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小名浜八景 #2

永崎海岸から沿岸を辿って巡ってきた八景ですが、ここからは内陸に入ります。
現在の県道26号線を中心として左右に八景が存在していますので、この県道は、江戸時代当時のメインストリートだったのかもしれません。

八景-3 松之中の夜雨

下神白からはちょっと遠いのですが、県道26号線をまたいで松之中へ向かいます。

●松之中夜雨:「涼しさや滴る松の夜雨かな」

涼しさやとあるので夏の光景のようで、松から落ちる雨のしずくが涼しさを感じさせる句なのだそうです。季節感溢れる句です。

ということで、場所は現在の小名浜松の中なので、早速向かいました。
とりあえず松の中の住所で向かったのはよいですが、具体的な場所がわかりません。仕方なく、周辺を松を探してみたのですが、それらしい光景に出会えませんでした。
松之内バス停

松之内町並み 松之内町並み とりあえず現在の何の変哲も無い町の写真を・・・。

この周辺の方でそれらしいところを知っていれば是非教えていただきたいものです。

八景-4 虎山の晩鐘

松之中からは県道15号線を東へ進み浄光院へ向かいます。
浄光院は、この八景の碑があるところなので、ここが一応八景の中心と考えてよいのでしょう。

●虎山の晩鐘:「田の急ぐ秋とはなりぬ暮の鐘」

この鐘は、勿論、浄光院の鐘のことで、実りの秋の夕日に照らされた稲穂が浄光院から、見えるという風情ある秋の情景を読んだものだそうです。 海の次は一面の田んぼなのでしょうか。

浄光院に到着すると駐車場からは、境内の裏側から入ることになります。
本堂の手前に、実に歴史のありそうな塔があります。
浄光院銅造宝篋印塔

「浄光院銅造宝篋印塔」というもので、市指定の有形文化財です。享保4(1719)年の江戸神田の鋳物師小幡内匠の作だそうです。
屋根の四面には宝篋印陀羅尼経が陽鋳され、台座の四面には580名余の法号が刻まれており、宝塔内には一字一石経が収められているのだそうです。
各地で宝篋印塔を見る機会がありましたが、青銅製というのは珍しいかもしれませんね。

かなり新しそうな本堂を参拝してから、境内を散策します。
浄光院本堂

左手にその鐘の鐘楼があります。
浄光院梵鐘

『市指定有形文化財(工芸品)浄光院梵鐘
この梵鐘は延享5年(1748)年に磐城平梅香町の椎名久兵衛国光によって鋳造されたもので、市内で最も大きな梵鐘のひとつです。
さきに寛文年間(1661から1672)に鋳造された古鐘があり、元禄時代(1688から1703)には時鐘として時刻を知らせていましたが、その古鐘が壊れたためこの鐘が再鋳造されたことが銘文によってわかります。更に幕府領小名浜代官竹垣治部右衛門と代官所詰役人の名も見られることから、この梵鐘は代官所と浄光院の関係などを現在に伝える貴重な歴史資料であるといえます。
また、全体として作りもよく、当時の工芸水準を示す作品でもあります。
梵鐘の高さは140.0cm、口径は75.0cmです。』(現地案内板説明文より)

現在でも役割は引き継がれていて、明けの鐘として毎朝撞きならされているのだそうです。
浄光院梵鐘 それにしても江戸時代に再鋳造され、更に現在でも毎朝撞かれているにもかかわらず、実に綺麗なんですね、この鐘は。

日頃から管理が行き届いているからかもしれませんね。
浄光院鐘楼の瓦 また、鐘楼には鬼瓦が積まれていますが、もしかすると本堂を再建した際の古い本堂にあった鬼瓦だとか・・・。

特に説明も無いので事実はわかりませんが、本堂が新しいことと考え合わせると、そのような結論になることは、誰でも考え付きますね。

ということで、浄光院の由緒を調べてみます。
正式名は開虎山浄光院観音寺で、嘉吉3年(1443)岩城親隆の守護仏十一面観音を安置するため、この地に堂宇を創建したことに始まりまました。
江戸時代には、薬王寺の末寺として幕府から3石の朱印状を受けていたそうですので、それなりの寺領を誇っていたようです。
隣接する地に代官所が置かれていたことは前述の通りですが、そのため慶応4(1868)年の戊辰戦争で、代官所が戦火に会い、その延焼で本堂・庫裏を焼失したため、明治44(1911)年、錦小学校の旧校舎を譲り受けて移築再建したもので大正2年に完成したものが現在の本堂だそうです。由緒に比べてずっと新しい大正時代の本堂ですが、先ほど見た限り大正時代とは思えないほど綺麗でした。

その創建の由来となった十一面観音は、鐘楼の隣の観音堂に安置されているようです。
浄光院観音堂

この観音堂は元文4(1739)年に大破した記録があり、延享4年 (1747)の「薬王寺門末由来」では、その規模は三間(約5.5m)四方の大きさだったそうなので結構大きな観音堂だったようです。
その後、宝暦5年(1755)に再建されたときには二間三尺(約4.5m)四面の堂宇になったようですが、戊辰戦争で本堂が焼けた際にはこの観音堂が仮本堂として使用され、昭和59年に新築されたのが、現在の観音堂だそうです。
まさに小名浜の歴史とともに歩んできた寺院と言えそうです。

観音堂の隣にある石碑が小名浜八景の石碑で、この石碑に八景の句が刻まれているのです。
浄光院八景碑

浄光院八景碑 刻まれた句を見ると…

●諏訪の晴嵐  春きよししなとの嵐小名の海  露沾
●綱取の秋月  漁を取て月や千景藤蒔絵    右巴
●岬の帰帆   三伏の帆帰り来ると沖さむし  十口
●虎山の晩鐘  知り込や鐘も燕もくれの海   露花
●岡山の暮雪  山も岡も雪くれて降れ玲八千代 沾落
●大原落雁   雁ここに帰るや堤の鰻かき   沾落
●松之中の夜雨 松の根に腰を団居の雨夜哉    沾落
●照島の夕照  山茶花や夕巴を汎ふてりてり日 沾霧
今まで見てきた四つの句ともに、すべて違うというのは一体どういったことなのでしょうか。

先に調べたのは、(社)いわき観光まちづくりビューローのサイトに掲載されていた八景句でしたが・・・。
どうやらサイトに掲載されていたのは、すべて内藤露沾の句のようですが、こちらの石碑は数名の句のようなので、改めて石碑を作るにあたって選びなおされたのかもしれません。
ただ、この中の露沾以外の俳人の十口とあるのは青木十口という江戸時代中期の俳人のことでしょうか。京都の人なので実際に小名浜を訪れたのかどうか分かりませんが、おそらくこの句が三崎の風景に合うということで選んだのかもしれません。
他の俳人のプロフィールは分かりませんでしたが、それなりに俳諧では有名な人なのでしょうかね。改めて八景句を選択する際に何か意味合いがあったのかもしれませんね、若干ややこしい話ではあるのですが。

本来はこちら側からが正式な参道のようで、本堂までの参道沿いは実に落ち着いた風情のあるつくりです。
浄光院参道

様々な境内の見所に目を奪われたために、境内からの眺望を撮影するのを忘れましたが、ここから見えた一面の田んぼと梵鐘のコントラストが海とは違った風情をかもし出していたのかもしれません。
ただし、石碑の句では海を詠んでいますが・・・、ややこしや。
とりあえず今回はこのまま露沾の句を元に散策することにし、次に進みました。

八景-5 諏訪の晴嵐

浄光院を後にして次に訪れたのが小名浜諏訪神社です。浄光院から車でホンの10分程度の距離です。

●諏訪の晴嵐:「神垣や人の心も春の風」

社殿の周りに生い茂る樹木が風でゆれている様は、春が近いことを告げている光景なのだそうです。まさに春一番・・・かな?

実際の小名浜諏訪神社も社叢に覆われた、凛とした独特の雰囲気をかもし出しています。それもそのはずでこの社叢はケヤキ林で 保存樹林として指定されているのです。
小名浜諏訪神社

二の鳥居 石造りの鳥居を抜けると直ぐ第2の鳥居があるのですが、面白いことにこの鳥居は青色の鳥居です。

以前、青銅製の鳥居は見たことがありますが、まさに青色の鳥居は初めてみました。やはり全国的にも珍しいものなのでしょうか・・・。

境内に上がると左側に青色の鳥居とコントラストをなす真っ赤な神楽殿があります。
小名浜諏訪神社神楽殿

由緒はよく分かりませんが、小名浜の鎮守なので、地元の方に篤く信仰されてきたのでしょう。
落ち着いた佇まいの社殿で参拝を済ませます。本殿は小さいながら立派な作りです。
小名浜諏訪神社社殿 小名浜諏訪神社本殿

本殿の裏手に御神水があります。
御神水

御神水が鹿威しになっているのは珍しいかもしれません。凛とした空気の中に響く鹿威しの音色はさながら小京都というイメージでしょう。
御神水の後ろには神籬なる木があります。
神籬

これで「ひもろぎ」と読み、神籬とは神事を執り行う際に臨時に神を招請するため、室内や庭に立てた榊のことを言い、しめ縄などを張って神聖な場所にするのだそうです。
この神籬は2ヶ所あり、一つは出羽三山神社(三山大神)で、もう一つは大山祇神社(大山大神)とありますので、それぞれの祭神を祀っているということでしょう。勧請するのはよくあることですが、神籬というのははじめて見ました。

青色の鳥居、鹿威しの御神水、神籬の神殿と実に初物づくしの小名浜諏訪神社でした。

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