いわきヘリテージ・ツーリズム 《平まちなか》 #1

今回のいわきヘリテージ・ツーリズム第2弾は「近代化遺産群《平・小名浜》 いわき地域の核を形成した平、漁港→商港→国際港へと発展した小名浜のまちなみ」の平まちなみ 近代化遺産は現在にどうかつようされているのかをサブテーマとした平周辺です。
現在のいわき市の中心エリアとしていわき駅を初めとして多くの官公庁の集まるエリアです。
まずはその成り立ちの概要です。

平地区のまちの成り立ち
現在の平は、徳川家康の家臣である鳥居忠政が磐城に入封の折に飯野平城(現在の大館)から磐城平城に城を移したことから始まります。浜街道が通る城下は、田町や白銀町等に武家屋敷が置かれ、一町目から五町目は町人町で毎月2・8日には市が開かれていました。鍛冶町は刀鍛冶の町で、現在も町を火事から守る水天宮の社があります。町屋は間口が狭く奥行きが深い短冊形に区画されていて、今でもその跡を見る事が出来ます。
明治22年(1889)の市制・町村制施行により平町が誕生しました。平は浜通り地方の中心都市になり、明治30年(1897)には日本鉄道磐城線(現JR常磐線)が平まで開通、輸送力の向上と共に石炭産業と漁業の繁栄が重なり、大いに賑わいました。
戦後、周辺の市町村と合併を繰り返し、昭和41年(1966)には5市4町5村が合併していわき市が誕生し、市庁舎が平に置かれ、いわき市の政治、経済、文化の中心地区となっています。
平成19年(2007)には、芸術文化交流館「アリオス」やいわき駅前再開発ビル「ラトブ」などが建設され、さらなる教育・文化の交流拠点としての役割を担っています。
(「いわきヘリテージ・ツーリズム」パンフレットより)

説明にもあるとおりいわき市の始まりは磐城氏の飯野平城からで、その後江戸時代になって磐城平城にかわり、ここを拠点として現在のいわき市が形成されおり、その飯野平城も磐城平城も現在のいわき駅の北側にあたり、【いわき散策記 vol.1】で平城址を、【いわき散策記 vol.3】で大館城址をそれぞれ散策しています。
きしくも今回のツーリズムはいわき駅の南側である城下町を訪ねる企画となっているので、町人文化を知るにはうってつけの散策のようです(しかもダブらないし)。
そこで散策の前に平の町の概要だけ掴んでおくことにします。

磐城平に転入した鳥居忠政は、それまでの飯野平城を中心とした町から、武家町・町人町・寺町を分ける近世城下町に変えました。
1604(慶長9)年に町の基礎が完成し、町人達に防災、清掃、警備・治安などの責任を持たせました。それらの町割が以下のような大きく3つの分類となるのです。

1.武家町
六間門・揚土・八幡小路・道匠小路・曲松・杉平・桜町・掻槌小路・田町・柳町・梅香町・四軒町・白銀町・番匠町・鷹匠町・仲間町など
2.仲間・足軽町
仲間町・風呂ノ沢・胡麻沢・新町・立町・久保町 など
3.町人町
一町目・二町目・三町目・四町目・五町目・十五町目・久保町・紺屋町・研町・長橋町・材木町・菩提院町 など

以上のほかに刀鍛冶の根本国虎や鈴木貞則などの名工がいた鍛冶町や、鳥居時代の後の内藤時代に造られた新しい町である新川町・鎌田町・北目町などは、従来の町奉行の管轄の町人町ではなく、郡奉行管轄となった町です。
そして磐城平城下の玄関である長橋口・鎌田口・久保町口には、惣木戸が設けられたそうで、現在では、長橋口が尼子橋北口(内郷御台境交差点)付近に、鎌田口が平大橋東口(鎌田交差点)付近に当たるのだそうです。

これらの予備知識をもって散策の開始です。

旧諸橋呉服店

国道6号線といわき駅前からの国道399号線の十五町目という交差点の角に市営駐車場があるので、車をこの駐車場に停めて散策を始めます。まさに町人町の真っ只中ということでしょう。
新川町交差点 先ずは国道6号線沿いを東へ信号2つほど先に進むと新川町交差点に到着です。
このあたりは文字通り新川町で、先の説明であった内藤時代の当時としては新しい町です。

この交差点のところに、当時磐城平城の「長橋門」が移築されているとのことから訪れてみました。
長橋門移築付近の民家 長橋門移築付近の民家 民家に移築されたとのことで探したのですが、角にある住宅の門が立派なので・・・、それにしても新しすぎるのでこれは違うのでしょう。
このお宅には蔵もあるようなので、この土地の名家なのかもしれません。

残念ながらそれらしい門は見当たりませんでしたが、雰囲気だけ味わって次に進むことにします。

旧諸橋呉服店 新川町の交差点から北上すると間もなく右手に「旧諸橋呉服店」があります。

旧諸橋呉服店
明治17年(1884)創業。
土蔵造りの店舗は明治38年(1905)に建築され、基礎は石垣のように組上げられています。
(「いわきヘリテージ・ツーリズム」パンフレットより)

現在店舗は閉店されているようですが、まさに呉服商らしい重厚な蔵造りの典型的な建造物と言えるのではないでしょうか。
戸や窓がサッシになっているのは若干残念ですが、それ程荒れた感じも無いことから比較的最近まで使用されていたのでしょう。
白い壁もまだまだ綺麗な状態で保たれているようです。

唐突ながら、日本全国に「チャーチル会」なるものが存在しています。
この「チャーチル会」とは、1949年、戦後復興のなかで絵でも始めようとした銀座の文化人たちが、当時のイギリスの首相であるチャーチル卿が「絵を描くことは他人に迷惑をかけず、全てを忘れることが出来る、最も良いホビーだ」といった言葉から「チャーチル会」という名称でスタートした趣味の絵画会なのです。
この当時の創立会員は、藤浦洸、石川滋彦、森雅之、長門美保、杉浦幸雄、 高峰秀子、宇野重吉、横山隆一のそうそうたるメンバーだったようです。その後会も発展し、活動も全国的となり現在全国に53支部あるそうです。

その「チャーチル会」がいわきにもあるのです。
そのいわきのチャーチル会が創立する22年前から会の中心として活動されたのが諸橋富彌氏です。名前からも薄々想像できるようにこの諸橋富彌氏の生家がこの旧諸橋呉服店なのです。
かつて旧平市内の古民家が次々と解体されていく中で、チャーチル会を中心に市内の画家や絵画クラブに呼びかけ、由緒ある古民家を描き残そうと一年をかけて描き、2000年12月に旧大黒屋デパートと龍ヶ城美術館で「心に残る風景画展」を開催したそうです。
そのとき、諸橋氏が描いたのは、子供の頃の店頭風景を再現し、絵の中に子供の頃の本人と両親、客などを描き加えた作品だったそうです。
現在、諸橋氏はお亡くなりになっているそうですが、是非この建物のなかでその絵を見たいものですね。

松崎商店

松崎商店 「旧諸橋呉服店」から更に2.3分北上すると、やはり右手に「松崎商店」があります。

松崎商店
明治初期、食品、酒、雑貨などの小売業として創業。
建物は手挽き製材したものを使用、壁は37cmの厚みのある土蔵造りです。
(「いわきヘリテージ・ツーリズム」パンフレットより)

手挽き製材とは文字通り手で(手動ののこぎり)で切った材木と言うことでしょう。昭和20から30年位までは見かけられたそうですが、現在では当然機械製材が一般的です。しかし、その様な中で極々僅かながら現在でも手挽きが行われているようで、銘木等の場合に手挽きが行われるようです。
これは、銘木の原木の買い付けが経験と勘といったギャンブルと似ているように、その原木から最高の価値ある板を挽くのもまた経験と勘にたよるためだそうです。つまり原木の木目を読み取り最高の木取りをして鋸挽きするという、その職人技が必要となるからなのです。
その理由は、機械製材に比べて手挽きのほうが歩留まりが格段に良い(鋸挽きによるロスが少ない)為、こ原木が高額であればあるほど重要となるのです。更に手挽きの場合は機械挽きと違って熱を発生しないため、材面を痛めず挽き面もきれいで、杢もきれいに出るとも言われているからなのです。
この当時の手挽きの仕事に関しては「墨かけ十年、読み一生」と云われる、職人技があったようです。
この建造物であえて手挽きと云うのは、やはり原木が比較的良いものであったことをあらわしているのかも知れません。

松崎商店 建物の横には、「ふすま紙、かべ紙 松崎商店」ととかれた看板がでています。
ということは現在でも開業しているということですか。

今日は土曜日で休みのようなので店内の様子はわかりませんが、店内には「古梅園製墨」と書かれた大正初期の看板があるそうです。
当時、墨の「古梅園」という店の代理店だったことを意味しているようですが、流石、明治時代に創業した店舗だけあって歴史的に貴重なものなのだろうと感心しきりでしたが、何気なく「古梅園」を調べて2度驚きました。

この「古梅園」というのは奈良と京都に店舗がある墨の老舗のようで、何と1577年(天正5年)創業の400年以上の歴史をもつというどえらい店で、しかも現在でも続いて営業をしているのだそうです。
天正と言うことは江戸を越えて安土・桃山時代で、先週の大河ドラマ「江」で放映されていた、浅井長政の自害が天正元年で、ちょうど5年と言うのは足利義昭が追放されて室町時代が終焉した頃なのです。
流石に京都・奈良にはどえらい歴史がありますね。

参考:【古梅園】http://www11.ocn.ne.jp/~kobaien/index.html

そんな京都・奈良の歴史にもホンの触りだけ触れられた「松崎商店」でした。

旧釜屋

土曜日とあって道も閑散として寒々しいのですが、先に進むと信号のある交差点の到着します。ちょうどこの交差点の左角あたりが五丁目となりますので、嘗ての「五町目」なのでしょう。

五丁目周辺の旧浜街道 交差点を左折していわき駅方面に向います。この通りは「旧浜街道」で、現在の6号線にあたる嘗ての主道路です。
江戸時代は多くの人々がこの通りを闊歩したのでしょう。

五丁目商店街 そして現在この通りは商店街となっており、この交差点周辺は五丁目商店街の道標があります。

そして1ブロックほど進むと左手に大きな蔵の建造物があります。

旧釜屋 これが「旧釜屋」と言われる建物のようです。

旧釜屋
江戸時代、元禄13年(1700)創業、平藩御用商人でありました。
明治39年(1906)の平の大火直後、耐震耐火を基本に建築されました。重厚な蔵造りの店舗は総ケヤキ造りで、店舗脇にある蔵の材料は、イギリス製赤レンガを使用しています。
(「いわきヘリテージ・ツーリズム」パンフレットより)

旧釜屋 何と300年以上の歴史を持った店だったのですね。
蔵が合体したようなつくりで重厚感どころではない、迫力を感じます。

しかしながら何故に釜屋だったのでしょう。

そもそもこの釜屋は、平藩の鋳物師の家系である諸橋家を継いだ初代諸橋久太郎によって創業され、その後、鍋・釜などの金物類の販売を行い地元の名士となり、そこから「釜屋」となったのでしょう。特に4代目久太郎(1863から1930)は商才に長けており、次々と事業を拡大したそうで、「諸橋金物株式会社」から「建設資材卸会社”諸橋”」と名前を変えながら発展していったようです。
その4代目が当主にあった明治39年、平の大火災が発生し、店舗や居宅を焼失してしまいました。
旧釜屋蔵造り これを教訓として明治41年に土蔵造の店蔵が造られます。

旧釜屋耐火レンガ造り 続いて明治44年に耐火レンガ造りの袖蔵が作られました。

旧釜屋石張り建築 その後、大正初期に両建造物が洋風の石張り建造物でつながれたのでした。

また、一方居住用施設として店蔵・袖蔵の建設直後に、店蔵裏の2間ほど離れた位置に木造の家屋が独立して建てられ、昭和2(1927)年には、更にその奥に数奇屋造りの居宅が建てられ、その後も増改築を繰り返し規模を更に拡大していったようです。

戦災にもあわずに残っていたそうですが、平成元(1989)年の火災により店蔵裏の木造家屋が焼失し、更に平成14(2002)年の倒産により、土地・建物は破産管財人の手に渡ったのでした。
その後、奥の居宅など敷地内の建物の殆どはマンション建設のために取り壊されたのですが、「旧浜街道」側の店蔵・袖蔵、そしてそれをつなぐ石張り建築物だけが残ったのでした。
そしてこの倒産の2年後、平の精神科医である松崎氏が役員をしている会社が、何とかこの建造物を残したいと、この建物と土地を購入し改修の上で現在「サロン・ド・蔵」として存続しているのだそうです。

釜屋の由緒・由来は判ったのですが、ある意味この奇妙な建造物の建造物としての価値はいかほどのものなのでしょうか。
店蔵には、「家主五代諸橋久太郎 明治四拾壱年七月廿五日新築 大工棟梁三森寅吉」と書かれた棟札が残っているので、5代目のときに三森寅吉という大工によって建設されたことがわかるそうです。
細かいことは判りませんがポイントだけ整理すると、この建物が明治期に流行した土蔵造りながら、土壁には漆喰の代わりにセメント・モルタルが用いられ、銅版の使用や、トラスの併用など、伝統的な構法と新構法の併用が、随所に見ることができるのが重要なところのようです。
袖蔵もまた同じ三森寅吉が建築したようで、耐火レンガ造りで開口部以外の壁はやはりセメント・モルタルで化粧塗りされていて、店蔵と同じように和洋併用の構法だそうです。
石張り建築部分は、完全な洋風デザインで、1階部分は店蔵との間は開け放しとされていて、反対側は袖蔵の外壁がそのまま間仕切りになっているようで、建築構法においても貴重な建造物のようです。

このようにデザイン的にも構法的にも優れたこの建造物が、何故、明治時代のこの地で建設されたのであるかという理由に、この大工の棟梁と諸橋久太郎の家業の影響があるようです。
まずは三森寅吉という大工ですが、三森家は釜屋の所謂「おかかえ大工」で、その関係は娘婿の巳代松(1880から1954)まで続いたといわれていたそうです。
明治時代とはいへ、先進的な設計者や先進技術を施工できる建設会社は存在していたようですが、所謂地方の一大工がと考えるとかなり不思議な話と考えるのが妥当ではないでしょうか。
しかし、これにも意外な事実があるようです。

当時、三森寅吉は伝統的な手法を使いこなす、地元では名の知れた大工棟梁だったそうです。そして明治の大火の前後に当時の地元の政治家でもあり実業家でもあり常磐炭田の開発に尽力した白井遠平の依頼を受け、好聞炭鉱とその火力発電所の新築工事に携わり、白井遠平を通じて新しいタイプの建築に携わったことから最先端の技術を身につけられたとも言われているようなのです。
もう一方、社名「建設資材卸会社”諸橋”」からも判るとおり、「釜屋」自体が、いわき地方で建築材料の卸・販売を一手に手がけていた商社だったこともあり、通常は漆喰のところをセメントやモルタルが用いられていたのは、そのためであったと言われているのです。
前回の【いわき散策記vol.12-2】でのいわきヘリテージでも実際に触れましたが、いわき地方では石灰石が豊富に採掘できたことからセメント製造が発展したこともあり、更に小名浜や平では耐火レンガ工場が相次いで建設されたことなど、こうした環境の中で建設材料を扱う商社として、情報や現物そのものが入手しやすい環境にあったようにいわれています。
このような環境・背景があったからこそ、あのような釜屋の蔵が出来上がったのではないかと思われるのです。

旧釜屋 現在は前述したようにサロン・ド・蔵として活用されているようで、石蔵の部分は「ヘアーサロン」と「ギャラリー」で、袖蔵は「ショットバー」、そして石張り建築部分は「カフェ」に利用されています。

旧釜屋石張り建築内部 今回は、折角なので、中央の石張り建築部分のカフェ【珈琲焙煎 香楽】で昼食をしました。美味しいランチをいただき身も心も満足といったところでしょうか。

その店舗の模様は別途記述していますが、確かに袖蔵との境界は袖蔵の耐火レンガ壁がそのまま使用されており、歴史的にも建築的にも実に興味深い建造物でした。

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コメント

  1. Shira | -

    ありがとうございます

    こんにちは。はじめまして。
    出張中にいわき駅周辺を歩いていたところ、偶然松崎商店と旧釜屋とを見かけることができました。

    昼食にしたカフェリアという店も蔵を改装したところでした。

    写真と解説と、大変参考になりました。

    ( 17:43 )

  2. 薄荷脳70 | -

    Shiraさん、ありがとうございます。

    Shiraさん、ありがとうございます。
    お読みいただき、かつ少しはお役に立てたようで、感謝、感激です^^
    私が訪れたのが、震災前でそれ以降この辺りには訪れていないので、様子がわからなかったのですが、そのままのようでよかったです。
    最近は年2~3回しか行ってないので、返ってありがたい情報です。
    御礼すると共に、今後ともよろしくお願いいたします。

    ( 20:50 )

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