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鑁阿寺 #1

大日大門通り 足利学校から一旦、孔子様通りへでて、来た方角とは反対に進むとT字路で大日大門通りを右折します。

大日大門通り 大日大門通りの先に「鑁阿寺」の山門がうっすらと見えます。

めん割烹 なか川 その前にこのT字路の角に、料理屋の看板が掲出されています。

ここが有名な相田みつお縁の料理屋だそうで、この看板の字は相田みつおが書いた字なのだそうです。
詳しいことはサイトに出ていますので参照されると良いでしょう。

参考:【めん割烹 なか川】http://www.soba.info/index.html

この石畳の大日大門通りを進みます。

大日大門通り レトロ風な店舗の町並みが参道の雰囲気を醸し出しています。

足利尊氏像 通りの途中の左手に「足利尊氏公像」が建立されています。本来あっても当然な銅像ですが、かなり新しそうな像です。

あくまで推測ですが、根本的に尊氏の出自も不明であることと、最近まで逆賊・尊氏のレッテルがあったことから、お膝元である足利市といえども尊氏を積極的に町興しには使いにくかったのでしょう。おそらくここ足利市では先のNHK大河ドラマ「太平記」辺りから町興しを全面的に始めたのではないでしょうかね。

あしかがの自然水 その銅像の前には「あしかがの自然水」なるミネラルウォーターが「ただ」でいただける公共水があります。
足利家の家紋が付いているところが、何とも演出っぽいですが。

と、勝手なことを考えながら「鑁阿寺」に到着です。

鑁阿寺山門

鑁阿寺の周りも濠で囲われていて、足利学校同様歴史の伊吹を感じさせてくれそうな環境です。
濠 楼門・反橋 濠

立派な山門の前には太鼓橋が掛かっていて、山門と一体となった光景に十分歴史を感じることができます。

楼門及び反橋
楼門は当山では仁王門又は山門ともいう。
開基足利義兼公が建久7年(1196年)創建せるも室町時代兵火にあい永禄7年(1564年)足利幕府13代将軍足利義輝の再建である。
構造雄大、手法剛健、入母屋造、行基葺き。両側の仁王尊像は此の建物より古く鎌倉時代運慶の作といわれている。
反橋は俗に太鼓橋といい江戸時代安政年間の再修である。
当山境内は面積1万2300坪(40,467平方メートル)四周に濠と土塁をめぐらし四門あり。
当山開基足利義兼公の祖父源義国(八幡太郎 源義家の子、足利・新田両家の祖)が別業として平安時代末に構築せるものにして上古の豪族の居館を原形のまま今日に残したもの。実に近世城郭の原始を示しており、足利氏宅跡として大正11年国が史蹟に指定した。
楼門及び反橋は栃木県指定文化財である。
真言宗大本山 金剛山鑁阿寺
(現地案内板説明文より)

足利学校でも知ったように、足利義兼は足利氏の2代目当主で、北条氏との姻戚関係等により鎌倉幕府のなかでの足利氏の地位を固めつつあった頃です。
楼門・反橋 構造雄大、手法剛健とはまさに言い得て妙で、大きくどっしりとしていながらその荘厳さと細かさのまさに山門の極致とでも言えそうなバランスの良さです。そのバランスに歴史の重みが加わっているのですから、まさに絶妙です。

楼門 楼門 前から見ても、後ろから見ても重厚・荘厳です。

運慶作、仁王像 そしてこれが仁王像です。
残念ながら阿像はピンボケで写真が使い物はなりませんでしたが、吽像の方は辛うじて見ることが出来ました。

運慶といえば、あの東大寺金剛力士像を代表とする仏師で、まさに「運慶」ブランドといっても良いほどのもので、それだけで有無を言わせぬ迫力を感じます。まさにブランド力です。

太鼓橋 太鼓橋もカルガモとともに風情を残していますが、この濠もまた古の風情を醸し出しています。
屋根つきの太鼓橋というのも珍しいのではないでしょうか。

この濠で囲われた居宅が、後の居城の始まりなのです。
平安時代の居宅の特徴は荘園の発生と、それに伴う支配領域の権益確保でした。そのためその土地の自衛の必要性に迫られ、いわゆる武士が現れれることとなったのです。したがってこの時代の居宅は居城の前身である、つまり武装した館であったといえるのでしょう。それがこの史蹟ということです。
ですからここでは居城ではなく居館ということになるわけで、これ以降、戦国時代になってこれまでの武装居館といった性質のものから、本格的な戦闘居城に移行していくのです。

早速、山門を抜けて参道を進みます。
参道 簾で覆われた燈籠の並んでいる参道の先に本堂が見えます。実に古の風情です。

左手に鑁阿寺の由来があります。

足利義氏は当山開基足利義兼の三男で、足利三郎と称し、父義兼の後を継ぎ、北條時政の女を母とし泰時の女を妻とした。蔵人検非違使に任ぜられ正四位下左馬頭に至り、鎌倉幕府の枢機に参画し数次の合戦に大功を立てた。
父義兼の菩提のため、天福2年(1234)現在の重文大御堂を建てたことは、現存する棟札によって明らかである。また堀の外大日境外に東に、六学院、不動院、普賢院、東光院、北に浄土院、宝珠院、威徳院、延明院、西に金剛乗院、千手院、竜福院、安養院の塔中十二ヶ院を建立し千手院を塔頭とした。
明治4年(1871)の廃仏毀釈により十二ヶ院が廃せられ、一般民家に解放される迄、600余年この山地は続いた。今の家富町全域がこれである。
仁治2年(1241)53歳で出家し足利左馬入道と称し建長6年(1254)11月22日に66歳で卒した。
本城3丁目にある法楽寺は義氏の開基であり同寺に義氏の墓地がある。法楽寺殿正義大禅門という。
義氏5代の孫、足利尊氏に至って、天下を平定し京都に幕府を開き、室町文化の華を咲かせたことは普く人の知るところである。
(現地石碑碑文より)

そもそも平安時代の後期、源氏の祖である八幡太郎源義家の子義国と、その子足利義康(足利氏祖)の2代に渡って堀と土手を築いて邸宅としたのだそうです。そして義康の子、足利義兼が鎌倉時代初期にこの邸宅を撤去して大日如来を本尊とする鑁阿寺を創建し、その後はここに記載されているように、義兼の子、義氏が七堂伽藍を完成させ堀の外に塔中十二坊を建立したのです。
したがってこの鑁阿寺は足利氏3代によって創建されたといえるのでしょう。

往時の鑁阿寺の隆盛振りがうかがえる歴史ですが、その歴史ゆえに現在では問題もあるようです。

大日西土地区画整理事業 足利市家富町外地内
現状及び解消すべき課題          
本地区は足利市の歴史・文化を代表する史跡足利学校、ばん阿寺に近接し、足利市発展の中で中心市街地として重要な役割を果たしてきた。しかしながら、近年、車社会の進展や生活様式の変化に伴い、人口減少及び高齢化、未利用地や空き家等の増加などにより都市機能が低下している。宅地状況は、接道条件が悪い敷地も多く、建築物の更新が進まず、防災上危険な地区である。
(足利市オフィシャルサイトより)

現在地図で見るとこの家富町は足利学校や鑁阿寺、そして足利市役所に囲まれた非常に立地の良い場所に見えるのですが、もともと寺社町としてせせこましい町になってしまったのでしょうか、実際にはいろいろな問題を抱えているようですね。はたからとやかく言えることではありませんが・・・。

一応部外者としては一方だけの意見を鵜呑みにするわけにもいかないので、反対意見も参考に掲載しておきます。こちらのサイトを参照ください。

参考:【足利の街並みを守ろう】http://www.page.sannet.ne.jp/zentake/#アンカー

鐘楼

鐘楼 参道を進むと右側に「鐘楼」があります。

鐘楼
1、建久7年(1196年)足利義兼建立
1、建築様式 形状簡古、手法稚撲 鎌倉時代の和様、唐様折衷の代表的禅宗様式、桁行3間、梁間2間、袴腰付、入母屋造、本瓦葺
1、明治41年、国宝建造物に指定さる。
1、大正5年 解体修理実施
1、昭和26年、国重要文化財に指定さる。
1、昭和36年 反解体修理実施
1、平成4、5年 半解体修理実施
○梵鐘は元禄時代の再鋳であるが戦時の供出は歴史資料としてまぬかれる。
真言宗 金剛山 鑁阿寺
(現地案内板説明文より)

形状簡古と、歴史を感じさせるところが重文たる由縁でしょうか。咲き始めた梅の花とが実にマッチしています。

鐘楼 後ろ側(こちらが本当は前?)から見た「鐘楼」です。

心字池と庭園 「鐘楼」の奥には心字池のある庭園があります。荘厳さによる張り詰めた空気が少し癒される空間です。

「鐘楼」と「庭園」が見事に調和しているようです。

多宝塔

参道に戻って左側に史蹟の標識があります。
足利氏宅跡 「国指定史蹟 足利氏宅跡 平安時代末期(12世紀)」と書かれています。

後ろの石碑が何か関係あるのかどうかは判りませんが、堀、土塁、そしてその周りの道まで全てがこの史蹟に指定されているそうです。

大銀杏 その先に大きな樹木があります。

天然記念物 大銀杏
開基足利義兼の御手植えと称しているが鎌倉時代末期正和年間(1310年)の当山の古地図には載っていない。
故三好学博士の鑑定によれば樹令550年といわれる。江戸時代には既に大木となり樹下に於て大日如来のお堂を前にして青年男女の見合いが行われ、縁結びの御神木ともいわれている。
目通りの周囲9m。高さ約30m。往古より避雷針の役目を果し、諸堂の災厄を守護した。
最近、樹勢とみに衰え衆庶の愛護を切に望む。
真言宗 金剛山 鑁阿寺
(現地案内板説明文より)

この樹齢からいくと植えられたのは、室町時代中期といったところでしょう。それにしてもここでお見合いが行われていたとは、何とも微笑ましい限りです。そんな微笑ましい場所だったからこそ、ここ鑁阿寺は相田みつおの幼い頃の遊び場だったようで、この大銀杏を思いながら詠んだ歌があるそうです。
「花を支える枝 枝を支える幹 幹を支える根 根はみえねんだよなあ」

多宝塔 大銀杏の先には大きな「多宝塔」がそびえています。

多宝塔(搭婆)
開祖足利義兼公創建と伝えられているが現在のは 元禄5年 徳川5代将軍綱吉の母、桂昌院尼公の再建と伝えられていたが、相輪の宝珠を調査したところ、寛永6年(1629)銘のものが発見され搭の再建年代がさかのぼる事が判明した。
徳川氏は新田氏の後裔と称し、新田氏は足利の庄より新田の庄に分家したるが故に徳川氏は祖先発祥の地なるを以て、此の宝塔を 祖先の菩提供養のため再建寄進した。
○本尊は 金剛界大日如来
 本尊前に勢至菩薩(俗に二十三夜尊)
 両側に十六羅漢像を祀る。
○奥に足利家の大位牌と徳川歴代将軍のお位牌を祀る。
○多宝塔としては我国で一番大きい。(これ以上大きいのは大塔という。)
平成7、8年半解体修理を実施した。
真言宗 金剛山 鑁阿寺
(現地案内板説明文より)

現実には伝承より70年ほど前に建立されたということです。
それよりもここでは徳川氏が新田氏の後裔だったという史実に注目したいものです。個人的には全く知りませんでしたので、ここは紐解き虫が騒ぎ出しました。

そもそも新田家は、河内源氏の棟梁の源義家(八幡太郎)の三男・源義国が開祖で、元々は足利荘を本拠地としていたのですが、足利荘は次男の足利義康が継いで足利氏を名乗ったため、義国と長男の源義重は渡良瀬川対岸の上野国新田郡(現在の群馬県太田市周辺)を開発し、保元2年(1157)に平家方の藤原氏に開発地を寄進し、新田荘が作られたのでした。この地の荘官に任ぜられた義重が新田氏を称して、この地を支配したのでした。

そして義重の三男の義兼が新田本家を継いだことから、兄弟はそれぞれ分家したのです。
長男・義範は上野国山名郷に分家して山名氏、次男・義俊は上野国里見郷に分家して、その孫らが里見氏、大島氏、烏山氏となります。四男・義季は上野国新田郡世良田村の得川に分家し、その子の長男・頼有が得川氏を継ぎ、次男・頼氏が世良田氏を称し、五男・経義は額戸氏を名乗っています。

こうして新田氏として一族の支配による隆盛を見始めていたのですが、4代当主の新田政義が鎌倉幕府に無断で出家した罪で御家人役を剥奪されたことから、新田氏の惣領職が同時に没収され、一族の世良田(頼氏)氏とともに岩松氏が惣領職を分担することになったのです。
突如現れた岩松氏ですが、こちらも意外な因縁を持っています。
岩松氏の祖である岩松時兼・(田中)時朝兄弟の父は元々足利一族の足利義兼の庶長子の足利義純でしたが、大伯父の新田義重に新田荘で育てられたそうです。本来なら足利家を継ぐところなのですが、畠山重忠が滅ぼされると重忠の未亡人(北条時政の娘)と婚姻し、重忠旧領と畠山の名跡を継承してしまったのです。このあたりのことは【招福大観音・勝福寺】で過日訪れた深谷市で畠山縁の地で知りました。
この時、義純はすでに結婚しており妻と子供があり、この子供が先の時兼・時朝兄弟だったのです。形式的に義純から義絶されたことから、足利家ではなく新田一族を称することになったのです。

こうした状況が続く中、世良田氏の頼氏が佐渡に流されたため、再び新田家は新田氏本家に惣領職が戻され、宗家が勢力を盛り返し8代目の新田義貞の頃には、かなり高名を上げていたようです。
しかしながら幕府における新田氏本家の地位が低かったこともあってか、義貞は尊氏とともに元弘3年(1333)鎌倉に攻め入って北条氏を滅ぼし建武の中興を果たすのですが、後に足利尊氏の反旗により義貞は敗死するのでした。この辺りが尊氏の人気が上がらない理由でしょう。
この時、有力庶流家である山名・岩松・里見・世良田氏らは、足利氏に付いたことから、この後各家は隆盛し、新田本家の上野国新田荘は岩松氏に与えられ、この後新田岩松氏と呼ばれるようになるのです。

さてこのような新田氏の歴史の中で、いかに徳川家との繋がりがあったのかを検証してみます。
家康は1566年、23歳の時に三河を統一しました。そこで、家康は朝廷に対して自分を三河守(従五位下三河守)に任命してくれるよう要請しましたが、時の正親町天皇はその様な官職は由緒ある者しか与えられないと拒否されました。
そこで家康が行ったのが改名でした。
家康の祖父である松平清康が嘗て世良田氏(得川氏の同族)の末裔であると主張している故事に倣って、松平は得川氏の末裔を唱えたのでした。
これは松平では由緒が無いが、得川であれば源氏の流れでもあり由緒ある名称であるから、徳川に改名したいと藤原氏に働きかけて改名の許可を得たことから徳川と改名し、得川=徳川であるとして三河守を任命されたのでした。

その後、信長・秀吉時代に隆盛した家康は、今度は征夷大将軍を任命されるために系図を粉飾をします。
戦国時代において新田岩松氏は、下克上により由良氏に実権を握られ桐生に退隠していたのですが、秀吉が全国統一を果たすと由良氏は下総に移ったため、新田岩松氏は解放されたのでした。
そこへ現れたのが、後北条氏に代わって関東に入部した徳川家康で、岩松氏のと接見で、伝来の新田氏系図を譲渡するよう求めたのですが、これを拒否されました。拒否された家康は今度は懐柔策に出たようで、上野国新田郡田嶋郷内120石の禄を与えられ交代寄合とした代わりに新田姓を使うのが許されなかったようで、飴と鞭を使い分けたようです。
こうして家康は晴れて、徳川氏⇒得川氏⇒新田氏⇒清和源氏の末裔というとても強引な系図粉飾を行ったのです。これにより徳川家=源氏姓ということで、晴れて征夷大将軍となれたわけです。

『鑁阿寺新田足利両氏系図』によると、新田義宗には宗親・親季という子があったと言い、宗親の子孫は新田岩松氏とは別の系統として子孫を残し、また親季は松平正義の養子となり、その子の有親と孫・親氏が三河に流れ松平氏の祖となったという系図が描かれているそうです。
これが新田氏と徳川氏の特別な関係なのです。

ちなみに新田姓を取られたかたちとなった岩松氏ですが、明治維新当時は新田姓を名乗り、その功績を新政府に認められ、維新後同じように新田姓を名乗った由良氏と新田氏嫡流をめぐって争ったそうですが、新政府は岩松氏を新田氏嫡流と認め、先祖の功により男爵となったそうです。思わず目出度し目出度しとでも言ってしまいたいような過酷な歴史でした。
ということで、徳川家にとっては「多宝塔」の一つや二つ、といったところでしょう。

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