳川治宝 筆
扁額「杏檀」の二文字は紀伊従一位前大納言徳川治宝(和歌山藩10代藩主)の筆によるもので、天保14年5月24日に足利町の小林彦右衛門らによって寄進されました。この扁額は明治25年、足利町に起きた大火の折黒焦げとなってしまいました。現在の門にある扁額はこれを元に複製されたものです。
「杏檀」とは杏の木の多く生えている高台という意味で、孔子が弟子に教えを説いた場所をさすようになり、さらには広く学問・研究をするところを意味するようになりました。
(現地キャプションより)

「学校」の扁額は、それなりに時代を経たことが判るような、多少ボケていながらしっかりとした扁額ですが、「杏檀」に方は、良く残ってくれました、とでも言いたくなるような炭になるのを間一髪免れたような扁額です。
これはこれで別な意味で貴重でしょう。

「上杉憲実」像 その横に展示されているのが「上杉憲実」の像です。
足利学校中興の偉人です。

以上が庫裏で、この先からが方丈となります。

方丈

左手にある廊下を進むと先に見た脇玄関になります。
脇玄関の孔子+四配 ここには賢者の像が5体鎮座されています。

左から、孟子、曾子、孔子、顔子、子思子で、孔子廟で知った孔子+四配のオールスターキャストです。

玄関 その隣が玄関ですが、特に何があるという玄関ではありませんが、良く考えれば畳敷きの玄関というのも珍しいでしょう。

方丈内 その先が広い「方丈」です。

主に儀式や行事に使用されていたと言うことから、現在の講堂的(一般的な大学では)な存在かもしれません。
現在でも行われている儀式、行事があるようです。
儀式としては「釋奠」という孔子を祀る儀式で明治40年ころからは記録に残っているそうです。また、行事としては「曝書」という、貴重な書籍を虫干しする行事で、江戸時代のころから行われていたようです。(詳しくはオフィシャルサイト)

南庭園絵図 方丈から見た南庭園 ちょうど先ほどの「南庭園」が見える場所に、案内板にあった絵図が置かれています。
実際の風景と比べると箱庭的でかわいらしい庭園に見えてきます。

欹器図 方丈の突き当たりの角に「宥座の器」というものが置かれており、その手前に「欹器図」なるものの説明があります。

欹器図
史跡足利学校蔵
紙本墨刷 縦56.2cm 横77.4cm 江戸時代寛政3年(1791)
孔子が魯の国の桓公廟に行くと、金属の器である欹器(斜めに立つ器の意)があった。
役人に問うと「座右の戒めをなす器である」という。
孔子は「宥座の器は、水が空のときは傾き、ちょうどよいときはまっすぐに立ち、水をいっぱいに入れたときはひっくり返ってしまうと聞いている。」と述べると、果たしてその通りだった。
孔子は「いっぱいに満ちて覆らないものは無い」と慢心や無理を戒めた。
画面左下の銘文によると、この画題を好んだ北越の人内藤北涯が模刻し、幕臣で文学者として活躍した太田南畝(1749から1823)がそのことを記した作品である
(現地キャプションより)

人類の永遠の課題の一つといっても良い、いわゆる腹八分目ですね。まあ、食べ過ぎて太ってしまうくらいのことは笑い話で済みますが、これが金や権力となると話は違ってきますね。
いつの時代も出来そうで出来ない戒めですが、流石に孔子は目の付け所が違うと感心するところですが、これを考えた魯の国の桓公(なのかどうかはわかりませんが)にも感心しきりです。

宥座の器 そしてその前には欹器図を元に作られた欹器があります。題して「宥座の器」です。

宥座の器
「体験してみよう」
この「宥座の器」は、孔子の説いた中庸ということを教えるものです。
よく言う言葉に腹八分目というのがあります。
人は食べ過ぎれば、お腹をこわします。といって、食べ足りなければ、体力がつきません。食べ過ぎもせず、食べ足りなくもない、腹八分目の状態が理想なのです。
それを中庸といいます。
この器に、水を少しずつ、ゆっくりと入れてみて下さい。傾いている器がだんだん水平になってきます。
更に、入れつづけると、器は傾いて、水はこぼれてしまいます。
入れ足りなくてもだめ、入れ過ぎてもだめ。ちょうど、よい分量のとき、器は水平を保ちます。
これを中庸というのです。
(現地キャプションより)

欹器図を具現化したものが宥座の器ということで、これは国の現代の名工に選ばれている針生清司氏という方が製作されたもので、名前の部分の形は孔子廟の大成殿の形だそうです。
確かに試してみれば「成程」というべき模型です。

反対側には仏殿があります。
尊碑室 仏殿の左隣が「尊碑室」で、歴代の徳川家将軍の位牌が納められています。

徳川幕府歴代将軍の位牌
第9世庠主閑室元吉和尚(別号は三要)は、家康の信任が厚く、有名な関が原の合戦では家康に従って陣中で盛んに易を立て、戦いに役立てました。幕府では寺社職(後の寺社奉行)や外交関係の政策を任されたほか多くの御用を仰せ付けられ亡くなるまで家康の側近くに仕え、重用されていました。
足利学校は、このように閑室元吉と家康との結び付きが強かったことから、幕府より100石の朱印地を賜り、庠主は幕府の任命制となっていました。
その後も徳川幕府により建物の修復費用を下賜されるなど、足利学校は特別な保護を受け続けました。これらのことなどから、徳川幕府歴代将軍の位牌を安置し、礼拝することになりました。
※徳川家康(東照大権現)の位牌は隣の仏殿の間、脇仏壇に安置されています。
大猷院殿贈正一位大相国(3代 家光)
厳有院殿贈正一位大相国(4代 家綱)
常憲院殿贈正一位大相国(5代 綱吉)
文昭院殿贈正一位大相国(6代 家宣)
有章院殿贈正一位大相国(7代 家継)
有徳院殿贈正一位大相国(8代 吉宗)
惇信院殿贈正一位大相国(9代 家重)
浚明院殿贈正一位大相国(10代 家治)
文恭院殿一品大相国公(11代 家斉)
(現地キャプションより)

朱印地100石は、それなりに重用されたということでしょう。因みに東京都の神社で100石というと港区の愛宕神社がそのようです。
位牌は各地にあるので特に驚くことも無いのでしょうが、何故全ての将軍の位牌がないのかが気になりますが。

その隣が仏殿です。
徳川家康の位牌 こちらが家康の位牌です。やはり扱いが違うのは当然でしょう。

曲碌 手前に見える椅子は「曲碌」といそうで、禅僧の導師が説法や法要で使う椅子だそうです。

ジオラマ そしてその隣の間には足利学校のジオラマが置かれていました。

書院

方丈から渡り廊下を通って進むと左側に庭園が現れます。
北庭園 こちらが先の説明にあった「北庭園」です。

北庭園
奥の庭として、南庭園より格が高く、大きく、方丈、書院から鑑賞するように造られています。形式は、南庭園と同じく築山泉水庭です。
池は、湧き水をたくわえ、亀の形の中島を置き、そこに弁天をまつる石祠があります。築山が4つの峰で池を囲み、一番高い峰で水面から3メートルほどあります。
かっては、鑁阿寺の森や遠く両崖山の峰が築山越しの借景になっていたと思われます。
発掘調査の結果、この庭は南庭園より古く、3回にわたって改修され、作庭当初と合わせ4期の変遷があったことがわかりました。
(江戸時代中期の姿に復原)
(現地案内板説明文より)

こちらも仰々しくは無く落ち着いた庭園です。北側だからなのか、南庭園に比べると華やかさはそれ程無い分、多少張り詰めたような空気を感じます。

石祠 そしてその廊下に北庭園にあった弁天の「石祠」が置かれています。

石祠
これは弁財天を祀った祠で、昭和57年(1982)から行なわれた足利学校跡の発掘調査の際北庭園から出土したものです。
往時は絵図面にあるように池の中島に祀られたいました。(現在中島にあるものは複製です。)祠には「奉造営 弁天宮 當処 内田文右衛門平勝 元文三戊午天(一七三八)十一月吉日」と文字が彫られています。
弁才天は、七福神として知られていますが、もともとはインドの河の神サラスヴァティでした。それが仏教に入り、楽才・知恵・弁才・福徳財宝などを与え、災厄を除き、勝利に導くものとされました。
(現地キャプションより)

やはり学問に関連する神として信仰されたのでしょう。決して財が主ではないと思います。

この先が「書院」で、様々な文化財ほかが展示されています。
ここを一回りすると足利学校の歴史などが理解できるようになっていますが、ここではいくつか目に付いたものを取り上げてみます。

最初は、この足利学校が所有している国宝です。

宗版 礼記正義 ◆国宝 宗版 礼記正義(複製) 35冊

孔頴達等疏 12世紀 中国南宋時代
「礼記」は、周末から前漢時代(BC3世紀から3世紀)の礼儀作法や「釋奠」などの儀礼、そしてそれに基づく理想的な政治のあり方が書かれている。「正義」は正しい解釈という意味。
(現地キャプションより)

宗版 尚書正義 ◆国宝 宗版 尚書正義(複製) 8冊

孔頴達等疏 12世紀 中国南宋時代
孔子が編纂したといわれる「尚書」の注釈書。「尚書」は「書経」とも言う。中国の伝説の王朝慮から周時代(前6世紀頃から前3世紀)の政治方法を記してある。
(現地キャプションより)

宗版 周易注疏 ◆国宝 宗版 周易注疏(複製) 13冊

12世紀 中国南宋時代
中国古代の易経(ト筮・うらない)の本で、五経(易経・書経・春秋・詩経・礼記)の中でも特に重要とされた。注疏とは解説のこと。
(現地キャプションより)

「釋奠」の儀式で使用する用具 このような貴重な国宝のほか、先ほどの「釋奠」の儀式で使用する用具などが展示されています。

天文図 また、易学を標榜する「天文図」もありました。

天文図
拓本 中国南宋時代 淳祐7年(1247) (財)アンタレス山国際交流基金寄贈
これは中国の「黄裳」が作成した天文図を、今から760年ほど前に「王致遠」が石碑に刻んだものの拓本です。上部には北極星を中心に1440個の星の位置が記され、下部には古代中国の世界観などが、天文現象などとあわせて書かれています。現在この石碑は蘇州市碑刻博物館に所蔵されています。
(現地キャプションより)

黄裳は1100年頃の人で、道教についての書物を編纂したことから、この道教に関連した世界観なのかもしれません。

最後に、奥にある部屋が書院を見ましたが、立入禁止となっているのでここまでです。

書院 書院は落ち着いた部屋で、床・棚・付書院のある座敷飾りの付いた上の間と次の間からなる座敷、そして縁側、雪隠で構成されていて、校長の接客の場として使用されていたそうです。

当時の中国儒教の教えと、江戸幕府の影響が色濃く残る不思議な空間でした。

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