足利学校 #4

いよいよ足利学校も最後に近づいてきました。 日本最古の学校という珍しい史跡で、様々な興味深いことを知ることが出来ました。
ここからは、主屋、孔子廟の裏側を通り「学校門」にいたる行程です。
気は急いていてもじっくり最後まで堪能したいものです。

庠主墓所

木小屋 主屋の裏手に小さな建造物があります。その一つが「木小屋」です。

木小屋
木小屋は物置で、煮炊きに使う燃料用の「木」などを格納する建物と言われています。
桁行5間、梁間2間、屋根は寄棟造の茅葺、外壁は上が土嚢の中塗仕上、下が板壁です。床は三和土の土間です。
薪のほかには、日常使う用具や食料などもしまっておいたと思われます。
例えば、サエンバ(菜園場)と呼んでいた畑を耕す鍬や鋤、鎌などの農具、収穫した雑穀、漬物や味噌などの樽、修繕用の板材や大工道具などが考えられます。
(宝暦年間の姿に復原)
(現地案内板説明文より)

土蔵 もう一つが「土蔵」です。

土蔵
土蔵は、大切なものを格納する堅牢な大火建築として建てられました。
桁行3間、梁間2間の土蔵造です。外壁から屋根にかけて土で塗り固め、漆喰で仕上げています。栗板を使った切妻造の鞘屋根を載せています。内部は、壁が漆喰仕上、床が板敷となっています。
文庫が別に立てられていたところから、この土蔵には書籍以外で大切なものを納めていたと思われます。
(宝暦年間の姿に復原)
(現地案内板説明文より)

特に何の説明も注釈も要らないでしょう。このとおりの物置と土蔵ですね。

それはそれとして、ここでもそうなのですが、今まであった案内板の説明文を読んでいて気になったのが復原の漢字です。学校跡の史跡の案内板の漢字が間違っているのは、いかがなものかなとずっと思っていたのですが、所詮、凡人以下の凡人でした。

この「ふくげん」という漢字は状況によって2種類あるようで、文化財(建造物)の分野で、失われた建物を当時のように再現する場合は「復元」で、改修等で形が変わっていたものを当初の姿に戻すことを「復原」と言うそうです。
また、推測に基づく場合は「復元」で、旧部材や文献等が残っていて根拠が確かな場合を「復原」と使い分けている場合もあるそうです。例えば沖縄の首里城は復元で、現在行われている東京駅は復原となるのです。
さすがに学校跡だけあって適切な使い方ですね。重箱の隅をつつかなくてよかったです。

北庭園 庠主(学長)の墓所 先ほど書院から見た北庭園を通り過ぎると、多くの墓石が安置されている一画があります。

庠主(学長)の墓所
足利学校は15世紀の中頃、関東管領上杉安房守藤原憲実によって中興されたものであるが、上杉憲実は書籍や学領を寄進し、学規を制定すると供に、鎌倉円覚寺の僧快元を招き、足利学校中興初代の庠主とした。
庠主は、明治2年に足利学校が藩校になるまでの約430年間にわたり、23代まで続いた。
歴代庠主は、学校の維持管理に苦心しながらも、日本文化史上、学校の名声を高からしめた功績は大きい。
庠主の墓は総計17基あり、いずれも無縫塔で、そのうち8基には文字が刻まれているが、残りの9基は不明である。
判明している基は次のとおり。

第14代 久室(きゅうしつ) 下野足利 36年(10番目)
第15代 天叔(てんしゅく) 京 15年(6番目)
第16代 月江(げっこう) 武蔵八王子 31年(12番目)
第17代 千渓(せんけい) 下野足利 33年(14番目)
第18代 青郊(せいこう) 武蔵八王子 18年(2番目)
第19代 実巌(じつがん) 周防 19年(3番目)
第21代 太嶺(たいれい) 越後 21年(9番目)
第22代 松齢(しょうれい) 美濃 15年(4番目)
※世代・名・出身地・在籍期間・墓石の位置
(現地案内板説明文より)

江戸時代までの歴代庠主は総計23名です。ここに記載されている第14代久室が庠主に就任したのが、延宝3年(1675)だったそうです。
この後の足利学校の歴史がオフィシャルサイトに記載されています。

・・・明治元年(1868)京都駐在の足利藩士相場朋厚は、学校の復興を朝廷に願い出て、藩主戸田忠行が学校の管理にあたり、藩学の求道館を併合し、僧侶の庠主制度を改め、教頭・助教などを置き町民にも学校を開校し勉学の場としました。同4年(1871)足利藩は廃止され翌5年(1872)に足利学校は蔵書とともに栃木県に引継がれました。6年(1873)には、もとの校舎等を利用して、足利町民のための学校が開校し、また9年(1876)には、町民の願いにより、土地・建物・蔵書等が県から返還され、有志の間に遺跡保存の気運が高まり、相場朋厚らが奔走して募金し、足利文庫が設けられました。明治36年(1903)足利学校遺蹟図書館が発足し、貴重図書の管理に努めました。
大正10年(1921)3月足利学校跡は孔子廟、学枚門などの建物を含め国指定史跡となりました。
昭和57年(1982)には、足利学校の東半分にあった小学校の移転を契機に、史跡の保存整備事業に着手し、発掘調査や古絵図・学校記録などの文献調査によって基本設計、実施設計などが各分野の専門家の指導を受け、同63年(1988)に建物の復原工事に着工し、相次いで庭園復原工事も進められ、10年の歳月を要し平成2年(1990)12月江戸時代中期の姿に甦りました。
(足利学校オフィシャルサイトより)

確かに嘗て足利文庫という名称は聞いたことがありました。
そして現在は史跡足利学校庠主としては現在の庠主が第2代目なのだそうです。これからまた新しい歴史を刻む続けていくのでしょう。

元足利学校代官 茂木家累代の墓 「庠主の墓所」の前には同じように「元足利学校代官 茂木家累代の墓」があります。

この茂木家とは、宝永6年(1709)生まれの江戸時代中期の儒者「茂木好文」がいた茂木家のようです。下野(栃木県)生まれで、足利学校の代官として16代庠主の月江、17代庠主の千渓を補佐し、50年に渡って経史を講義したのだそうです。
子の久隆も代官の職を継ぎ、さらに孫の久周にその職は継がれました。
好文の孫である茂木久周は、寛政2年(1790)生まれで、江戸時代の後期の儒者です。足利学校代官であった時の天保2年学校が類焼すると、江戸増上寺の富くじ興行で資金を集めて再建した人だったようです。明治8年に死去されていますので、足利学校最後の代官だったのかも知れません。足利学校にとっては恩人ともいえる家柄ですから、校内に大切に祀られているのでしょう。

以上で足利学校の散策が終了です。

記念スタンプ 最後に入学証に記念のスタンプを押して足利学校を後にしました。

神社・仏閣とはまた違った、大変ディープな歴史を学んだ気がします。

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