鑁阿寺 #3

鑁阿寺の主たる伽藍を散策した後は、伽藍にあるそのほかの伽藍を散策します。
ちょうど「経堂」のう裏手から境内社が幾つかありますので、最後に散策することにします。但し、かなり時間も迫ってきたので、ここからは駆け足になります。

御霊屋

御霊屋 本堂、中御堂、経堂の裏手にある境内社の、一番左手にあるのが「御霊屋」です。

県指定文化財 御霊屋
足利大権現と称し、俗に赤御堂とも云う。
正和年間(1312年)の当山伽藍配置図にも境内西北に描かれている。
創建は鎌倉時代といわれるが、現在の建物は徳川11代将軍家斉の寄進しよって再建された。
本殿に源氏の祖を祀り拝殿に県指定文化財足利15代将軍像を祀る。昭和32年境内整備のため以前の位置より北へ12間後退させた。
本殿の裏に当山開基、足利義兼の父、義康、祖父、義国の墓あり。昭和57、8年度、栃木県及び足利市の助成を得て(株)安田工務店に依頼して半解体修理を実施した。
真言宗大本山 鑁阿寺
(現地案内板説明文より)

一般に言うところの祖霊社ということでしょうか。ここでは源氏の祖について調べてみました。

武士のシンボルである源氏、平氏の出身というのは、そもそも増えすぎた皇族の処遇から生まれたものです。その先駆けが桓武天皇で、大変な子沢山のため、そのまま子孫をいつまでも皇族として待遇していては財政的な破綻が起きる可能性もあるため、一部の子孫を皇族からはずし、平氏という皇族賜姓を与えたのでした。
これと同じように源氏の姓を与えたのが嵯峨天皇です。嵯峨源氏は多彩で源融は光源氏のモデルとなっていたり、落ちぶれた嵯峨源氏の中には後に倭寇(密貿易集団)になったものもいたようです。
時代は下り嵯峨天皇の4代後の清和天皇によって誕生した清和源氏の系統は後に鎌倉幕府を開くという、新たな歴史を作りだしたのです。その主流は源頼信に始まる河内源氏で、頼信は平忠常の乱を平定し、その子の頼義、孫の義家は前九年・後三年の役に勝利し、関東・東国に次第に勢力を拡大し多くの坂東武士をその傘下に組み入れたのでした。
義家の子孫からは新田氏・足利氏・今川氏・吉良氏などが派生し、家の弟の義光からは武田氏や佐竹氏、南部氏などが輩出されたのでした。当然、鎌倉幕府を開いた源頼朝も河内源氏の後裔にあたるのです。
このよううな歴史から源氏の祖は、源頼信の河内源氏といって良いのでしょう。

大酉堂

大酉堂 「御霊屋」の隣にある比較的小さなお堂が「大酉堂」です。

大酉堂(おとり様)
此のお堂は元来、足利尊氏公を祀るお堂として室町時代に建立された。
当山に残る寛政2年及び明治5年の伽藍配置図には、足利尊氏公霊屋と現在地に記載されている。
明治中期より、足利尊氏逆賊の皇国史観抬頭し、41世忍禅上人は、甲胃婆の尊氏公木像を本坊に移し、当山伝来の大酉大権現を本尊とした。
大正6年42世忍空上人は、信徒の浄財を仰いで堂宇の大修繕を実施す。
大酉大権現は俗におとり様といい、古来武神として、武門の信仰篤く、殊に東国では近世より商売繁盛、福の神として信仰されている。
昭和61年 解体修理を実施した。
金剛山 鑁阿寺
(現地案内板説明文より)

皇国史観とは、日本の歴史を天皇中心に捉え天皇中心に歴史が継承されてきたと規定し、天皇に忠義を尽くすことが美徳であるとする歴史観なのです。
これにより19世紀末から1945年の終戦まで、学校で用いる歴史教科書は日本神話に始まる天皇家を中心とした事項を述べ、歴史上の人物や民衆を天皇に従順か否かで評価・判断する内容となっていたのです。従って尊氏のみならず、頼朝や家康のように幕府を開いたものは全て逆賊扱いになっていたのです。
しかしその中で尊氏だけがクローズアップされた格好になってしまったのは、1911(明治44)年、小学校の歴史教科書に鎌倉幕府滅亡以降の時代を「南北朝時代」とする記述があったことで、南朝と北朝を対等に扱っているとして帝国議会で問題視された南北朝正閏論があったためと考えられるのです。

南北朝正閏論の元になった発端は、そもそも鎌倉時代末の1246(寛元4)年、後嵯峨天皇の退位後に皇位継承を巡って皇室は大覚寺統と持明院統に分裂し、鎌倉幕府の仲介により交互に皇位に付くと和解した事から始まりました。
これに不満を憶えた大覚寺統の後醍醐天皇が、1333(元弘3)年全国の武士に討幕の旨を発し、これに応えた足利尊氏や新田義貞の功績により鎌倉幕府が滅び、建武の新政という後醍醐天皇による武士ではない皇室による政治が始まったのでした。
しかし、この建武の新政後も政局の混乱は続き、何よりも恩賞等の不公平感により新政府は武士階級の支持を得ることができなかったのです。その様な中で尊氏もこの新政府から離反すると、自然に不満を抱えた武士が尊氏に従うようになったのです。
これに対して後醍醐天皇は新田義貞や北畠顕家に尊氏討伐を命じるのですが、戦いの末、新田義貞・楠木正成らが破れ、後醍醐天皇は比叡山に篭ったのでした。

武力での決着が付いた尊氏は後醍醐天皇との和解を図り、天皇家のシンボルである三種の神器を接収し、持明院統の光明天皇を京都に擁立し、尊氏は1336(建武3)年、建武式目を制定、1338(暦王元)年、北朝の光明天皇から征夷大将軍を補任され室町幕府を開いたのでした。
こうして成立した室町幕府と北朝ですが、これに対して後醍醐天皇は奈良の吉野に逃れ、北朝に渡した三種の神器は贋物であるとして、北朝の皇位が正統ではないとして吉野に南朝を開いたのでした。
その後、幾多の争議のなかで、1392(明徳3)年、足利義満の斡旋で、大覚寺統と持明院統の両統迭立と、全国の国衙領を大覚寺統の所有とすることを条件に、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を渡し南北朝が合体したのです。

これを皇室の皇位継承で見直すと、現在の皇室の継承は北朝最後の天皇である102代後花園天皇に遡ります。そして100、101代が北朝で、96代の後醍醐天皇から99代の後亀山天皇が南朝となります。そしてこの96代後醍醐天皇から89代後深草天皇までが、南北朝交互に即位しているのです。現代の考え方をもってすれば、南北朝ともに88代の後嵯峨天皇の継承ですから、万世一系としてはどちらとしても外れているわけではないといえるのではないでしょうかね。

そういった事実関係ながら如何にこのような皇国史観が導入されたかといえば、やはりそれも歴史の流れの一つの結果といえるのでしょう。

皇国史観の先駆けは南北朝時代に、南朝の北畠親房が著した「神皇正統記」だといわれています。これは公家の北畠親房が、幼帝後村上天皇のために、吉野朝廷(いわゆる南朝)の正統性を述べた歴史書で、これが後の皇国史観にあらゆる影響を与えていくのです。
その後の室町時代においては当然北朝正統論ですから、南朝正統論が出るはずもありませんでした。しかし江戸時代になって現れた皇国史観が水戸光圀の「大日本史」なのです。
当初は1676(延宝4)年に神武天皇から後醍醐天皇までの記述が清書され、天和年間に「新撰紀伝」104巻として完成したそうです。しかし、光圀は南北朝合一の後亀山天皇期まで扱う必要性と内容上の不備を感じて改めて編纂事業を拡大し、1697年に「百王本紀」として完成させ、1715(正徳5)年、藩主綱條により書名が裁定され「大日本史」として認められたのでした。

光圀はこの「大日本史」編纂に当たってはやはり南北朝については慎重に扱ったらしく、特に江戸時代では室町幕府の関係で非常に少なくなった南朝関連の史料を広く収集するとともに、当時、日本に亡命した明朝の遺臣である朱舜水を招聘し、歴史の正当性をニュートラルな観点から探ろうとしていたようです。
その結果、やはり北畠親房の「神皇正統記」の影響を色濃く受けるとともに、朱舜水から南朝の武将・楠木正成の忠誠心を示唆されたことから、「大日本史」では南朝正統論となったのです。また、幕末の尊王論に影響を与えた儒学者、頼山陽は「日本外史」のなかで南朝正統論を擁護しており、「大日本史」を始めとした水戸学や本居宣長・平田篤胤らの国学、そして「日本外史」などから尊王攘夷思想が生まれ、明治維新の原動力となったのでした。

このした背景の中で生まれた明治新政府ですから、天皇の権威を活用したことは紛れも無い事実です。文明開化と富国強兵を推進する明治新政府は、「神国日本」とする皇国史観を正統な歴史観として確立、活用していったのです。そして1889年に制定された大日本帝国憲法では万世一系かつ神聖不可侵の天皇が統治することを明記したのです。当然、この皇国史観は南朝正統論がそのまま受け継がれているのです。
これは、倒幕後、長州の大村益次郎は、そのうち九州から足利尊氏の如き者が攻め上ってくると予測し、大阪に軍備をさせた一例でも窺うことができます。これは当時、勤皇の忠臣=楠木正成、朝廷の逆賊=足利尊氏の図式が出来上がっていたためと考えられるからなのです。
その様な中で起こった論争が冒頭の南北朝正閏論なのです。

結果として当時の文部省の担当者は休職処分となり、これ以降の教科書で文部省は、後醍醐天皇から南北朝合一までの時代を「吉野朝時代」と記述し、政府公認の歴史観とされたのでした。
この後、昭和の戦前までの国定歴史教科書では、日本神話から始まり天皇を中心とした出来事を叙述し、天皇に逆らうものは、過去であれ現在であっても全て逆賊であると評価しているのです。
こうした歴史の流れの中で、一番人々がわかりやすい逆賊(特に忠臣VS逆賊の対比において)が尊氏であったため、ある意味スケープゴートにされたのではないでしょうかね。

現在では吉川栄治の「私本太平記」の発行、そしてそれに伴うNHK大河ドラマの放映などで、かなり尊氏の汚名も晴らされているようですので、そろそろ本尊に戻されても良いころではないのでしょうかね。
そんな簡単な事ではないのでしょうか・・・。

校倉

校倉 時間が無い割には、随分長くなってしまいましたが、「大酉堂」の隣には、やはり小さな「校倉」という建造物があります。

市指定重文 校倉
宝庫、大黒堂とも称する。
永享4年公文所奉行の再建をいわれているが現存の棟札では当山32世満慶上人が宝暦2年の再修となる。
建築様式は校倉風で元来当山の宝物を収蔵した。
42世忍空上人の時、宝物は他へ移して足利家伝来の大黒天を祀った。
昭和55年、市の助成を得て元文部技官安田昭二に依り半解体修理を実施した。
真言宗 金剛山 鑁阿寺
(現地案内板説明文より)

校倉とは、校倉造りのことで奈良の正倉院の宝物殿に代表される、古来の建築様式のことです。
校木を井楼組と呼ばれる井桁状に組み上げて壁をつくり、柱を用いない構造で、校木は、正倉院で見られるように、材木の断面がひし形になるように積み上げるための四角い断面が有名なのですが、円、三角の断面のものもあるそうです。
壁体の木材が、空気中の湿度に合わせて伸縮し、すき間をつくったり閉じたりするため、室内の湿気を調整できることが利点のため、神社や寺院の倉庫として建てられたものが多いといわれているそうです。

余談ながら、元々律令制体性下では、中央・地方を問わず、官庁や寺院などの公共施設に設置された穀物や財物を保管する倉庫のことを正倉と呼んでいたそうで、特に大規模な正倉で、一定の区画に複数の正倉が築かれて塀などで囲まれた区域を正倉院と呼ぶそうです。現在の団地倉庫みたいなものでしょうか。
有名な東大寺の「正倉院」も元々は数棟の正倉から成り立っていて、現存のものはその数棟の中の最大の正倉1棟が正倉院として現存しているのだそうです。

文字通りの倉庫だったのですが、大黒様を祀っているというのも何となく元宝物殿として相応しいと言えないこともないですね。

蛭子堂

蛭子堂 そして最後のお堂が「蛭子堂」です。

足利市重要文化財 蛭子堂
時姫堂とも称し、当山開基、足利義兼の妻、北条時子(源頼朝の妻北条政子の妹)を祀り、時子の法名から智願寺殿ともいう。創建年代は不詳。
時子姫は寺伝では自害したといわれ、これにまつわる逆さ藤天神足利又太郎忠綱の遁走、自刃の哀話は足利七不思議の伝説の中の白眉の物語りとして残っている。
妊娠の女人、此の堂にお詣りすれば栗のいがより栗が軽くもげるが如く安らかに安産のききめありといわれ、昔から信仰されている。
本尊は栗のいがを手に持つ蛭子女尊。
平成5年 栃木県と足利市より補助を受けてお堂の解体修理を実施した。
金剛山 鑁阿寺
(現地案内板説明文より)

時子姫の伝説は中御堂の古井戸での話でしたが、その伝説に続きがあったのですね。
古井戸の伝説では、不義密通をとがめられた時子が自害するという伝説でした。

当時、足利荘には鑁阿寺の開基・足利義兼の足利家の前に、藤原姓の足利氏がおりました。藤原姓ですから平氏の系統で義兼は源氏の系統なので当然一族の関連は無く、むしろ地頭職を争うような関係でどちらかといえば平氏の足利氏のほうが優勢であったようでした。しかし、徐々に源氏の足利氏が台頭してきた頃に、先の時子姫の古井戸の事件が起こり、時子姫と共にその時子姫の相手と目されて嫌疑をかけられたのが平氏の足利又太郎忠綱という武士でした。この足利又太郎忠綱という武士は豪勇無双の武士で、平家物語にも出てくるような有名な武士で平清盛からも高く評価されていたようです。
そこに降ってわいたような嫌疑が持ち上がり、無実が晴れるようにと天満宮に祈願したそうですが、その祈願の甲斐も無く、家臣の裏切りもあって忠綱は逃げ隠れた桐生の山中で捕まって斬られたのでした。しかし、その後古井戸の伝説にもあったように、不義密通はなく全くの濡れ衣だったことが判明しました。これを知った義兼は忠綱が捕まった場所である皆沢に、皆沢八幡宮を建立して祀ったそうです。
名誉回復を果たした忠綱だったのですが、それ以前に一族の分家は残ったものの、嫡流は断絶したため、足利に平姓の足利家は忘れられた存在となってしまったのです。
しかしながらこの足利又太郎という高名な名乗りは源氏の足利氏でも使われ、その源氏の方の足利又太郎は北条高時から高の字を与えられて足利高氏と名乗り、後に足利尊氏となったそうです。何か見えない力でも働いていたのでしょうかね。

さて、そこで話は戻るのですが、忠綱が祈願を訪れた際、天満宮の社前に逆さに刺した鞭代わりの藤の枝を置き忘れていったのですが、その置き忘れた藤の枝がやがて成長し立派な藤になったことから、この天満宮は「逆さ藤天神」と呼ばれるようになったそうです。
現在でも鑁阿寺のすぐ近くにあるようです。

これが古井戸伝説に繋がる逆さ藤天神伝説のようですが、この伝説が足利七不思議となっているようです。
そこで、今度は足利七不思議を調べてみました。

3つ目は「字降松」で、これは足利学校で見たものですが、これの何処に不思議があるといえば、どうやら読めない漢字を書いた紙を夜、枝に結んでおけば次の朝には読み仮名が振ってあるというところが不思議だったようです。
先に庠主が振っていたということを我々は知っているので七不思議には思えなかったのですね。

4つ目は「さかさ川」です。
「さかさ川」は正式には「柳原用水」といい、江戸時代初期に灌漑用水に困っていた農民のために作られた人工の用水路なのです。
そのため通常このあたりの川は北から南に流れているのですが、用水路のため水は南から北へ流れていることから逆さ川といわれているそうです。

5つ目は「片葉の葦」です。
足利家3代目の当主、足利義氏があるとき夢中に現れた阿弥陀如来が、池の中から出してと訴えていたので池をさらったところ阿弥陀像が出てきたので、それを本尊として祀ったのが足利市にある正義山法楽寺で、その池に生えてくる葦はどうゆうわけか馬のたてがみのように片葉だったそうです。
今は池も埋められていて葦も姿を消しているようですが…。

6つ目は「縁切橋」です。
様々な情報を探してみましたが、殆どこの伝説については判りませんでした。
唯一手掛かりになるかもしれない情報は、鑁阿寺のすぐ西にある利性院の閻魔堂のすぐ近くに「縁切橋」という橋があるそうです。これがその「縁切橋」なのかどうかは判りませんが、鑁阿寺の近くで閻魔堂があるということで、何となく謂れのありそうな匂いが漂ってきそうな気配です。

最後の7つ目の不思議は「片根の榎」ですが、これについてはヒントも何も皆無です。
全くのお手上げ状態です。是非、ご存知の方は教えていただきたいものです。

いずれにせよ歴史ある町には、このような伝説や七不思議は付き物で、意外な文化が垣間見れることもあるので、結構興味深いものです。

本坊

この時点ですでに予定を20分ほど超過していますので、あとはただ写真を撮ったというだけです。

北門 「蛭子堂」の先に見えるのが「北門」だそうです。
この伽藍には山門を含めて東西南北に門があるそうで、邸宅の色合いが残っています。

境内北 ちょうどここが本堂の裏手に当たります。裏側から見ても本堂と中御堂は美しいバランスを保っている建造物です。

稲荷堂 更にその右手に「稲荷堂」があります。
お堂の左手には「当山鎮守七社 出世稲荷大権現」と刻まれた石碑がありますが、気になるのは当山鎮守七社ですが、ここはそのまま進みましょう。

本坊 隣は「本坊」です。本坊といえどもかなり立派な造りで、古刹、名刹に相応しい本坊といえるのでしょう。

名もない太鼓橋 その前には、このような石の太鼓橋が残っていました。何か嘗てはあったのでしょうね。

昌平町、そして大門通り タイムアップとなって鑁阿寺を後にしましたが、途中、足利学校の昌平町、そして鑁阿寺の大門通りというシンボリックな標識を見ながら帰路につきました。
30年以上も前に読んだ「太平記」ですが、再び読んでみたくなった足利市でした。

いちごとラーメンと歴史という、ちょっと変わった取り合わせもまた楽しい散策でした。

2011.02.22記

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