いわきヘリテージ・ツーリズム 《平まちなか》 #2

旧浜街道 旧釜屋での昼食を終えて再び「旧浜街道」を進みます。

昼を過ぎて少しは暖かくなるかと思ったのですが、天気は悪化し傘を差すほどではないにしろ、ポツポツと雨粒が落下してきました。
このまま雨になると先行き面倒です。何とか寒くても良いので雨だけは降らないで欲しいのですが・・・。

百澤通り

途中偶然にも、というか道に迷ったために、こんな路地を見つけました。
白銀小路 きっと昭和のノスタルジーとか書かれるような雰囲気の路地です。

後に調べてみたところ、この地域の「白銀町商店会」のウェブサイトを見つけました。
サイトに記載されていた白銀町の特徴という、記述がなかなか面白いので引用します。

白銀町の特徴は・・・
※ビジネスホテルがある
いわき駅の近くと言う事もあり、白銀町に「東急イン」・「ホテル平南」・「ホテルいわき」などがあります。また、白銀町の周辺にもビジネスホテルが多くあります。白銀周辺を中心に探すと見つけやすいし、食事などに出かけるにも便利です。
※飲食店もそろっています。
和洋中はもちろん夜の集まりには居酒屋・パブ・スナック・カラオケボックスなども白銀エリアにはありますよ。
※映画館
現在いわき市には、映画館が3箇所しかありません小名浜に一箇所、平に2箇所です。その内の一箇所が白銀エリアにあります。
世界館ビル:一階にパチンコ店地下一階・二階・五階に映画館の入ったビルです。
※美容室が多い
ほかの地域からすると美容室も比較的多くあるように思います。競争もあるからレベルも高いと思いますよ。
(「白銀町商店会」オフィシャルサイトより)

映画館の件が何となくローカル色豊かで、思わず笑みがこぼれそうな情景です。

参考:【白銀町商店会】http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Renge/3096/

現在のいわき駅周辺の町で、前述したとおり白銀町は江戸時代は武家町だったのですが、この町名について興味深い由来がありましたので紐解いてみます。
東京の港区に白金という地番があります。一時期「シロガネーゼ」と揶揄された場所です。このあたりはかつて砦館のあった高台であったことから城ヶ根と呼ばれ、後の豪族が多くの金を蓄えていたことから、白金の文字が当てられたといわれています。更に新宿区には牛込台地に白銀町があります。このあたりもかつて江戸城の支城があったのではないかとされている地で、やはり白金と同じように城ヶ根から派生したものといわれています。
とすれば、いわき市の白銀町も磐城平城の城下ですから、同じように城ヶ根を由来としているのかもしれませんね。
発想元は同じということですね。

ちょっと彷徨った後は「旧浜街道」沿いの百澤通りに到着です。
ちょうどこのあたりは四丁目です。

百澤通り
江戸時代の町割の姿が残っています。大谷石でできた百澤商店の3棟の蔵が縦一列に並んでいます。現在、現代風に改装し利用しています。
(「いわきヘリテージ・ツーリズム」パンフレットより)

百澤通り 極々新しいアーケードの上部に百澤通りの名称の看板が取り付けられ、簡単な門が閉まっていて中の建造物は何の変哲も無い新しい建物です。
看板を見るとどうやら飲食店のようです。

百澤通り 門の前に古い屋根瓦と案内板が置かれています。

百澤通り物語
この百澤通りは、砂糖・油・小麦粉の卸商「百澤商店」本店の土地で、明治時代に建てられた「石蔵」と「石塀」が当時のままに保存されています。
大小3棟の蔵は、明治39年2月に「平の大火」と記録されている大火災があった直後に建造され、耐火性のある大谷石が蔵の材料として使われました。
現在では通り抜けはできる通路も、昔は蔵から商品や荷物を出し入れするための運搬路路として使われ、トロッコ(荷物を乗せる鉄製の荷車)のレールが敷かれていました。
又、百澤通りの南側に接する本町通りは1000年以上も昔からあった古い道で、江戸時代には道に沿って間口4間で奥行29間(約7.2mX約52m)の細長い形の敷地で武家屋敷が並んでいましたが、明治7年に「奥州陸前浜街道」と命名された後、現在のような卸問屋や商店が並ぶ通りになりました。
その本町通りに沿って南北に細長い敷地の形は今でもそのままです。百澤通りには古い石蔵の通りを現代の新しい町の環境として蘇らせ、「生きた通り」にすることを心がけました。
(判読できず・・・以下略)
平成3年7月29日 株式会社百澤商店
(現地案内板説明文より)

百澤通り まあ、確かにここから見える通路がかつてトロッコのレールが敷かれていた通路でしょう。
それにしても蔵は・・・。

隣の病院の敷地を失礼して通り抜けると確かに蔵がありました。
DINING ダリコ DINING ダリコ 3棟並んでいるのが見て取れます。
現在「DINING ダリコ」という店舗になっているようで、旧釜屋で昼食をとらなければ、ここで昼食をして中を見てみたいものです。

かつての百澤商店というのは、油や粉の問屋だったそうですが、それ以上の来歴はわかりませんでした。
それでも、こうして現代に活用されているのですから、その理念もそうですが、建築物の耐用年数に驚かされますね。

旧釜屋といい流石に蔵造りです。

ナカノ洋品店

百澤通りから旧浜街道を西へ進むと、一本の広い通り国道399号線と交差します。ここが三丁目と四丁目の境界で、交差点を渡れば三丁目となります。 駅前ストリート 折角なのでこのまま先に進まずに、一旦国道を北上しいわき駅に向かいます。
流石にいわき駅前ロータリーに突き当たるメインストリートだけあって綺麗に整備されています。

JRいわき駅 正面がいわき駅です。
嘗て30年前位に初めて訪れたときは平駅で、殆どその面影は無いように思えます。

平城址 駅の向こう側に見える小山が平城址でしょう。
江戸時代の歴史を綿々と伝える中心地ですが、以前訪れたようにかなり土地開発により歴史も薄れかけているように感じます。
それでも開発派も保存派もそれほど饒舌ではない感じが返って心地ようですね、私には。

ラトブ その開発・・・、再開発のシンボリックな建造物が駅前にあるLATOVです。

「いわき」の頭文字「i」を「愛」と考え、愛は英語でラブ。 「ラとブ」で構成された単語です。そして「ラ」は漢字で「等」。 複数の人=市民を表し、「ブ」は「奉」。奉仕の気持ちを表します。 「ラトブ」は多くの市民に仕え、愛される施設となることを願っています。
(LATOVオフィシャルサイトより)

非常に思いの込められた名称だとは思いますが、「「あ」なたに、「げ」んきを、「お」くるまち、上尾市」と言うのも老若男女判り易くて良いと思うのですが・・・。
そうそう、結局LATOVって何となるのですが、公共施設から商業施設まで同居している、とってもコンビニエンスな複合ビルです。
行政の届出書や申請書、証明書など日曜日でも取れるところがミソです。

ナカノ洋品店 ここから再び旧浜街道との交差点に戻り、旧浜街道を進むと右手に望楼のついたモダンな建物がそびえています。

ナカノ洋品店
大正6年(1917)建築。当時石城郡で唯一、煙草の元売捌所である「中野煙草元売捌所」として設立。
その後店舗として使用されました。
(「いわきヘリテージ・ツーリズム」パンフレットより)

煙草の元売捌所とは興味をそそられますので、調べてみました。
江戸時代の煙草は刻みタバコをキセルで吸う喫煙文化だったのですが、明治時代以降の紙巻タバコの普及により日本のタバコ文化が手軽な紙巻タバコにシフトしていきます。
そして、明治維新以降様々な日本の制度が新しくなる中で、タバコもまた例外ではありませんでした。この当時のタバコ製造・販売は全くの民営時代で、『天狗煙草』の岩谷商会、『ヒーロー』などの外来語を商品名にした村井兄弟商会などの企業があったようですが、明治9年の「煙草税則」で営業税と商品個々の印紙税を徴収、ついで同16、21年の税即改正、同31年の「葉煙草専売法」により税収入の増大を図ったのです。これらの税収アップの背景は、日清戦争後の財政的要請によるものでした。
しかしながら、葉タバコの密耕作や横流しの横行により、思うように税収の増大は図れず、その後、欧米資本による国内のタバコ産業の独占の恐れも生じ、更に日露戦争の戦費調達の必要にも迫られたことから、明治37年、「煙草専売法」が施行され政府がタバコの製造販売に踏み切ったのです。これにより原料はタバコの買い上げから製造販売まで国の管理で行われることとなったのです。
こうしてタバコ産業は政府の専業となり、それまでタバコの製造・卸を行っていた民間会社は「煙草元売捌人」として指定され、煙草問屋としての商いに変わったのです。
そして、昭和6年にはタバコの販売が煙草売渡制に改められ、一郡一人を指定する営業所制になったそうなので、この当時の石城郡の煙草売渡制での営業所として指定されたのが、この「中野煙草元売捌所」であったということでしょう。

ナカノ洋品店 その後、どのような経緯で洋品店となったかはわかりませんが、モダンな建物が現在の町でも似合っています。

ダルマ市 ナカノ洋品店 ちょうどこの日は平二丁目商店街の市神様のダルマ市の日のようで、イベント用にこんな大きな絵馬が鎮座していました。

まだまだ正月の装いを感じます。

原歯科医院

ナカノ洋品店から更に先に進むと2丁目と1丁目の境界である交差点です。
3丁目交差点 オシャレなラウンドした信号が雰囲気を一変させ、実に現代的な空間です。

南の方角は南レンガ通りというそうで、遠くに見えるドームのある建物は「市立文化センター」の建物です。

旧浜街道平第1公園 ここはこのまままっすぐ進みます。
すると右側に何の変哲も無い「平一丁目公園」があります。
これもいわき駅前再開発の一環で出来上がった公園ですが、町の中に森の緑が感じられるよう「クマ」をイメージしたデザインの公園なのだそうですが、何処がクマなのかは全く判りません。

あくまでイメージなのでしょうかね・・・。

原歯科医院 その先は変則なT字路になっていて、右折して進むと右側に「原歯科医院」があります。

原歯科医院
大正10年(1921)頃、平地区で最初の歯科医院として創業。洋風建築でドイツ下見板張りの外壁、棟の三角形の飾り等の大正時代のモダンな建築です。
(「いわきヘリテージ・ツーリズム」パンフレットより)

ドイツ下見とは板等の接合法の一つで、目地が大きく見える用に張りあわせる方法のようです。
原歯科医院 よく見れば確かに目地が広く見えますが、ペンキが剥げたままなのがちょっと残念ですが、他人がとやかく言うのも失礼な話ですね。

原歯科医院 よく見れば確かに細かいところが丁寧に、そして煌びやかに作られています。

平地区で最初の歯科医院ということが実に歴史的にそそられるのですが、全く何の事実も噂もわかりません。
今日は土曜日なので休診なのでしょうが、現在でも現役でされているのは何となく嬉しいですね。

塩屋山崎合名会社

紺屋町商店街 「原歯科医院」の前の通りが紺屋町商店会のようです。当然ながら染物商が多く住んでいたのでしょう。

塩屋山崎 医院の前の路地を西に進むと「塩屋山崎合名会社」の建物があります。

塩屋山崎(名)
天保10年(1839)に塩問屋として創業。その後明治10年(1877)頃、味噌・醤油の醸造元になりました。屋根の木地に土を厚く盛り、その上に瓦を載せた構造です。
(「いわきヘリテージ・ツーリズム」パンフレットより)

江戸時代における塩の生産は十州塩田といわれる瀬戸内海沿岸の播磨・備前・備中・備後・安芸・周防・長門・阿波・讃岐・伊予の10ヶ国が主要な生産地で、この十州で全国製塩量の80から90%を占めるという寡占的な地位にあったようです。
そして、これらの生産地では生産者による直接の販売が禁じられていたため、塩問屋が流通に関与することとなり、塩廻船といわれる流通システムが確立されたのです。これらによって十州塩田の塩は全国に流通したようですが、東北太平洋側ではかなりの部分を自給自足していたようです。
当時の福島県地域の塩は、磐城の浜で生産された塩と茨城県平潟九面両港に荷揚げされた瀬戸内の移入塩が主だったようです。そしてこれらの塩は荷駄に詰まれて中通りから会津に運ばれていたそうで、現在のいわき市田人町の戸草川辺りから、古殿町をとおり、須賀川・会津へ向う塩の道と言うのがあったようです。
このような背景と地理的なことから「塩屋山崎」も大層繁盛したのではないかと考えられます。
しかし、明治以後、塩問屋は組合形式・会社形式の新組織となり、明治38年にはタバコ同様、塩も専売制となったことから、塩を使った味噌・醤油の醸造元となったのでしょう。

建物を見ると左側の白い蔵が重厚です。蔵の2階建てなのでしょうか、かなり大きい蔵なのが当時の繁栄振りの名残でしょう。
塩屋山崎 塩屋山崎 母屋は大分改修されたようですが、屋根等を見ると確かにしっかりした頑強そうな造りです。

塩屋山崎蔵 塩屋山崎蔵 道路を隔てた前にも古い蔵がありますが、こちらはかなり痛みも酷く入口は封鎖されているようです。
蔵についているロゴに山印がついているので、やはり塩屋山崎のものなのでしょう。

現在は不動産取引をされているようですので、恐らくこのあたりの広大な土地を所有しているのでしょう。
江戸から続く豪商であったことを窺わせてくれます。

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