いわきヘイリテージ《旧八茎銅山遺産群》

最初にツアーをするのは四ツ倉地区にある八茎銅山です。
八茎といえば、以前【いわき散策記 vol.6】で八茎薬師にはいきましたが、どうやら若干方角が違うようです。
パンフレットの説明です。

八茎銅山の概要と周辺の自然
江戸時代寛永2年(1625)頃から銅山開発を行なっています。当時の採掘は手掘りで銅を精錬するために大規模な森林伐採が行なわれました。その結果自然環境を破壊し周辺地域に多大な水害をもたらし、約50年で閉山を余儀なくされました。明治39年(1906)に、八茎鉱山合資会社を設立し、ドイツ人オット・ライメルス氏が経営や技術指導を担いました。坑内施設・精錬所の建設、大通洞の開削、山元から玉山間の索道の架設されました。地域内には病院、社宅、学校などが設置され、一時2,000戸を越す戸数があったといわれています。
しかし、大正初期第一次世界大戦が勃発、オット・ライメルス氏はスパイ容疑で本国に強制送還されたため、技術指導がされなくなり操業中止となりました。
昭和12年(1937)磐城セメントの所有となり石灰石を採掘。昭和29年(1954)に日鉄鉱業が買収し、銅鉱石以外にも様々な鉱石が採掘され、一時タングステン鉱は日本一の生産を誇りました。
かつてこの場所には、鉱山従業員の家族が多く住み、学校も開設しました。当時大野小学校の分校であった八茎分校は現在杉林になっています。当時銅山が隆盛だったことを偲ばせる銅山神社も周囲の鉱山を見渡せる場所にあります。
山道を小川町に向かうと途中には、「千軒平溜池」といわれる農業用ダムがあります。かつて鉱山住宅が1,000軒あった頃からこの名前が付けられました。その先には「逢瀬の滝」といわれる「男滝」「女滝」の2つの滝があり、周囲の風景と相まって四季折々の素晴らしい表情を見せてくれます。』(「いわきヘリテージ・ツーリズムマップ」より)

ということで、記念すべき最初のヘリテージ・ツーリズムはこの八茎銅山に向かいます。

新八茎鉱山

いつもの様に蟹洗温泉のある国道6号線から県道41号線へ、そして県道363号線に入れば後は一直線です。
ツーリズム案内図 何故かマツタケで有名!?な玉山温泉街を抜けるとよつくらツーリズム案内図があるので、ここでおおよそのポイントはチェックできるようです。
この案内図などはヘリテージの観光資源化の最たる象徴でしょう。

石灰石置き場 ここからひたすら走ると、長閑な山間の風景の中に突如、子供の遊び場の砂場を数万倍大きくしたような砂?置き場が現れます。

どうやら石灰石のようです。
石灰石置き場 ここに石灰石が、貯められて運搬されていくようです、トラック出入りにつき注意の看板がありましたから。

ところで石灰石とは何・・・、といわれるとグランドに線を引くあの石灰の元、としか思い浮かばないのですが・・・。
石灰石とは、一般的には石灰岩を採掘して利用できる大きさにしたものです。 石灰岩は主に方解石という鉱物からできている岩石で、この石灰岩を鉱業的に資源として取り扱う場合は鉱石名として石灰石と呼ぶのです。したがって、このような鉱山では石灰岩そのものを石灰石と呼んでいるようです。 日本には石灰岩が全国的に分布していて、有名な石灰岩地形としては秋吉台(山口県)のカルスト地形や、猊鼻渓(岩手県)などの渓谷地形があるそうです。
一番の用途はセメントの原料ですが、骨材や鉄鋼、そして石灰として化学工業の原料、肥料・農薬などに使われていますが、意外なのが食品にも使われていることです。 これは石灰石粉末(タンカル)というもので、パン、クラッカー、ビスケット、麺類・マカロニ類、チョコレートなどに使われているそうで、タンカルとはは石灰石から製造した炭酸カルシウムの微粉末ですから、食品に使用しても安心というわけです。

参考:【石灰石鉱業協会】http://www.limestone.gr.jp/

石灰石置き場からまたしばらく走ると、様々なサイトやブログでよく見かける写真の光景を見ることができます。
新八茎鉱山 オレンジ色の屋根が特徴の新八茎鉱山の工場です。実際に見ると結構大きな工場のようです。

新八茎鉱山 工場に近づくと、安全第一のモニュメントといえるようなサインが設置されています。緑十字はわかりますが、「0」は事故ゼロを表しているのでしょうか・・・。

やはり鉱山ですから何をおいても安全が優先という意味でしょうね。

工場の前に立つと本当に大きいのを実感します。
新八茎鉱山 時折車や人が動いているので、当然稼動しているのでしょうが、休日は何となく廃墟っぽく見えるのかなあ、などと勝手な想像をしてしまうほど世俗的なものとかけ離れている感じです。

工場を横目で見ながら先に進んだところで、再び工場方面を見ると実に壮観な風景が広がります。
新八茎鉱山 こんな山奥にドカンと建造物がある風景は、何処となくダムエリアと共通する自然と無機質な建造物の織り成す一種の荘厳さを感じます。

山間の農家や田んぼの見える風景より、私的にはこういったミスマッチ的な風景が好きですね。
さて、ここからは未舗装で狭い道を進みます。

銅山神社

狭い道路を少し進むと「銅山林道(自動車道)起点」の標柱が現れます。
銅山林道 狭い未舗装となったのはこのためですね。
いわき散策をはじめてから、随分と林道を走る機会が多くなりましたが、関東平野で生息している私としては、いまだ林道には慣れません。

しばらくゆっくりと林道を進むと道は二手に分かれます。右が「千軒平溜池」方面で、左が「銅山神社」方面です。どちらにいくにしても、両方へ行くなら一度この交差点に戻ってこなくてはなりませんので、まずは左の「銅山神社」方面に向います。
銅山林道紅葉 まさに渓谷の中を進むのですが、若干紅葉には早いようです。

それでもその雰囲気は味わえますので、最盛期はやはり大層綺麗なものでしょう。

右手にポツンと取り残された地蔵が一体祀られています。
銅山林道地蔵尊 その周りには庚申塔らしきものもあります。屋根で覆われているので、それなりの由来のある地蔵尊なのでしょう。
きっとこの辺りが賑わっていたころには、近所の人たちがお供えをして祈願していたのでしょうか。

林道をゆっくりと進むのですが、運転していると妙に明るいのは何故と思い巡らせていると、道に雪が積もったように真っ白なのです。
銅山林道 ある意味雪のない季節でも雪道を走っているような、ちょっと不思議な感覚が味わえます。

よくよく考えれば直ぐわかることで、要するに石灰石なのでしょう。恐らくトラックか何かで運搬する最中に零れ落ちたものではないかなと思います。
なかなか良い景色です。
銅山林道発破案内 先にあるこの看板もブログなどではもうお馴染みの看板でしょう。

ある意味見慣れているので新鮮な感動はありませんが・・・。

そしてしばらく進むと右手に「銅山神社」が現れます。
銅山神社

銅山神社
銅山の安全と地域住民の平穏を祈願して造営され、周囲の山々や学校(八茎分校)が見える場所に鎮座しています。』(現地案内板説明文より)

鳥居の先の参道は階段で、登ったところが直ぐ社殿の小さな社です。
銅山神社 銅山神社

銅山神社 拝殿に掲額はなく、社殿の中に銅山神社の社額がありました。

かつて正月や祭礼の際には多くの人が参拝する姿を想像します。銅山の鎮守として、多くの銅山関係者から崇敬されていたと思われます、きっと。
紅葉 周りの山々ももう、紅葉し始めています。当時は多くの人たちが紅葉を楽しんだのでしょう。

ところでこの説明文にもある八茎分校は、当然今はないのですが、分校跡の道標があるとパンフレットには掲載されていましたが、何処を探しても見つかりませんでした。
ちなみにその分校は昭和38年(1963)に廃校になったそうなので、それほど古い話ではないようです。私自身、その頃は小学校の2,3年生でしたから。
ちょっとノスタルジーに浸れそうな「銅山神社」でした。

八茎鉱山跡

銅山林道 「銅山神社」を後にして、林道を先に進みますが、この辺りから林道は川沿いに進むようです。

左側が山肌で、右側が崖というこの上ないスチュエーションです。ただ、さすがにここは銅山の採掘の関係からか幅は狭いながらも、よく整備されていて所々に待避帯があるので、安心して走れるといったところです。
橋げた跡 途中の川沿いに橋桁らしきものが残っていました。
すでに樹木が絡んでいて周囲と同化し始めているので、ちょっと判りにくいですが、林道部分と崖の先に木造の橋桁を見ることが出来ます。

銅山の関係か、あるいは地元住民のためか、いずれにしてもこのような所にかつては橋がかかっていたのでしょう。

狭い林道をしばらく進むと急に広い場所に到着します。
八茎鉱山跡 ここが「八茎鉱山跡」のようです。

八茎鉱山跡 ゲートが閉じられていて中に入ることは出来ないようです。

八茎鉱山跡 正面にあるトンネルの入口が「320m通洞坑」と呼ばれる坑道のようです。
これは坑内の鉱物を運んだトンネルです。320mという数字は採掘現場までの距離を示しているのだそうです。

そしてその左側にあるのがカラミ倉庫とよばれるものだそうですが、樹木が邪魔してよく見ることはできませんでした。

この銅山の歴史は先にその概要で知りましたが、もう少し詳しく調べてみます。
八茎鉱山は和銅年間(708から714年)に発見されたとも言われていますが、公的には明徳2(1391年)年の南北朝の時代に発見されたとなっています。いずれにせよ歴史は古いようです。
最初に開発されたのは説明では、江戸時代の寛永2(1625)年となっているのですが、実際は天正元(1573)年から慶長7(1602)年まで太田城主の佐竹氏によって開発されたようです。しかし、佐竹氏が秋田に転封されてからは平藩主内藤氏が開発を継続したようです。それが寛永2(1625)年のことだったことのようです。
明治を迎えてからは当然藩は消滅してしまったので、個人経営で採掘が継続され、明治23(1890)年:佐野利八、明治33(1900)年:藤本厳猛、明治36(1903)年:西村準三郎といった具合です。
そして明治39(1906)年、説明にあったとおり、ドイツ人の経営する輸入商社オット・ライメルス商会と先の西村準三郎の共同出資により「八茎鉱山合資会社」が設立され、個人経営から会社経営へと移り変ったのです。
そして、その翌年の明治40(1910)年、八茎鉱山の社長であった広瀬金七と実業家岩崎清七が磐城セメント(後の住友大阪セメント)を設立し、常磐線四ツ倉駅隣接地にセメント工場(四倉工業所、後の四倉工場)を建設しました。四倉工業所が操業を開始したのは明治41(1908)年で、この磐城セメントに八茎鉱山は石灰石を供給するというマーケティングの王道を行ったのでした。
しかし、大正期に入って前述のオット・ライメルス氏はスパイ容疑により、徐々に事業が振るわなくなり、大正14(1925)年に閉山となり、閉山後の翌年の大正15(1926)年、八茎鉱山は磐城セメントと合併し、鉱山の経営権は磐城セメントに移り石灰石を採掘したのです。
そして、昭和29(1954)年には、日鉄鉱業が磐城セメントより鉱業権を買収し、昭和46(1971)年タングステンの開発に着手し、一時タングステン鉱は日本一の生産量となったのは先の説明の通りです。
順調に見えた開発ですが、徐々に経営も鈍化し、昭和53(1978)年には日鉄鉱業が八茎鉱山から分離され、鉱山の経営権は八茎鉱山に移ったのでした。 しかし、昭和58(1983)年には八茎鉱山が閉山し、新八茎鉱山として発足し、タングステン・ダンカル・砕石で再出発し、現在に至っているのです。
時代の流れとはいいながらも、現在ではダンプカー1台の石灰石が1万円ほどにしかならないとの話もあるようで、歴史を持ちながらもいずれ歴史の中に埋没してしまう運命なのでしょうか・・・ね。

カラミレンガ 「八茎鉱山跡」の左側の林に、先ほどよく見えなかった「カラミレンガ」の跡が残されています。

カラミレンガ 灰色のレンガで、銅を精製する際に生じる廃棄物(カラミ)を固めて作ったレンガなので光沢があります。
現代で言うところの所謂エコレンガですね。

銅山だったことを偲ばせる貴重な遺構でしょう。

八茎鉱山跡 鉱山跡の右手には、先ほどの林道から続く真っ白い林道が続いているのですが、ここからは立ち入り禁止となっています。
この先ではまだ石灰石が採掘されているのでしょう。
それゆえ林道が更に白さを増している感じです。

八茎鉱山跡 そしてその横には清流が、そして上には紅葉と青空といった、これ以上ないような光景が見られるのですが、若干紅葉が不足しているのが悔やまれます。

大自然の環境の中で楽しめるヘリテージ・ツーリズムは、頭にも身体にも良いかもしれません。

逢瀬の滝

八茎鉱山跡を見た後は、ヘリテージではありませんが、やはりメジャーな「逢瀬の滝」へ向かいます。
ここからの銅山林道はさすがに白くはありません。そう運搬車などが通らないため、より狭くそしてより起伏に富んでいます。
とはいっても、待避帯もきちんと整備され、起伏も一般の乗用車(私のはフリード)でも、それほどスピードを出さなければ、下を打つこともありませんので十分ドライブが可能です。
しかしながら、こう言った標識はどう理解したらよいのでしょうか。
落ちてくる石に注意 落石注意ではなく、落ちてくる石に注意という標識です。

子供が遠足で歩くから判りやすいように・・・、ってなことはありえないでしょうが、何となく奇異な標識です。

ここから10分ほど走ると「逢瀬の滝」に到着です。

逢瀬の滝(男滝・女滝)
仁井田川の源流にある滝で男滝、女滝の2つの滝があります。恋の逢瀬を願う伝説があり、上下に連なるところから夫婦滝とも言われ、その滝のしぶくさまは夏の風物詩となっています。』(現地案内板説明文より)

「逢瀬の滝」とはまた古風な名前の付いた滝です。源氏物語で光源氏が思いを寄せる女性の家に人目を偲んで通う場面を逢瀬といい、人目を偲んで愛し合う男女がひそかに会う機会という意味になります。
2世代前なら、何と儚くも美しい光景かもしれませんが、現代では何となく不倫のイメージを持ってしまうのは私だけでしょうか。
最も逢瀬という言葉自体使われていないでしょうが・・・。

逢瀬の滝の四阿 ちょうど林道のそばの小高いところに四阿がありますが、かなり古ぼけています。

逢瀬の滝の社 その四阿のところに上がると、その先に社がありますが社号はわかりません。

逢瀬を偲んで願をかけるためにあるのならば、随分と粋な計らいをしてくれるものです。

さてその肝心の逢瀬の滝は、その名称不詳の社をさらに奥へ進みます。
上に登る小道(というより急坂)と下に下りる小道(というより急坂)の2本あります。まずは元気のある内に上り坂の方へと登ります。(後々考えれば一番疲れているときに、下り坂の帰り道である上り坂があるのですから、本来は反対に行くべきでしたが、まあ、それほどの長い坂ではないので、一般の方も十分上り下りできます。)
そして着いた先がこの「男滝」です。

逢瀬の滝「男滝」 一本太い筋が通っているような姿がまさに男滝です(って、女滝を見ないうちに、そう言えるのか・・・)。
横に広がった細い滝は、白糸の滝ミニチュア版ということで、豪快さと繊細さを持ち合わせたまさに男性の象徴のようです・・・。

ちょうど「男滝」が落下する地点から一段直角に岩があり、そこからまた落下していると思われるのが「女滝」なのですが、ちょうど見えない角度になっています。
写真では判りにくいですが、これでも落差は2、30mあるそうです。
しばし、豪快な「男滝」を見てから一旦社にもどり、そこから「女滝」に向います。

「女滝」は「男滝」の下にあるので、社からは下り坂となり、すぐ「女滝」が現れます。
逢瀬の滝「女滝」 「男滝」よりは細く、直下型ではなく、多少の曲線を描いて落ちてくる様は、まさに品を作った女性そのもののようです。
流石に「女滝」とはよく言ったものです。

そして、「女滝」の上に「男滝」があるのですが、どのように角度を変えても、一緒に見ることができません。
まさに「男滝」と「女滝」が一緒にいるところを見られないように配置された自然の妙、まさに「逢瀬の滝」そのものとでもいえるのでしょう。

「逢瀬の滝」をあとにして、「千軒平溜池」に向います。
この銅山林道は、ここまま先に行っても抜けられるのですが、「千軒平溜池」に行くにはこの林道を戻らなければなりません。
一度通ってきた道なので、今度は余裕をもって戻れますが、余裕を持ちすぎてついスピードアップし岩で車の下を打ちました。
やはり林道、なめたらいけませんね。

八茎鉱山跡、銅山神社、新八茎鉱山を抜けて銅山林道方面と千軒平溜池に分かれる地点まで戻ってきました。
ここでちょっとしたアクシデントが待ち受けていました。
なんとその交差点で工事をしているではないですか。トラックが2台で、ちょうどその交差点をまたぐような溝の清掃でしょうか、溝に被せられている鉄格子を外しています。
林道工事中 戻ってきたときは、1枚だけ鉄格子が残されていて、車1台分ぎりぎり通れたのですが、千軒平方面への道は鉄格子もなく、さらに大型のトラックで道がふさがれています。

工事作業者のかたに「千軒平の方に行きたいのですが・・・」と聞いたのですが、見事な笑顔を作って「申し訳ありませんねえ」と言われたら諦めるしかないでしょう。ごねれば何とか通してくれたかもしれませんが、まあ、旅先で嫌な思いをしても仕方ありませんので、これもポジティブシンキングで行くしかないでしょうね。
まあ、道路工事は良くあることですが、迂回路も全く無い工事にあったのは初めてです。これも珍しい経験ができたと思っておきましょう。

ということで、前半のいわきヘリテージ・ツーリズムは終了です。
今日は少し早いのですが、PM4:00頃には蟹洗温泉に到着し、のんびり温泉につかって疲れを癒しました。

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